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差別と偏見

冬休みに入り、吹奏楽部は“強制退部″になったので部活もなく、ピアノのレッスンと年末年始の超繁忙期のみ、隣のスーパーのレジのバイトを入れた。

ピアノの発表会はショパンのスケルツォ2番を弾き、自分なりにまぁ満足できる演奏ができた。音大教授の次回のレッスンには、ベートーヴェンのソナタ月光の3楽章を持っていこうとK先生と決め、それに取り組んだ。
アルペジオの繰り返しなので“和音を掴む感覚″をグランドピアノで来る日も来る日も練習した。

一方、クリスマスは母の例の宗教のせいで禁止、となっていたが、何を思ったのか母はハート型のイチゴをてんこ盛りに盛り上げたケーキを焼いて、仲の良い“姉妹たち″にあげると言っていた。
私は普段から仲が良く、家もそう離れていない、自由が効くミナとクリスマスを過ごしたい!と母に申し出て、友だちが初めてウチの家に泊まりにきて、ケーキを一緒に食べるクリスマスを2人で楽しもうと色々計画した。


母はミナの事をとても気に入っていた。
ミナは礼儀正しく、器用で要領が良く頭がいい。母のメンドクサイ話も『すごいですねぇ〜』とうなずきながら聞いてくれる。母はミナに色んな書物を出してきて、世界史のあれやこれやを説明していた。私の手間が省けるし友だちが来てくれるのは嬉しい。
ミナとは週に3回は学校帰りにミスドやモスバーバーガーに私と寄るくらい食べる事が好きだったので、クリスマスにイチゴてんこ盛りのケーキを母が焼くので食べに来るか?と聞いたら、二つ返事でオッケーサインを出した。

彼氏のいない私とミナは、初めて友だち2人で過ごすクリスマスを楽しもうと、近くの大型ショッピングモールに行き、色々物色したあと、ショッピングモールの裏手にある、私の好きなTの家を2人で見に行った。
別に何の用事もないのだけれど、クリスマスに友だちと好きな人の家を見に行くというもの何だか特別感があった。

Tの家の前まで着き、ミナが『家デカッ!』と驚いていたら、突然Tの家の犬が物凄い勢いで私たちに吠えだした。
私はビックリしたのだが、ミナは『このバカ犬!』と叫んで二度びっくりした。
すると…犬が吠えたので不審に思ったのか…2階の部屋のカーテンがシャッと閉められた!
マズい!バレた!!きっとTに私たちがウロついているのを見られたんだ、しまった! 

私とミナは大急ぎでマンションに帰宅した。
ストーカーと思われたのかもしれない…
それでなくても2年生になってから、避けられ嫌われているのをヒシヒシと感じていたのに(A組の友だち経由で渡した手紙を捨てられた事もあるので嫌われていた事はわかっていた)何たる失態!
ミナは『あのバカ犬が叫んだからだ!』と怒っていた。

その後、母が紅茶をいれイチゴてんこ盛りの手づくりケーキを出すと、ミナが目を丸くして大喜びし、母に『すごいですね!さすがですね!』と褒めちぎる。母は機嫌が良く、私とミナに好きなだけ食べろと“姉妹たちに分けてあげた″残り3分の2カットを提供した。
母は私が幼い頃から気が狂ったように時折りケーキを焼いたりお菓子を作る事があった。パウンドケーキ、各種デコレーションケーキ、クッキー、ババロア、アイスクリーム、桜餅、ぜんざいに至るまで、余裕がある時は材料も最高の物を使い、泡だてもプロ並みでどれも市販のものより断然美味しかった。
(過去記事:幼少期①参照)

当然食べきれないので、翌朝の“朝ごはん″もケーキである。私の実家は皆が超甘党だったので、残ったケーキが翌朝の朝食になる事がしばしばあったのだが、皆の家ではそうではないと聞いた。とりあえずミナと2人で一晩中話し、友だちと過ごす初めてのクリスマスの夜を満喫した。

翌朝10時頃起きると、母は会社に行ってもう居ない。残されたケーキを冷蔵庫から取り出し、ミナと半分こして全部食べた。
楽しかった〜!友だちとお泊まり会で一晩中話すなんて初めての事だった。
ミナの家はルールがほとんどなく、夜遊びオッケー、大概オッケー、そのくせ古典現代文はいつも100点近くを取る、羨ましいな…。
子どもを縛りつけない家の子の方が、成績いいんだな…と気づいたのもミナと出会ってから気づいた事のひとつだった。

楽しいクリスマスは終わり、12/28〜31日までは朝10時から閉店の19時まで超繁忙期のスーパーレジのバイトに入った。
高校はバイト禁止だが、夏休み、冬休み、春休みなどの時だけシフトを入れてもらっていた。

パートのおばちゃん達からも可愛がってもらい、ひとつのレジを任され、最後のレジ締めまでひと通りできるようになっていた。

そんなある日、昼休憩に1時間ほどマンションに帰り、連ドラを見た後、元居たレジに戻って超繁忙期のレジの続きをしていた。


突然パート頭のおばちゃんが血相を変えて、私のレジのところへやってきて、“他のレジへおまわりください″というプラスチックの立て札をドンと置き、並んでいたお客さんたちが不満気な他のレジへ散った。私は何のことだかサッパリ分からない。パート頭のおばちゃんは思い詰めた顔をして私に話があると言う。

『あなた、昼休みに家に帰ったでしょ?』

『はい、隣なんで昼ごはん食べに帰りました。』

『家に帰った時、あなたのお母さん居た?』

『はい…今日は居ました』

『あなたの家って母子家庭だったわよね?お母さんと2人暮らし?いつも夕方に来ている人があなたのお母さんよね?』

『あ、はい…そうですが…』

『釣り銭と売上20万円が、このレジからなくなっているのよ、それも昼休憩の時に。ちょっとレジ間違ってないか、一旦レジ締めるからあなたココに立ってて!』

『え…?…』


パート頭のおばちゃんが言っている意味がわからない。
私は確かに昼休憩に家に1時間帰った、それはいつもの事だ。スーパーの隣がすぐマンションなので、昼ごはんを食べに帰るのは誰もが知っていた。それと母子家庭が何の意味があるのかサッパリ分からなかった。

パート頭のおばちゃんは血相を変えて、物凄い形相でレジ締め作業を始めた。午前中からのレジジャーナルも全て取り出した。私は横に立たされたまま、色々考えた。

そういえば超繁忙期は、売上がすごいので昼と夕方に一度ずつ、パート頭のおばちゃんか社員さんがレジの中の万札を回収しにやってくる。レジの中に最初からあるのは、釣り銭の五千円札や千円札、五百円玉から一円玉までの硬貨合わせて5万円。
超繁忙期は1つのレジで、午前中だけでも売上が20万を超すので、それを回収しにきたんだ。でも私は昼休憩で家に帰っており、その間は他のパートのおばちゃんが交代で入っていた。

…もしかして私がレジの中の20万円を取って、家に持って帰ったと思われている?
さっきあなたの家は母子家庭よね?と聞かれた。どういう意味だ…ウチが母子家庭だから金に困っており、私が20万円レジから抜き取って昼休憩にマンションに帰り、母と結託して盗みをはたらいたと思われてるんじゃないか…

だんだんそんな気がしてきた、いや完全にそう思われている…私は今日昼休憩の間に誰が現金20万円を回収しにきたのかさえ知らない…

パート頭のおばちゃんがレジ締め作業をしている間、他の社員さんらも20万円なくなったと聞き、大慌てで私のレジまで来て何やら話している。


涙が込み上げてきた。
私は金なんか盗んでない!私の家が母子家庭だからって、バイト先の金なんか盗んだりしない!悔しくて涙が手のひらにポタポタ落ちてきた。

パート頭のおばちゃんの顔色が変わった。


『大丈夫、あなたは一円のミスもしていない、レジジャーナルも全て見たけれど、何も間違ってなかった。あなたが昼休みに家に帰っている間、別のパートさんが入ってた時に他の社員さんが20万円回収にきたと…通達ミスだわ。ごめんね!あなたは一円のミスもない、気を取り直してレジ入って。』

とハキハキとしたいつものおばちゃんの表情に戻った。社員さんらも、自分たちの通達ミスだと言いようもない顔をしている。

私はその場で大泣きしたい気分だったが、それも悔しいし恥ずかしい。
泣いてたまるもんか。
とりあえずトイレに行かせてもらい、個室の中で思いっきり出でくる涙を拭いた。顔がぐちゃぐちゃだ、水道の水で目元を洗ったが、誰がどう見ても泣いた事が分かる顔になっていた。

パート頭のおばちゃんは、自分たちの勘違いだった、ごめんね!と謝ってくれた。あのおばちゃんは1番仕事ができる人で、みんなから信頼されているパート頭のおばちゃんで、私も大好きだった。

でも何なんだ、私の家が母子家庭だと何度も聞いた、私の家が貧しいから出来心で20万円盗ったと一瞬でも皆に思われたんだろうか。
悔しくて悔しくて涙が込み上げてくる。
泣いていても仕方ないので、そのまま知らん顔してレジに戻った。
お客さんはそんな事情知らない。
お客さんがカゴを持ってたくさん並んだ。
泣き顔だったがとにかく笑顔で、『今日だけは絶対に一円のミスもしない』と決め業務に打ち込んだ。


レジのミスはよくある事だった。
今のようにバーコードのスキャンではなく、全て手打ちで入力し、お釣りも全部自分で数えてレシートと一緒にお客さんにお返しする。
レジ締めをしていたら一円単位のミスが出る事はよくあった。
1つのレジに1日交代で何人かが入ったら、誰がミスをしたのかも分からない事もある。100円以上の誤差が出たら少しだけ残される。
スーパーのレジで、ましてや1000円以上のミスなんてあり得ない、それこそ大問題だ。

とにかく悔しくて仕方がない。その日の業務を終え、祖父母宅で皆で晩ご飯を食べたが、母にも、大好きなおばあちゃんにもその事を話せなかった。

やっぱり私の耳に入ってこないだけで“あの子の家は母子家庭だから…″と思われていたのだろう。小学校の時に味わった屈辱と全く同じじゃないか。




またある時、同じ塾に通っていた1つ学年が下の他校の子に
『レナちゃんちって、お母さんと2人なんでしょ?もしお母さんが死んだらどうするの?』
と突然聞かれ、回答に困ってしまった。


ていうか、なんでお母さんと2人って彼女は知っているのだろうか…。

その子に悪気があったのかどうかは知らないが、『お母さんが死んだら…』って何故同い年くらいの親を持つ子にそんな質問をされるのか、全く意味が分からなかった。
同時にこの子はちょっと頭が悪いんじゃないかとさえ思った。

『お母さんが死んだら…?知らないよ。おばあちゃんとかいるから何とかなるんじゃない?』と適当に答えた。

『ならあなたのお父さんがもし死んだら誰が働くの?』なんて意地の悪い返答を思いついたが、そんなくだらない事を聞き返すのはやめた。




例えば救急車の音が聴こえたら親指か小指を隠さないと親が死ぬ!とかいう変なおまじないみたいなものが流行った時期があった。

私の家から消防署なんて目と鼻の先なので、いつも聴き慣れており何とも思わなかったが、そんな時よく同級生から

『レナちゃんちはお母さんしか居ないんだから、親指も小指も両方隠さなきゃダメだよ!』と言われ、私の親指と小指を握りしめてきた子がいた。

それよりさ…ウチの家に暴力沙汰で来る救急車の方が遥かに大問題なのだが…そんな用事でウチに救急車が来るサイレンが聴こえるんなら、親指でも小指でもいくらでも隠してやる、そう思った。





おばあちゃんは、重度の障がいを持つ佳子ちゃんが居る事で、それはそれは考えられないような差別と偏見に苦しんだといつも私に話した。



昭和30年代、佳子ちゃんが小学校にあがる前の年、小学校どころか養護学校にも行けないので、教育委員会に佳子ちゃんを連れて書類を書きに行った際、教育長と教育委員会の人間から 

『重度の脳性小児麻痺のお子さんというものを我々はまだ一度も見た事がないんです…一度見せてください…どれどれ…』
と、おばあちゃんの背中におんぶされていた佳子ちゃんをゾロゾロ何人も覗きに来たらしい。

おばあちゃんは悔しくて仕方ない、黙って下を向いて書類を書いていた。すると、当時珍しかった女性の教育委員会の教諭が、

『何をしてるんですか!その方の上のお姉さん2人は小学校でも1番を取るお子さんなんですよ。寄ってたかって…恥を知りなさい!』と一括し、かばってくれたらしい。


教育長とその他数人の教育委員会の男性教諭は、女性教諭に一括され気まずそうな顔をしながら退いた。

『佳子を見せ物みたいに見に来やがって…』

おばあちゃんは怒り心頭しながらも女性教諭に礼を言い、母にスパルタ教育で常に上位の成績を取らせ続けた。

家に重度の障がいを持つ子がいる、というだけで近所の悪ガキから石を投げられ、やーいやーい!とからかわれ、叔母と佳子ちゃんはいじめられた。それを見た勝ち気な母が走っていって怒鳴ると、蜘蛛の子を散らすように悪ガキどもは去ってゆく。

祖父の経営する会社がどれだけ繁盛し、地元では祖父の名前を知らない者は居ないくらい有名になっても、障がい者の佳子ちゃんに対する差別や偏見は消える事がなかった。


昔の人は障がい者の身内を“家の恥″と思い、家の中にずっと隠しておくか、施設に預けたまま会いにもいかない、縁を切り居なかった事にする、そんな家も多くあった。


おばあちゃんはそれができなかった。とにかく情が深い。

重度障がい者の人たちが暮らす山奥の施設に祖父と何度か見学に行った事もあるようだが、その当時の施設はどこも人里離れた山奥にあり、見るも無惨な“収容所″みたいな所ばかりで、とてもじゃないが佳子ちゃんを施設に入れようと思えるような環境ではなく、とにかく不衛生で、そこに預けられた子たちを見ては涙し、祖父母共に落ち込んで帰ってきた。



福祉担当の人間や施設の人たちは、何とかして佳子ちゃんを施設に入所させようと何度も何度も家を訪れた。“親御さんの負担を減らす″という口実で何度もしつこく口説き、本音は国から降りる莫大な助成金が目当てであった。

そのトラウマで祖父母は長年“福祉に頼る″ことを毛嫌いしたのだった。自分たちの手で、家で皆で面倒を見よう、そう決意したのだ。



小さな差別や偏見、今でも多くある。


私が精神通院していると知れば“キチガイ扱い″、母子家庭出身だと知れば“かわいそうに…″と変な同情をされ、子どもが居ないとわかると“まだ間に合いますよ″といらぬお節介を言ってくる人もいる。

私の家に猫がいるから子どもができないと言う人もいた。
もうそこまで言われるとおかしくて笑ってしまうのだが、そこら中にそんなくだらない差別や偏見は転がっている。

誰かを見下す事で自分の優位性を確認する人、“上見て暮らすな下見て暮らせ″的な、江戸時代の身分制度をそのまま体現したような人も未だに数多くいる。
令和の時代だからと言って油断してはダメだ。


自分も気をつけて生活しなければ、いつの間にか誰かと比較し、この人よりはマシだと思ってしまう弱さも持ち合わせている。


高校時代はもう半分大人みたいな年頃なので、表立った嫌がらせや差別発言をされる事はなかったが、バイト先で母子家庭だからあの子が売上金20万円を家に持ち帰ったのではないか?と疑いをかけられた屈辱は、中々記憶から消すことができない。


皆さまもお気をつけあそばせ。



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