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SS ⑩ 「坂道の街に住む」

Y市H区は東京通勤圏の住宅地。丘陵地にあり、坂が多い。自転車での買い物はあまり行く気がしないが、電車やバスの便は多いので暮らすのに不便は無い。市内を国道1号線が通ることもあって、自動車交通量は平日週末を問わずに多い。

そんなH区のS町2丁目の300メートルほどの坂道。歩いて登るのもちょっと息が荒くなる様な急坂だが、JRの駅から近いので両側はびっしりと住宅が並んでいる。ここに住んで、もう長い高齢者世帯もちらほら。72才の遠野アイコさん、今日も駅前スーパーでの買い物を済ませ、よっこらよっこらと坂を登る。もう40年になるので慣れてはいるし、脚力を保つのに役立っているからと、夫にも文句を言ったことは
ない。

一つだけ困るのは、ここが国道の裏道になっていて、自動車が結構な速度で頻繁に通って行くこと。歩いている横をビュッと抜かれる時、本当に怖い。ガードレールがあるのだが、歩道の幅が広くはないため、車道から距離を取れないのだ。おまけにきつい坂道なので、下りの車が急ブレーキを踏んでもすぐに止まれない。事故が起こりやすいので、それも怖さを増している。

それを知ったセメント会社が、新開発の舗装材をY市に売り込んだ。市もこの道について困っていたものの、両側が既に家が建っていて容易に拡幅できずに困っていたので、飛びついた。

その新素材は、伸縮性があって柔らかいコンクリート。元々は高層ビルの基礎材として制震性を期待して開発された。強度はあるのに弾力性があり、言うなれば硬めのコンニャク。気温変化があっても割れたりしない。これを舗装剤に使ってみると適度にクッションになって、歩行者は歩いていて心地よい。しかし、重量のある車はタイヤが溝にハマる様な感じで走りにくい。しかも、風の強い日には路面が微妙にうねるので、運転がとても不快になる。これで自動車の通行量が減ることを期待したわけだ。実際、ここを通る車は減った。そうは言ってもゼロにはならないが、車の速度が下がった。

すっかり静かで安全になったこの坂道、路面が風で小さくふるふると揺らぐ様子がなんとも面白く、「動画映えするじゃないか」とネットを通じて知られていく。さらにその動画を見たランニング愛好家が「舗装路なのに不整地。坂も斜度があるので、トレーニングに良い」と週末に集まってくるようになった。そのうちに本当に効果があるとわかり、プロの長距離ランナーまでが来るようになった。週末は大変な混みようで、賑やかに。坂道の住民たちも自分達まで健康になったようで、楽しくその様子を眺めている。狭い歩道は通り抜けるのが大変なくらい、人が集まる場所に変わった。

最初に転居を決めたのは遠野さん夫妻。歩く時にクッションが効いているのを喜んでいたけれど、風でうねる日に転んでしまった。そこにすごいスピードで歩道を走るたくさんのランナー。車は確かにいなくなったが、車道は空いているのに歩道はきつい。駅まで行くのにも一苦労。「こんなところに住んでいられるか」

住民のための新素材が住民ゼロの街を作ってしまった。最初はみんなが喜んでいたのに。
 

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