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黄色いチューリップ

感じない。動かない…。
デジタル時計についている温度計は、室温を十三度と表示している。寒さで鈍くなった指を強引に動かして、ペンを走らせる。
乾いた空気を、肺に吸い込むたびに自分の中の何かが、乾燥した空気にさらわれて行く。
それと一緒にきっと、自分の中の何かが外に出される。
この循環は、死ぬまで止められなくて、外部から足されない限り、僕の中の大切な何かは、一生減り続けてしまうんだろう。
彼女から僕に注がれた、透明で触れることはできない何か。
でも、確かにそれはもう少ないけれど僕の中に熱を持って存在している。
白い壁と木目調の学習机。机の隣には簡易的な鉄の枠組みのベッドがあるだけ。机の上には、鉛筆と消しゴムが二組ずつと、何も書かれていないルーズリーフのノートが一冊。
それ以外のものは、この部屋には一つもない。
ベッドの奥にある窓から見える景色が、僕の世界の全てだ。
後は、食事をくれる女の子と彼女がくれる、僕がゆっくりになる薬。
これが僕の日常で、いつからこうなのかは、もうあまり覚えていない。
でも一つだけ覚えている。僕がまだ、今よりもう少し、動きが速かった時のこと。
僕は、書き続けていた、確かここに来るまでの自分の事だったと思う。
ここに来るまでの僕は、汚くて、気持ち悪くて、それなのに何にもできなくて、誰からも嫌われていた。
学校に行くと、男の子の友達は、僕と遊んでくれた。痛い時もあったけど、たしか毎日楽しかったと思う。
女の子とも、もちろん沢山お話した。隣の席に座った子は、みんないい人で、落とした消しゴムを拾ったらそのまま僕にくれた。お話は確かとっても盛り上がったなー。
でも、家では少し寂しかった記憶がある。兄と妹は優秀だったから、塾に行っていて帰ってくるのが遅かったし、母親と父親は帰りが遅かったから僕はいつも一人でご飯を食べていた。だから、僕は少し寂しかったけど、家族はみんな僕の自慢だから大好きだった。
確か、そうだった…。
ここに来たときは確かそんなことを、事細かに書いていたのだと思う。
なんで書いていたのだろう。今までの自分をなるべく思い出せるように書いていたのだろう。
僕の思い出せる外の世界の最後の記憶。赤い視界に、鈍い痛み。教室の床には、赤いチューリップが所々に咲き乱れている。
怪我をしている友達に僕は、ひたすら何かを言われながら…。
うまく思い出せない。なんでここにいるのかも。きっと最後の記憶が重要なはずだけど、僕の中の何かが思い出をぼやかす。
でも、ここに来てから唯一しっかり覚えていることがある。
それは、薬と食事を運んできてくれる彼女との思い出。
彼女は、優しい雰囲気をまとっていて、肩より少し長い髪が、ふわふわと微かに揺れる。
少しだけ子供っぽい話し方が可愛くて、でもそれでいて動作は優雅で美しい。
そう、彼女はやさしいチューリップみたいだ。
そんな彼女は、食事を置くときに僕の机の紙の束を見て、何故か椅子に座りながら読み始めた。僕は、座るところがないからベッドの上に腰掛けて、僕のこれまでの記憶を読む彼女を見ていた。
薄い桜色のナース服に白いズボンで、行儀良さそうに座る彼女。
僕の記憶を見ながらたまに微笑む。
だけど、彼女の顔は段々と、笑わなくなってきて、僕の大好きな彼女の笑顔は、少しずつ減っていった。
その代わりに、彼女の鼻をすする音が聞こえて、その音は、段々と大きくなって、回数も増えていった。僕は不思議でしょうがなかった。
だって、確か僕は楽しかった思い出を書いていたはずなのに。
最後の記憶だって、友達が周りに沢山いて、みんな僕に注目していた。
彼女は、読み終わると、紙の束を机の端に置いて、僕を見た。
僕は、何とかしようと、最大限の笑顔を見せた。
でも、彼女は、そんな僕を見て、顔に手を当てて泣いた。
「何で…。そんなに、笑ってられるんですか」
泣きながら、かろうじて聞き取れる声で彼女はそう言った。
なんでだろう。でも何も考えは思いつかない。
数分の時間が過ぎて、彼女が泣き止んだ。
彼女の、ナース服の裾は、涙を拭いたせいでピンク色に変色していた。
僕のことを真剣に見つめる彼女、どんな顔をすればいいのか分からなくて、僕はまた下手くそな笑顔で笑う。
彼女は、突然僕に近づいて、固まったままの僕を抱きしめた。
左肩にかかる体温は柔らかくて。彼女の髪からは、微かに香る優しい匂い。誰かに抱きしめられたなんて初めてのことで、でも僕は何もできなくて、手を膝の上に置いたまま、彼女が離れるのを僕はただ待っていた。
彼女は、僕から離れると、何も無かったかの様に部屋から出ていった。
僕の肩に微かな匂いを残して。
あの時、なんでそうしてくれたのか僕には今でも分からない。
でもこれだけは確かに言えると思う。
僕は、あの日彼女にもらった何かを、糧に生きている。
ほんの少しずつ減ってはしまっているけれど。
あれはきっとやさしさだけではなくて、きっと少しの愛と誠実さ。それに小さな幸福も。
全部が混ざった透き通った綺麗な液体。
太陽にかざせば、光を柔らかくしてくれるようなそんな液体。
きっと彼女からもらったから、チューリップの香りがするはず。
息を吐くたび、少しずつ減る。その代わりに、彼女が残した優しい香り。
確かチューリップの花言葉は、「思いやり」彼女のためにあるような花。
そんな中でも、明るい彼女は、きっと黄色いチューリップ。
周りを明るくしてくれる、そんな可愛い黄色のチューリップ。
こんなに暗くて、寒くて、どうしようもない時も彼女の思い出がぼくの支え。
だって、僕に何かをくれた。
彼女は黄色いチューリップ。
明るく優しい。
黄色いチューリップ。

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