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ヤニック・ネゼ=セガン指揮 METオーケストラによるバルトークが凄すぎた……。

ヤニック・ネゼ=セガン指揮 METオーケストラの東京公演初日、メインプログラムであるバルトークのオペラ『青ひげ公の城』は想像を軽々と超えてきた途方もない大名演。私が今年聴いた公演のなかで現状の1位で、これから青ひげ公を聴く度に絶対思い出すことになるだろう。

ネゼ=セガン指揮のMETはこれまで新作・近作のオペラばかり聴いてきたが、フィラデルフィア管とかヨーロッパ室内管との録音を通して感じていたネゼ=セガンへの印象が、実演で聴いたことで確信に近づいた。

ネゼ=セガンって、従来から広く共有されてきた作曲家像とかお国柄みたいな要素をかなり捨て去っていて、スコアとテキストを深く深く読みこみ、解釈していく。でもそれはブーレーズがかつてバイロイトで楽譜に書いていない“伝統”を採用しなかったともスタンスが違うと思っていて、現代におけるリベラル的な誠実な生き方を反映しているからだと思うんですよ。分かりやすいところだと、東京公演2日目に日本初演される1981年生まれのジェシー・モンゴメリーとか、盛んに録音しているフローレンス・プライスとか、女性&アフリカ系の作曲家を取り挙げるスタンスとも根は一緒。

クラシック音楽(西洋音楽)における権威性の問題って本当に悩ましく、どうして現代においてもベートーヴェンを取り上げるのか? それは彼が遺した作品が素晴らしいから……なんだけれど、それを無批判に繰り返すとその価値観に合致するものばかりが権威化していく。どうやってその状況を少しずつ変えていくべきか? そのヒントをくれるのがネぜ=セガンの演奏な気がするのだ。

ドイツ的でもベートーヴェン的でもない角度のアプローチで演奏することで、作品の素晴らしさは披露しつつ、国や個人名の権威性を強調しない。完璧な解決案ではないかもしれないが、現状できることとして、誠実なスタンスではないだろうか? そう考えてみると、東京公演初日の重厚すぎないワーグナー、美しいが神秘性を強調しすぎないドビュッシーというのは、物足りない人もいるかもしれないが、実にネぜ=セガンらしい良演だったと思うのだ。

でも徹底して作品には寄り添う。オペラのテキストを深く理解して、物語を音楽で誠実に描いていく。だから、ただ上手くて正確だけな演奏にもならない。ドラマの深堀りは本当に素晴らしく、それが特にバルトークの名演奏に繋がったのではないだろうか?

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