私は海辺で暮らしていた
彼が逝ってひと月後から、自分の中をココに書き出してきた。2ヶ月かかってわかったのは、私達は共に相手の子どもを愛おしみつつ、いつか一緒になるだろうと今後の20年、30年を楽しく笑って語り合っていたこと。
一緒になってないからスタートラインに立てたのか、その手前だったのか。ポジティブに捉えればスタートして15年経っていたのか定かではないけれど、私は心から信頼して尊敬する人と海辺で暮らしていた。
死別とは
まだまだこれから苦しくなる日もあるだろけれど、今の自分で感じたままを言葉にすると、私の日常とは彼の笑顔を見るためで、褒めて貰いたくて、
一緒に美味しいを共有したくて成り立っていた。
ツイッターのフォローも彼に話題を提供できるように自分の趣味以外の情報収集が多かったし、書き溜めたレシピも彼の反応でストックするかボツになるかが決まった。現在はその日常が成り立たなくなっているので、何処か自分でない部分が「新たな自分」になって日々を過ごし始めているような気がする。
死別とは、未来のゴールと現在の日常が一気に消えることのように感じている。今までの自分が彼との日々を大切に守りながらも、少しだけ現れている新しい自分が現実を見定めていくのだろう。
年明け
年が明けたら就職の面接が始まる。今までの私なら化粧品を揃えてスーツを来てリクルート用にA4が入る書類かばんを持って出掛けて行くだろう。新しい私はすっぴんで出掛けるのだろうか?
職安では「職務経歴書が書けたらお持ちいただけば添削指導をいたします」と言われたが、そのまま出した。自分の至らなさを添削して補って背伸びしたくなかった。自然な自分ままの一生懸命で仕事をしたい。
そこでいつものように背伸びしても、まだ不完全な新しい自分が何処まで持ちこたえるのか見当がつかない。
何よりも、この世でたったひとり、私だけが職歴職務経歴書に彼の背負ってきた屋号を書けるのが少し嬉しいし誇らしい。しかし、世間的には一番良くわからない仕事だろうし、良くわからない仕事を片田舎で15年過ごしてきた私がいきなりスーツを着て「仕事できるおばさん風」を気取ってみても始まらない気がする。いくつ面接を受ければいいのかわからないけれど、証明写真のボックスに入るのは少しだけ勇気がいるので4の倍数でキリがいい所で終わらせたい。
すでに新しい人生がスタートしてしまっているので足場も固まらないうちに新年とか言われても戸惑うので、新年という区切りはパスしてだらだら年を跨ぐことにする。そして、彼との惚気話をできる機会を虎視眈々と狙う1年を送れたらいいなと思う。
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