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『神の微睡』上

 初めて乗る馬車の揺れに戸惑いつつ、目の前に座る美しい男との沈黙に耐えられず窓に掛かる飾り布をめくりあげる。長年住んだ村から続く平原も終わりに差し掛かり、少しずつ畑や小屋が増えてきた。ようやく馬車から降りられる。日が落ちてしまう前に街に着くとよいのだが。

 先日村に突然現れた美しい貴族の男は、王の命で青年を迎えに来たのだと温度のない声を吐いた。青年は悪しき魔獣を討つ選ばれた人間であり、はるか北にそびえる魔の巣窟へ踏み入れなければならないらしい。命に従わねば村を焼き払うとの書状を受け取り、翌日太陽に見つかる前に村を出た。

「なぁ、あの畑は何を作っているのだろう」

「貴様はもう二度とこの道を通らない。魔獣を討てば城住まいだ」

 冷たい声に思わず振り返り男を見た。彼は不機嫌そうに細い腕を組んでおり、煌びやかな装飾が施された上着に皺が寄っている。神経質そうだがこう見えて優しい男で、馬車に慣れない村男の具合が悪くならないようにと向かい合った席の後ろ側へ座らせてくれたのだ。二人掛けがふたつ対になった小さな馬車内で最も距離をとれる斜めの位置に座る彼はとっつきにくいけれど、進行方向と視界が噛み合っていたおかげでなんとか腹の中のものを吐かずに済んだ。
 伏せられていた目に長いまつ毛がかかっていて森の木々に差し込む木漏れ日のようだなんて思っていたら、鋭い眼光がこちらに向いてはっと我に返る。

「選ばれし者などと言いように呼ばれているが、ただの贄ではないか。王も魔獣に民が食い荒らされるのを黙って見過ごすわけにもいかぬ。高名な隣国の占い師を呼びつけて何をなさるのかと思いきや、これでは国の中枢に敵を招き入れたようなものだ」

「どういうことだ?占いの結果おれが選ばれ、お前が村に迎えに来てくれたんだろう」

「隣国の王子は聡明だと聞く。魔獣に悩む国に占いをかじった切れ者を送り込んで内部から探り、形だけの対策を続けるよう仕向けて国力を落とすのだ。これからじわじわと政が歪んでいくだろう」

「なるほど、難しいことを考えるものだ。お前はなんで占い師に指名されたんだ」

 眉間に皺が刻まれる音が聞こえたのではないかと思うほど、彼の表情がさらに険しくなる。彼は気を紛らわせるためか、向かい側の窓の掛け布を白い指で細く開いた。

「我が領土は広く収穫量も安定しており賢い民が多い。私は一月後、病に伏せた父から全てを継ぐ予定だった。そうなれば国でおかしなことをやりづらくなるから私を潰しておきたかったのだ。私が占い師の立場なら何よりも優先して同じことをするだろう」

「そうか。お前は優秀なんだな」

 平民の誉め言葉などどうでもいいのか、美しい男は窓の向こうに視線を投げたままで、歌うような声が返事をする代わりにひとつに結った茶色の髪が薄い背中で揺れるだけだった。

「私が領地に残っていれば、民を守ることができたのだ。今年の不作にも手を打てた」

 呟くような小さな声は少しだけ震えていて、従者も連れず身一つの彼はしばらく窓の向こうに広がる寂しい畑を見つめていた。





 彼が窓の外を見るようになってから沈黙は長く、対になっている窓から互いに違う景色を眺めているうちに日が傾いてきた。

「おい、これは何の音だ」

「川の水音だ」

「いや、それとは別に、何か聞こえないか」

 街への道を遮る大きな川のせせらぎに紛れ、なにやらざわめきが聞こえる。彼はあぁ、そういえば、と窓の外から視線を外し座りなおした。

「もうすぐこの辺りで唯一の橋がある。人が集まるから商人たちが露店を開いているのだろう。国の許した商いだけではないから、国の金はここに落とせない」

「許されない商いとはなんだ」

「人の行いに善悪を定めていいのは神だけだ。ただ国から認可を得ていないという話さ、利益の一部を国に納めていない店なのだ」

「おい、馬車を止めてくれ」

「……話を聞いていたか?街に着けばより質のいいものが手に入る、ここで降りる理由がない」

「いいから」

 窓の外に広がる衝撃的な光景から目を離せない。背後で彼が前方への小窓を開き馬の繰り手へ命じた声を馬の嘶きが追いかけた。

「降りたい、俺はあの店に行く」

「どの店だ」

「あの、子どもに鞭打つ商人を止めるんだ」

 男は真向いに座り直し、小さな窓からの景色を確認した。

「あれは奴隷商人だろう、止めてどうする」

 川を背にして広げたテントの前で小太りの商人がやせ細った少年にひたすら鞭を打っている。少年は土に膝をつき、小さな器で銭を乞うているようだ。テントの中には首輪を鎖に繋がれている似た背格好の少女の姿が確認できる。

「あの行いは許されるものじゃない、子どもたちを助けたい」

 美しい男は苛立ちを隠さずため息をついた。戸の閂を外す音。

「貴様のような世間知らずの面倒を見させられる私の身にもなってくれ。魔獣を討ち自伝を書く際には我が一族の繁栄を願う節を忘れるなよ」











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次回で完結。土曜10時に更新します。

大好きなマイルドカフェオーレを飲みながらnoteを書こうと思います。