中学受験は親のエゴ?
中学受験が当たり前になっている今、この意見に関しては賛否両論分かれています。
私は、条件がそろえば「親のエゴ」だと考えています。
つまり言い換えるなら、条件を避ければ別に塾に行こうが、行かまいが私はどちらでも良いと思います。
条件に関しては、3つ挙げられます。
・親自身の希望を優先
・子どもの意見を無視
・勉強がすべてだと考えている
この3つです。
一つ目の「親自身の希望を優先」
これに関してでいうと私は一番避けてほしいです。
本来、子どもの成長を支えていく中で、親は子どもがどうしていきたいかファシリテーターとしてのマインドで接していく必要があります。
なぜなら、
親の希望を押し付けていると、親の視線を常に感じやすく、自分から主体的に物事を考える力がはぐくまれないことにつながってしまう可能性があるからです。
「○○したいけど、親の許可をもらってからね」
と、決断が迫られたときに、瞬時に行動できず、後回しになる。
これが習慣化されると、思い切って決断する出来事が起こった際に、挫折してしまう経験になることもあります。
二つ目の「子どもの意見を無視」
周りが勉強の意識が高く、「自分も勉強したい!」と子ども自身が考えているのなら、それを受け入れることは大切です。
しかし、
「○○さんと遊びたい」「ほかのことをしたい」
というのなら、それを受け入れることが大切です。
子ども自身に本来求めているのは、学習でしょうか。勉強ができればいいのでしょうか。
私はそう考えていません。
勉強し、点数が高ければいいという考えを捨てて、それよりも物事に対して主体的に、探究的に、創造し、そして愛をもって生きていくことが今後の未来には必要な力だと私は考えています。
しかし、暗い現実を言うようで残念ですが、今の日本の教育制度は点数が高い者が評価される制度が今だに根強いです。
これは、残念ながら今すぐには変わっていかないでしょう。
世界では、そうではなく、物事に対して創造的に取り組める人材を輩出するための教育制度になっているにもかかわらず・・・
3つ目の「勉強がすべてではない」
2つ目で少し話しましたが、勉強し、点数が高ければ優秀なのでしょうか?
良い学校に行くことさえできればよりよい未来につながるのでしょうか?
今一度考えてほしいです。
どのような学校に行ったとしても、
「自分自身で学ぼう」
「やってみよう」
と思えて初めて自分自身が生きている意味が実感できると思います。
小学校では、良い中学校に入学するための勉強をする。
中学校では、良い高校に入学するための勉強をする。
高校では、良い大学に入学するための勉強をする。
これこそが子どもらしい過ごし方だと自信をもって言えるでしょうか?
勉強ができないことで、
「あいつは勉強ができないやつ」
「中学受験失敗組」
極端な話ですが、こういった意見が子どもたちの周りで言われたら、それはなんて悲しいことかと感じます。何より、失敗体験という経験を得ます。
子どもにはたくさんの失敗をさせて大きくなっていってほしいという願いには賛成です。
しかし、しなくてもよい失敗はあります。受験失敗を経験したわたし自身思いますが、あの経験は本当に辛いものでした。
人生を左右させるというプレッシャーの中での失敗は、いずれトラウマになる可能性もあります。
勉強ができなくても、それ以外の分野で何か突出した分野があるかもしれない。
それなのに勉強ができないからというだけで、悲しいレッテルが張られる。
そうなると自信が低下しないわけがありません。
ゲームしかできなくてもいいじゃないですか。それを一緒に親もプレイして、プレイのコツなどをレクチャーしてもらえば、指導する喜びも生まれるかもしれない。
好きなことしかさせない。というわけではありません。
もちろん、非人道的なことをしてはいけないと、常に話し合っておくことが大切です。
そして、子どもが目にすることは常に新しくその一番近くにいる世界をみせてくれるのが
親であるあなたです。
「生きているだけでいいよ」と寛容に、子どものファシリテーターとして、成長を見守ってあげてほしいとわたしは思います。
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最後に「論語と算盤」という名著から、渋沢栄一の言葉(現代語訳)を紹介したいと思います。
『今の教育は知識を身につけることを重視した結果、すでに小学校の時代から多くの学科を学び、さらに中学や大学に進んでますますたくさんの知識を積むようになった。ところが精神を磨くことをなおざりにして、心の学問に力を尽くさないから、品性の面で青年たちに問題が出るようになった』
渋沢栄一
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