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大学で学んだこと

大学では勉強をした。
高校ではほとんど勉強をしなかったけど、映像と出会って、学びの本質を知った。
学びの対象は大部分が映像、広告、藝術に関するもので、残りが教養だった。

大学では70ほど、授業と実習を受けた。
それぞれ違った学びがあって面白かったが、特に印象に残っているものは数少ない。
ここでは5つの学びを振り返ろうと思う。


§北野ゼミ(映像文化)

毎週A4、2-3ページの批評

これが北野ゼミ3回生の通例課題であった。
文字だけ見ると簡単かもしれない、「あ、たった2-3ページか」と。

しかし、この課題は恐ろしかった。
批評の審査官は、日本トップの映画研究者、北野圭介先生、映像学部の先輩であり教授でもある、大崎智史先生、そして、一個上の4回生10人くらい。
ゼミでは自分の番が回ってくると、最初に自分の論文を15分かけて全て音読する。
そして、そして、先輩と先生から自分の批評に関するご指摘を受けるのである。

論文のいろはも危うい自分の批評は破綻しているところがたくさんあり、数えきれないほど多くのご指摘を受けた。
一度自分の矛盾点が見つかると、十数人に突かれているようで、心の中ではずっと「どうか、どうか、勘弁してください、、」と叫んでいた。
そんなプレッシャーからか、ゼミ課題提出前の日・月は毎週徹夜をしていた。
が、段々とツッコミに慣れてくると、肯定されることも増え、終盤では「面白いねぇ」と言わせたい一心で夜通しの論述を楽しんでいた。

このゼミを通して、「作品を読み取ること」と「書くこと」を学んだ。
作品はただ面白いとか、ただ心地よいとか、ただ悲しいだけじゃない、
そこには作り手の伝えたいものがあり、それを読み取ることで初めて論じることができる。
この当たり前で、意外と忘れがちな事実が、映像を含む藝術を今なお発展させ、批評という文化を存在させ続けているのではないか。

§映像文化研究

90分間ずっと映画を観る、か、90分間ずっとディスカッション

映像文化研究は先ほどの北野ゼミと対をなす。
担当教授は北野先生と北村先生。
北野ゼミは自分の批評に意見をもらうことがベースとなっていたのに対し、この授業では既存の作品(主にドキュメンタリー映画)について学生がディスカッションを行い、それに先生方がアドバイスをくださる。

この授業で自分の中の「意味性の理解」が開花した。
作り手が、なぜ音楽ではなく、言葉ではなく、映像を選んでいるのか、そこには伝えたい物語とそれを視覚的に表現したいという思いがある。
なぜこの画角なのか、なぜこのレンズなのか、なぜこのセリフなのか、なぜこの間なのか、そこには作り手の思い/考えがあり、核となる物語を伝えるために、無意識的に/意識的にそれを選択している。
自分の中でこの知覚のスイッチがONになったことは、間違いなく人生の転機となった。

§ライオンズゼミ(実験映像)

ZOOMを開くとアンビエントな実験音楽が流れ出し、それが5分ほど続く。
音楽が止まったと思ったら、真夏のビーチを背景にしたライオンズ先生が暖かそうなニット帽をかぶって登場する。
そんな宇宙のような不思議な世界がライオンズゼミであった。

4回時は北野ゼミから、ライオンズゼミへと転ゼミをした。
自分の計画として、3回生は理論系のゼミで思考を鍛え、交換留学をし、4回生では制作系のゼミに移り、身につけた思考と経験を作品に写し込もうと考えていた。
(結局交換留学は行けなかったが)

そんなこんなで入ったライオンズゼミは上記のような不思議な世界であった。
このゼミは実験映像のゼミだが、担当教授であるライオンズ先生は理学博士であり、実験音楽、現代アートにも精通していた。そのおかげで、映像と音楽のつながり、それらの実験性を通してそれぞれの本質に触れることができた。
「卒業制作で写真について研究をしたい」と言ったところ、毎週授業後に写真に関するレクチャーをしてくださり、現在学んでいる現代写真アートの下地はここで作られたと言っても過言ではない。
興味深い先生と学生に囲まれながら、制作と向き合えたこの授業は今も自分の作品制作に影響を与え続けている。

§特殊講義(写真学ワークショップ)

カメラオブスクラ、ブループリント、銀盤写真、歴史でしか学べない写真技法

特殊講義ではアーティスト-荻野NAO先生のもとで写真に触れた。
授業では、レンズとセンサーがついた一般的なカメラではなく、カメラオブスクラ、銀盤写真、ブループリントなどを使うことで、身体的に直接写真に触れることができた。

人生をかけた気合いの入った作品ではなく、自分の体を使って日常の延長線上で作る作品はとても身近でやさしく、子供の頃のものづくりを思い出させてくれた。
(今考えると、この授業で無意識的に吸収していたことが、写真修士へと繋がっているのかもしれない)
また、授業では写真技術だけではなく、オックスフォード学生との交流やカメラを介して現実を違った見方で切りとることで、自然と、文化・固定概念からの解放がなされていた。
この授業では、現代社会の中で作品を生み出す、アーティストの本質を垣間見ることができた。

§映像創作論

豪華すぎる異世界

映像創作論は東京藝大の藤幡正樹教授と映像学部学長の北野圭介教授担当の授業。
当時考えても、今考えても、とてつもなく豪華で贅沢な授業だ。
「そこで何を学んだか」と聞かれると難しい、学べていないかもしれないし、学べているとしたら感覚的なものに違いない。
もちろん言葉を使って形作ることはできるかもしれないが、そんな薄く、形式的なものではない。
この授業に関して書けることは少ないが、強い影響を受けたので最後に明記しておく。


そんなこんなで、大学ではたくさん授業を受けたが、印象に残っているのは数少ない。もちろんここで書いていない授業からも意識的に知識として、無意識的に感覚として、何かを吸収しているに違いない。
というかそう書かなければ巨額な学費は報われない。

大学=人生の夏休みだとしたら、自分の大学生時代はきっと、「自由研究に明け暮れた夏休み」に違いない。

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