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浄土真宗と禅宗

 私は敬虔さの欠片もない浄土真宗の家庭に育ち、浄土真宗の幼稚園に通っていた。お願い事はのの様にして、もらったお土産/お年玉は仏壇にあげてから下げて自分のものになった。
 浄土真宗について知っていることは、亡くなったらいきなり仏様なので死装束はなし。他力本願はただの四文字熟語ではなく教義。亡くなった人は極楽浄土に行く。
 しかしながら、彼は禅宗。ネットで検索するとやたらと涅槃が出てくる。
生きていても解脱すると涅槃なのか、亡くなったら涅槃に行くのか、掴みどころがないのが涅槃。解脱しちゃったら輪廻転生しない。もう会えないかも知れない疑惑が膨らむ。禅宗は会えないの?私が禅宗になれば会えるの?
しかも、流石に禅問答の本家だけあって、調べようとしても自分が知りたいことの本筋になかなか近づいている気さえしない。

通り掛かった曹洞宗

 なんとか派の部分が違うけれど、買い物に行く途中に禅宗のお寺様。宗派が違うと足を踏み入れにくいのだが、勇気を振り絞らなければならない理由があった。
 本堂の前で目を閉じると、目の前が真っ赤になった。
あの真夏の太陽に顔を向けているような真っ赤。今日は薄曇り。一旦目を開けて、もう一度閉じてみても真っ赤。
なんちゃて理系でも理屈がしりたい。太陽に向かってはいない。トップの写真でさえ明度を調整しなければ真っ黒なお社だったくらいだ。壊滅的な物理の成績は嘘はつかない。他に何も思いつかないので諦めて手を合わせることにした。やはり目を閉じると真っ赤。
「こんにちは。もう辛いことはないですか?痛いこともないですか?明日は犬の手術なので守ってください」
お願い事は外せない。大事なお願い事なのにお賽銭箱がない。いいのかな。

不遇といわれると

 そうかも知れないのだが、イマイチ自覚はない。DV夫から逃げて離婚調停中に前夫が酒気帯び人身事故+無車検か何かをやらかして「絶対に息子は手羽さない」と言っていたのを翻し、示談金のために即金で払えば離婚してやると言い出したので私は貧乏になった。
 シングルで子育てして賃貸暮らしよりはこのマンションを買ったりしたので、買い物に行っては高くて買えない...と食品売り場で泣きそうになったりもした。仕事からの帰り道で「上を向いてあるこう」を口ずさみいい歌だなぁと泣きそうになったこともある。
 しかし、何がそんなに切なくて泣きそうになったのか思い出せない。
毎日が辛くて「毎日小さな幸せをみつけよう」と思い立って、今日はお皿を洗う時の洗剤の薫りが幸せだったとか、新しいスポンジでお皿を洗ったとか
そんな小さいことを喜んでいた記憶はあるのだが、それに至るまで私を追い詰めていたものが思い出せない。
 もう一つ書いているマガジン「心がざわつくとき」を書き進められない理由も同じである。彼を喪う前の悲しみの記憶がない。怒りの記憶もあるんだかないんだかわからない。〈こうゆうことがありました〉という事実は思い出せても〈思い出しても腸が煮えくり返る〉とか全く無い。
 悲しみという記憶はすっぽりと抜け落ち、怒りという感情はブラックホールのように心の穴に吸い込まれ平穏というか平和というか。涅槃である。

高齢犬の手術

 心配なんてもんじゃないんだけれど、血液検査では大丈夫だったし、なんとも傷口を保護したり清潔に保ちにくい部分の腫瘍なので、感染症になって辛い生活になる可能性があるのなら手術しようと思った。
流石に、彼が亡くなり、彼の愛した犬も亡くなり、うちの犬までとなるのは辛すぎると...、そんな理由で治療をしないのもどうかと思うし。
どうかと思うと言いながら、内心はそんな気持でいっぱいである。
 今日、犬の写真を撮ろうと思ったけれど遺影の準備みたいで嫌なのでやめた。手術が無事に済みますように。早く良くなりますように。


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