自分もやっちゃうんだけどさ

自分もやっちゃうんだけどさ、主語を大きくされて括られるのって嫌だ。

よく言われるのは、「若い人たちは~」とか「○○部は~」とか。
自分の身の回りにいる少数のある属性に属する人たちをひとまとめにして主語を大きくされるのが私は嫌いだ。自分が属している属性であれば尚更。
「自分はそうじゃないのに」「自分はやってないのに」と思ってしまうのである。但しここで注意しておきたいのは必ずしもネガティブではないということだ。
私が高校生の時、よく「サッカー部は~」とか言われた。サッカー部と一言に言ってもその集団には様々な人がいて、それぞれでやっていることが違う。なのに1つのまとまりとして、誰かが何か怒られるようなことがあればサッカー部はと言われる。
また、近年顕著なのは「若い人たちは~」というフレーズだ。このフレーズは基本的にポジティブに使われることはない。十数人から数十人というごくわずかな若者を見て若者全体を知ったように話されると、そうじゃない人たちは大勢いるともやもやしてしまう。

きっと、そういう人は森を見て木を見ていないのだろう。森の中にある木はどれも同じに見えても、根の生え方、幹の太さ、皮の傷つき方などどれ一つとして同じものはない。まさにみんな違ってみんないいのだと思う。
だからこそ私は主語を大きくして括られるのが嫌なのである。

ほんの1部を切り取って恰もそれがその属性全体の特性であるように、知ったように話さないでほしい。1つ1つ背景も何もかも違うスペシャルワンだろ。
格好つけてこのように言っているがとどのつまり、自分を見て欲しいという子供じみたエゴなのである。
自分は身の回りの環境で基本的には1番年下で可愛がってこられたという自覚がある。そのような環境で育ったからこその肥大した自己顕示欲、承認欲求がそこに繋がってきているのだろう。

だが、このように書いてきたが私自身も主語を大きくしてしまうことはある。例えば3人の女性がいたとして、その3人の共通事項を語ろうとすると、「女性ってさ」と主語を大きくしてしまうことが稀にある。
気づいてしまった。これは楽なのだ。しかし、自分1人が楽だからと言って、他者が不快になるようなことをしてもいい理由にはならない。功利主義の考え方のように、1人の楽を優先して3人の苦を増やしてはならない。だからこそ、やってしまった時には次から気をつけよう。と思う。

世の中には多く、人を類型するものがある。血液型やMBTIなどだ。人の類型が4つの血液型や16の性格タイプに累計されてたまるか。とは思っている。だが、話題の中でこれらを使うことは少なくない。

結局自分もやっちゃうんだけどさ、類型とか属性をみてその人を語るんじゃなくてさ、その人のその人だけの特性とか人間性を見てその人を語ろ。
そうやって個別に見て、語れる人が真に仲良くできる人なんじゃないかな。


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