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合唱部とピアノの伴奏

おそらく小4の頃からだったと思う。

幼稚園の頃から私をいじめていた主犯格の恵子ちゃんとは相変わらず学校ですったもんだする。が、祖父母の家のすぐ近所なので仲間に入れてもらい、遊ぶしかないのも因果なものだ。

恵子ちゃんは私に張り合うようにピアノを習い始めていた。私が祖父母の家に居る時間帯だけ、聞こえるようにピアノの練習をしている。
きっと音楽の時間や帰りの会などで歌を歌うときに伴奏をしたかったんだろう。
現在の学校のように伴奏者をオーディションで決めるという概念が昔はなかった。担任、または音楽専科の先生が名指しで決めていた。私は気づいたら毎年必ず伴奏者に選ばれていたのだが、それを気に入らない女子はたくさんいる。当時小学校の学年の女子のうち、3人に1人くらいはピアノを習っていたと思う。それくらいピアノ人口が多い年代でもあった。

ピアノは家で1人でどれだけ練習するかで実力の差がついてくる。そんな事は分かりきっているのだが、学校のオルガンで、または音楽室のピアノで”自分がどれだけ弾けるのか大会”がしばしば行われていた。
私は勉強ができるわけではない、体育なんて大嫌いだ、可愛い女子のグループにいるわけでもない、ただピアノを少しだけ人より弾けるという事だけが、自分のアイデンティティーのひとつであった。音楽の成績だけがいつも5だった。

後から考えると自分もかなり嫌な奴だったんだろう。『レナちゃん、何か弾いてよ』と男子から言われると、当時習っていた曲などを披露した。男子は単純なもので『レナちゃんスゲェ!』と騒ぎ出す。当時好きだった男子も目を輝かせて見てくれる。『もっと弾いて、もっと弾いて!』すると他の女子から嫌な目で見られる、当たり前だ。

唯一の悩みは歌が音痴だった事だ。どうにか歌をうまく歌いたい、音程をきちんととって歌いたい思いで合唱部に入った。母は喜んで承諾した。

合唱部の顧問の松本先生は非常に優しく熱心で、本格的な発声練習から腹式呼吸まで一人一人丁寧に教えてくれた。合唱部の中で”ソプラノの夕ちゃん”というとても声の綺麗な女の子と仲良くなった。私もソプラノパートに配属された。他にも夕ちゃんの友だちのアルトパートの優ちゃんとも仲良くなり、クラスのいじめっ子や近所の恵子ちゃんと遊ぶより、『ゆうちゃん仲間』と一緒にいる方が遥かに楽しくなった。

やがて松本先生は私たち合唱部を県大会ベスト3に入るほどの実力に導いてくれた。伴奏は当時音楽の専科の相本先生だ。これまで見たどの先生より抜群にピアノが上手い。
相本先生の音楽の授業もまた何よりの楽しみになった。
松本先生や相本先生は私が母子家庭である事など気にもせず、皆と対等に扱ってくれ、皆と一緒に怒ってくれた。この2人の先生の存在で小学校折り返し3年間が有意義なものに変わった。松本先生と相本先生のような音楽を教える学校の先生になりたいな、と思うようになった。

ただ、相本先生が不在の時はまた私が伴奏者になった。最初は見よう見まねで相本先生の弾く発声練習のピアノのリズム、音階を半音階ずつ上下しながら弾いていく技を覚えた。
この音階を覚えて弾けるようになるという事が、後に曲を転調して弾いたり、スケールの練習に繋がる事になるとは思いもしなかったが、見よう見まねで覚えた頃にはすっかり伴奏者の1人として夏休みの強化練で居なくてはならない存在になっていた。

夏休みの強化練で朝8時半から毎日体育館で合唱部が午前中練習する。吹奏楽部が午後体育館を利用する。私の朝寝坊のせいで、発声練習の伴奏する者がおらず、肝心の発声練習ができない!と松本先生から家に電話がかかってくる。飛び起きて学校の体育館に向かうと松本先生に怒られる日々だが、何より自分が必要とされている事が1番嬉しかった。

5年生、6年生はほぼ合唱部の練習に入れ込んだ。全国に繋がる県大会のコンクールでは、課題曲の伴奏を任された。自由曲は相本先生か、その次に赴任してきた先生が担当した。


合唱部の夏のコンクールまであと10日くらいのある日、休憩時間に皆でバスケをして遊んでいた。私もバスケは好きだったが、突き指をするといけないという理由で、バスケもバレーボールも体育の授業では全て見学だった。

うかつだった。合唱部の皆で楽しくボールをパスして私がボールを受け取ったのとほぼ同時に右の手を思いっきり突かれた。不幸中の幸いで突き指はしなかったが、右手がズキズキした。
何と、普段は大人しいアルトパートの同級生の女子、葉子ちゃんが私の手を怪我させようと、やたら手を叩いたり肘で突いてきたりしていたのだ。

そういえば葉子ちゃんは小学校の近くに住んでいてピアノを習っていた事を思い出した。自分も伴奏をしてみたいと、私が弾いた曲を家でゆっくり練習していた。いつか公園で遊んだ時、葉子ちゃんから言われた言葉を思い出した。

『私のお母さんがね、レナちゃんには勉強では絶対負けるなって!ピアノでは負けても勉強では絶対に負けない。』そんな事を言っていたなぁ…とぼんやり思い出した。
何でそんな事をいちいち私に言ってくるんだろう…ふーん、そうなんだーと流して聞いていた私はとんだ阿保だった。
どうしても伴奏をしてみたかった葉子ちゃんは、コンクールの直前に私の手を怪我させてやろうと目論んでいたのだ。普段男子とひと言も口も聞かない大人しい葉子ちゃんが、そんな大胆な事をするとは…人の見てはならない一面を見た気がした。

合唱コンクールは滞りなく終わり見事優秀賞をもらい、NHKでもその姿が放映された。今でいうNコンの昔バージョンだ。
学校紹介は声の綺麗な夕ちゃんが担当した。課題曲を歌う場面になると、指揮の松本先生、そして『伴奏は橋本礼奈さんです』と紹介され、字幕と共に私が画面に映っていた。自由曲になると、ピアノをそっと離れ私はソプラノパートの後ろに行く。

皆で喜び合ったのもつかの間、後から葉子ちゃんにコソッと
『レナちゃん、途中の伴奏ちょっと間違えてたよね、私すぐわかったんだから!』と耳もとで囁かれて驚いた。確かにミスタッチをしたのだが、アンタは歌に集中してなかったのか?と聞きたかったがやめておいた。

そんなわけで、小学校時代は合唱部のゆうちゃん仲間と唯一友だちになれたのだが、きっと他の人からはあまり良く思われていない、男子からはお調子者として面白がられていたかもしれない、でも女子からはきっと嫌われていたのかもしれない。

人より目立つということは、同時にリスクも背負うという事を思い知った。

ピアノの伴奏をするという事は学校生活の中でとても目立つ。それをしたい者もたくさんいる。だがいつだって私を陥れてやろうと意地悪をしてくる連中は、伴奏をしているその華やかな一面しか見ていない。

自分と同じくらい弾ける子が学年に2名くらい居たが、学校では何も言ってこない。ごくたまに、今お前何弾いてんの?と探りを入れるくらいだ。お互いを尊重した付き合いをする。
彼らとはコンクールでバッタリ会ったりする。

フフン、お前も今日出るのか、ならここで勝負しようゼ!と闘う場所を変えて演奏する。
それでいいのだ。

そもそもピアノなんて人と競うものでもないのだが……いつだって実技の世界はシビアだ。

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