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クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか

1)〈鑑賞〉とは何か?

 あなたは〈鑑賞〉という単語を目にしたとき、どのようなイメージを思い浮かべるだろうか。クラシック音楽に関わる人々であれば、〈音楽鑑賞〉〈映画鑑賞〉〈美術鑑賞〉など、芸術鑑賞に類するものを連想する方が多いことかと思われる。後述する通り、実際のところ〈鑑賞〉という語は本来、芸術に用途が限定されていたという。しかしながら、例えば〈DVD(Blu-ray)鑑賞〉という用法も今日では非常に多くなり、必ずしも対象物が芸術的か否かは、鑑賞という語を使用する上での重要なファクターではなくなりつつあるのも事実だ。

 あるいは別の見方をすれば〈鑑賞〉と〈観賞〉を使い分けなくなっているとも言い換えられるだろう。ではそもそも、このふたつの単語はどう違うのだろうか。〈賞〉という文字には「美しさや、よさをよく味わう。[1]」との意味があるように、「観たものの美しさや、よさをよく味わう」のが〈観賞〉である。それに対して、〈鑑〉という語には「見わける。見きわめる。[2]」という意味があるため、〈鑑賞〉の方には判断する行為が含まれている。つまり批評的な要素が内包されているのだ。

 そうなると、なぜ用途が芸術に限定されていたかも想像がつく。芸術が批評するに値するからこそ、芸術は(〈観賞〉ではなく)〈鑑賞〉されてきたのではなかろうか。だが、ポップカルチャー(サブカルチャー)全般が、主に社会学の分野でアカデミックな研究対象になって久しい現在では、旧来の芸術(ハイカルチャー)だけが鑑賞の対象ではないのも当然だろう。漫画やアニメは当然のこと、アイドルやポルノも批評や研究の対象になる時代である。〈鑑賞〉は旧来の芸術だけが専有するものではなくなったのだ。

2)『クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか』

 このように現在では、より広く、より緩く用いられている〈鑑賞〉ではあるが、クラシック音楽に限定した場合、〈鑑賞〉という語はどのように登場し、どのような意味の変遷を辿ったのか。その経緯については、日本福祉大学の准教授である西島千尋氏による著書『クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか』に詳しい。

西島氏はこの著書のなかで、日本における〈鑑賞〉の概念が、鑑賞に対応する訳語とされてきた〈appreciation アプリシエーション〉と異なることに着目し、主に【主観性/客観性】【心/言葉】という2つの二元論を切り口として、歴史的にどのような変遷をしてきたか詳述している。その要点をまとめれば、次の通りだ。

【主観性/客観性】
 明治後期に美術分野から援用されて使われるようになった〈鑑賞〉という語は、当初〈批評〉の意味合いで用いられることが多かったという。だが次第に、客観的な〈批評〉と主観的な〈鑑賞〉という対比で使い分けられることが増えてゆき、昭和30年代(1955年~)になると〈鑑賞〉という語は、下記のような意味で用いられるようになり始めたという[3]。

〔主体 Subject〕専門家ではない人物(子どもも含む)が、
〔対象 Object〕既に専門家によって評価されている作品に触れ、
〔行動 Verb〕その良さを感じ取ることで感動し、作品を賞賛する。

つまりは〈鑑賞〉の場合は作品が優れていないという判断はあり得ない。その点が客観的に価値判断を行おうとする批評とは異なるわけだ。だからこそ、〈鑑賞〉の結果、良さが感じ取れなかったとしても、その作品を「低評価」したり「嫌い」になったりするのではなく、「分からない」という結論に至ることになる。また、前述したように〈鑑賞〉という語が、芸術鑑賞分野で使われていたのは、対象が既に評価されていることを前提としていたからだったことも理解できるだろう。

【心/言葉】
 そして日本における〈鑑賞〉概念のなかで、最も議論渦巻いたのは「〈鑑賞〉に言葉(知識・情報)は必要か」という問題のようだ。これは所謂「鶏が先か、卵が先か」といったような因果性のジレンマでもある。現在の感覚からすれば、知識や情報は当然〈鑑賞〉の助けになると考えがちだが、妨げになると考える人々は知識を得ることで分かったつもりになることを危険視すると共に、鑑賞にとって最も大事なのは「心」で作品の良さを感じ取り感動することだと主張する。

 もちろん、アプリシエーション(=〈鑑賞〉)ではなく、リスニング(=要素や形式を聴きとること)をより重要視しようと主張するものもいたが、結局は戦後に編纂された学習指導要領で「心」を中心とした〈鑑賞〉が主導権を握ることにより義務教育現場で主流となっていった(だから「聴けば分かるはず」といったような、感性さえあれば芸術が理解できるという紋切型の意見は、義務教育の現場に由来するのだ)。しかしながら、個々人の感性に頼り切る〈鑑賞〉には具体的な方策がなかったこと、更には〈鑑賞〉を成績評価する方法も確立されることなく、鑑賞教育が思うような成果を挙げることは出来なかった。

 なお、西島氏はこうした変遷の歴史的経緯を論述した末、最終的に〈鑑賞〉だけが音楽とのかかわり合い方ではないという結論へ辿り着く。彼女が、音楽(music)という概念を根本から問い直すクリストファー・スモール著『ミュージッキング―音楽は“行為”である 』の共訳者であることも鑑みれば、この結論は必然であるといえるだろう。〈鑑賞〉という概念を相対化することで、〈鑑賞〉行為の盲信を打ち砕き、他の可能性を模索する道を選ぶのだ(そのひとつが〈ミュージッキング〉である)。

 ただ勘違いしないよう気をつけなければいけないのは、西島氏はあくまで旧来の芸術以外に〈鑑賞〉が妄信的に適応されることを問題視しているに過ぎないということだ[4]。義務教育における鑑賞教育が失敗と判断されるに至った経緯を詳述することで問題提起こそなされているが、クラシック音楽の〈鑑賞〉自体を否定しているわけではない。「クラシック音楽を鑑賞する」ことについて、今後の可能性を考えるためには、これまでの歴史的経緯を踏まえた上で、新たな手法を別途模索する必要がありそうだ。

▶脚註
[1] 山田忠雄,ほか編『新明解国語辞典 第七版』(三省堂,2011年)
[2] 同上
[3] 西島千尋著『クラシック音楽は、なぜ〈鑑賞〉されるのか』(新曜社:2010年,pp. 34-36)の記述をもとに、引用者が独自にまとめなおした。
[4] 同上,p. 214

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