「紫空の向こうに」 短編小説
スマホから鳴り響く着信音で、目を覚ました。
窓の外では、空が紫のグラデーションに染まっていた。
昼と夜の間、どちらにも属さない宙ぶらりんな時間帯の色だ。いつもならカーテンに遮られ、目にすることのない色だった。
この時間に眠るつもりはなかった。
空っぽのはずの胃袋が、何かを吐き出そうとキリキリともがき始める。
自分自身に舌打ちをする。力が抜けそうになる膝を叱咤して、起き上がった。カーテンをしめてから、ずっと鳴り続けているスマホを手に取った。
「はい」
「兄ちゃん、俺。明日のことだけど、もう30分早くても大丈夫かな?」
「わかった、いいよ」
「ありがとう。それじゃ明日よろしくね」
通話が切れたスマホを、ワンルームの部屋で万年床と化した布団の上に放り投げた。
弟は結婚して子供もいるのに、俺の呼びかたは子供の頃から変わらない。無邪気な性格もそのままだ。もともとの性格もあるだろうが、周りの人間が甘やかして育てた結果だろう。俺もその中の一人だった。
年の離れた弟の頼みを、一度も断ったことがなかった。だが、今回だけは断るべきだった。そう思っているのに、口に出せなかった。
明日は、実家へ帰らなければならない。
そう思うと、体の中身がごっそりと吸い取られたような気になる。皮膚だけの空っぽな体が、しぼんでいく。腹から全身の力が抜けていく。
気がつくと、床に頭をつけて丸まっていた。
目の前のフローリングから、酸味と油臭さの混ざった臭いがする。こみ上げてきた吐き気を押さえつけて、布団に転がって目を閉じた。さっき見た紫色の空が浮かんだ。
慌ててまぶたを開けると、薄汚れた天井が見えた。そのまま寝転がっていると、室内は急速に暗さを増していった。いつの間にか天井は暗闇に飲み込まれていた。
翌朝、車を運転して実家へ向かった。良く晴れた日だった。アパートから実家までは、一時間弱の道のりだ。
俺は就職と同時に家を出てからは、ほとんど実家に帰らなかった。父とは考えが合わず、実家にいたときも、ほとんど口をきかなかった、母は俺に関心がなかった。両親は弟に愛情を向けていたし、俺も弟を憎く思ったことがなかった。一緒にいない方が、お互いのためだった。
数年に一度、思い出したように父から「たまには帰ってきて顔を見せろ」と電話があり、そのときは実家に行ったが、夜にはアパートに戻っていた。
その父は、十年前に死んだ。あれから一度も実家の敷地に足を踏み入れていない。
実家は、結婚したばかりの弟が継いだ。弟は、俺が実家にいるのが嫌だと分かっていたのだろう。今まで一度も「帰ってきて」とは言わなかった。その代わり、年に一度、食事の誘いが来た。
父が死んだ二ヶ月後に生まれた甥と、母の誕生日が共に一月だったため、新年の挨拶を兼ねた、レストランでの食事会だった。弟家族に加え、母も同席する食事会は、俺には憂鬱な時間だったが、弟の望みならしかたなかった。
実家の近くの道路は、広くまっすぐなものに変わっていた。周辺の田畑は埋められ、山も削り取られて、住宅街に変貌していた。我が家が持っていた田んぼも、その中に含まれていた。
変化の波は実家にも訪れていた。実家を取り囲むように建っていた古い農機具小屋は、全て取り壊された。広かった畑は、敷地の隅にわずかに残るのみ。他は全て砂利が敷き詰められていた。
何年か前にリフォームしたと聞いていたが、家の外観に大きな変化は見られなかった。実家の建物だけが、記憶から切り抜いて貼り付けたようだった。
実家が、見知らぬ土地に建つ親類の家のように感じた。そのことにほっとした。
約束の時間よりも少しだけ早い。敷地に乗り入れたところで車を止めて外に出ると、家の前に止まっていた車から弟が降りてきた。
「兄ちゃん、おはよう」
弟は、屈託のない笑顔を浮かべながら、俺の所まで駆け寄ってきた。
「お母さんのことは、この前メールした通りだからさ。もう朝ご飯も済んでいるし、夕方だけ気をつけてくれれば、あとは問題ないから」
実家の前に止められた車を見ると、後部座席から甥が身を乗り出して手を振る。手を振り返すと、助手席に座る弟の妻が頭を下げたので、俺も軽く返した。
既に出発する準備は整っているらしい。
「本当は、兄ちゃんにもグラウンドで一緒に応援してもらいたかったんだけど、お母さんを放ってもおけなくてさ。来月には入れそうだって言うからさ。今日一日だけよろしくね。夜には戻るから」
「分かった。気兼ねなく行ってこい」
「うん、四月から監督が替わってね。今度は、いいところまで行けると思うんだ」
弟が駆け足で車に戻る。弟家族を乗せた車が見えなくなるまで、俺は手を振った。
砂利を踏みしめて家に向かう。
引き戸の玄関は、扉だけがアルミサッシに変わっていた。その向こうにひろがる玄関を思い出し、胃袋がキュウっと縮み上がる。
深呼吸を繰り返してから「帰りました」と声を掛け、玄関に入った。就職して家を出て以来、実家に帰ってきても「ただいま」と言えない。自分の家に帰ってきたという気がしないからだ。かといって、今のアパートも自分の居場所には思えない。
広い土間と、高さのある上がり框があった玄関は、その半分にタイルが敷き詰められ、残りは、幅のある低い階段に姿を変えていた。築五十年の家が放っていた、古い木とカビと埃の臭いは、どこにもなかった。
壁紙は貼り替えられ、襖と障子は、ドアに変わっていた。基本的な間取りは変わってないが、壁の落書きも、柱の傷も綺麗に消えていた。
知っているのに、知らない家だった。
右側の部屋からテレビの音が聞こえる。弟から、最近の母は一日中テレビを眺めていると聞いている。中に母がいるのだろう。
母は、ソファからテレビを眺めていた。その横顔は、今年の初めに見たときと何も変わってないように見える。あれから半年も経っていないのだから、当然のような気がする。
『お母さん、認知症だって』
先月、弟からメールが来た。
母は、昔からしっかりしていて、冷静な人だった。それに加えて、感情がない人だった。表情に乏しく、喜びも悲しみも、何を考えているのかも分からなかった。横暴を体現しているような父と一緒にいるからかと思ったが、父が死んでからも母の態度に変化は無かった。
身だしなみに隙はなく、髪もきっちりとまとめていた。子供心に、母は本当はアンドロイドなんじゃないかと思ったこともある。
その母が認知症になったとは、すぐには信じられなかった。母はあのまま、動力が切れたアンドロイドのように死んでいくのだと思っていた。
『しばらく前からお母さんの様子がおかしくてさ、先週病院に行ったら、初期の認知症だって。まいったよ。うちの嫁もやっと正社員に採用されたばかりなのに。田んぼを売ったお金の残りでどうにかなりそうだから、施設に入れようと思ってる』
実家から離れ、何もしていない俺がどうこう言う権利はないし、母を引き取って面倒を見ようとも思っていなかった。弟には分かったとだけ返事をした。
俺に気がついたのか、母がこちらを見た。
真っ暗な瞳だ。全ての光を飲み込む闇だった。
その瞳には、何も映っていないような気がした。今目の前にいる俺の姿も、映っていないだろう。眺めているテレビでさえ、見ているのかどうか疑わしかった。
母の視線はしばらく俺に向いていたが、ゆっくりとテレビに戻っていった。扇風機が首を振るのに似ていた。今までも、母のことはよく分かっていなかったが、今の母は、完全に知らない人だと感じた。
俺への関心は消えたのだろう。側に行っても何の反応もない。横に腰を下ろしても、母の視線はテレビから動かなかった。
かつての居間は、リビングと呼ぶ方がふさわしかった。ゼンマイ式の古い柱時計だけが、昔と同じだった。窓は引き戸のままだったが、全てアルミサッシに取り替えられ、差し込み式のねじ締まり錠は一つも残っていなかった。
窓から見えていた梅の木はなく、白い花をつけたオリーブが風に揺れている光景は、別の家にいるみたいだった。
昼食は、テーブルにおにぎりが用意されていた。何も言わなくても、昼になると母はソファから立ち上がり、それをむしゃむしゃと食べ、再びソファに戻って寝てしまった。穏やかさも苦しさも感じさせない、能面のような寝顔だった。
弟のメール通りの行動だった。それこそプログラムされたロボットのようだ。母がこの様子なら、確かに問題を起こすようなことはないだろう。
リビングの棚の上に、写真が飾られていた。弟の家族が写っている。フォトスタンドの中で、今年で十歳になる甥が笑っていた。年に一回しか会ったことがないが、性格は弟に似て明るい子供だった。
その横には、アルバムが置いてある。手にとって開く。笑顔にあふれた写真が詰め込まれていた。嫉妬はない。家族を持つことを諦めたと言うより、俺が家族を持つことはあり得ないと思っていた。
写真の入っている最後のページ。一枚の写真に目がとまった。
今年に入ってからのものだろう。他の写真は、どれも笑顔の甥なのに、この一枚だけが違っていた。夕日を背景にした甥が、今にも泣き出しそうな表情をしている。試合に負けたときのものなのか。
俺がこの一枚に目をとめたのは、甥の表情が、俺にそっくりだったからだ。笑顔のときは似ていると思わなかったのに、泣きそうな顔をすると、俺とうり二つになる。
ちょうど四十年前の俺の姿を映したように思えた。
アルバムを乱暴に閉じて戻した。よみがえろうとする嫌な記憶を押さえつける。が、無駄だったようだ。
突然、お腹の中身が抜き取られたようになり、全身の力が抜けていく。体が崩れていく。ソファと母の横顔が見えた。急速に狭まる視界に、目の前に迫る床が映った。
『おにいちゃーん』
どこかから子供の声が聞こえた気がして、目を覚ました。かすかなワックスの臭いのする床。白い壁。一瞬、何が起きているのか、分からなくなった。
今は実家にいる。
そうだ、母は?
飛び起きてソファを見ると、そこに母の姿はなかった。部屋を見回したが母はいない。
窓から外の景色が見えた。
紫の空。
そのとき、柱時計が鳴った。ボーン、ボーンと鳴る響きが、耳の奥から頭の中に入り込んでくる。
『おにいちゃーん』
再び子供の声が聞こえた。女の子の声。いや、幻だ。聞こえるはずがない。
強い吐き気に襲われた。口は乾ききっている。からつばを飲み込みこらえる。
カチリ。カラカラカラ……。
小さな音が聞こえた。玄関だ。すぐさま部屋を飛び出した。裸足のまま、外へ出て行く母の後ろ姿があった。玄関に駆け下りて後を追う。
外に出た瞬間、俺は足を止めた。いや、足がすくんで動けなくなった。
目の前に大きく広がる空が、オレンジ色から、濃紺へとグラデーションする紫に染まっている。
「柊子ぉおおおおぉぉぉぉぉ」
悲鳴のような叫び。母の声だ。
「柊子ぉおおおおぉぉぉぉぉ」
一歩足を進めては、空に向けて繰り返し母が叫ぶ。体の中身を、全てまき散らそうとしているように、力の限りに叫んでいる。
何度も。何度も。壊れたロボットのように。
「お兄ちゃんと一緒に家にいる」
俺が、妹の柊子の声を聞いたのは、それが最後だった。
その日は朝から、父と母は、組内の結婚式へ出かけていった。昔の田舎は、同じ地区で結婚式があると、各家庭から一人ずつ出席する習わしがあった。その日結婚式を挙げた二人は、それぞれが父と母に世話になったからと、二人の出席を望んでいた。
両親は俺と柊子を、知人の所に預けるつもりだったが、俺は留守番すると言い張った。その家に染みついた臭いが嫌で、行きたくなかったからだ。だから、前の日から少し熱っぽかったが黙っていた。幼稚園に入ったばかりの妹だけでも預けようとしたが、柊子は俺と留守番したいと譲らなかった。
両親が出かけた後、だんだんと熱が上がってくるのが分かった。頭痛も激しくなり、しきりに「遊ぼう」と声を掛けてくる妹の相手をするのが、おっくうになってきた。これなら実家に残らない方が良かったかもしれなかったが、もう遅かった
少しだけ横になるからと畳に寝そべった。朦朧とする意識の中、隣で遊ぶ妹の相手をしていたが、いつの間にか熟睡していた。
目を覚ましたとき、熱はすっかり引き、頭痛も治まっていた。
外は、日が暮れかかり、家の中を薄闇が覆い始めていた。
「柊子、おーい、とうこ?」
家の中は静まり返っている。柊子を呼んだが返事はなかった。
俺が寝てしまってからも一人で遊んでいたのだろう。布団の横には、かるたと積み木が散らばり、着せ替え人形が二体、その脇に並べられていた。
俺はすぐに、柊子が一番気に入っている人形がないことに気がついた。
熱はすっかり下がっていたが、それとは違う寒気が体を駆け巡り、飛び起きた。走って家中を探し回ったが、いない。玄関の鍵は空いていた。というか、あの頃はどの家も、戸締まりをする習慣がなかった。
玄関に柊子の靴はなかった。外にかけ出す。空が真っ赤に焼けていた。
俺は走りながら、柊子の名を呼び続けた。児童公園にも、よく遊んだ水場にも柊子の姿はなかった。たまに誰かとすれ違ったが、その顔がハッキリ見えなくなっていた。
空を見上げると、夕焼けはうっすらとしたオレンジ色を空の端に残すだけになり、東の空は濃紺の夜の闇が広がり始めていた。
俺の真上には、紫の見事なグラデーションが広がっていた。
昼でもない、夜でもない、狭間の時間。
陽が完全に落ちてしまったら、柊子を探し出せない。
はやる気持ちに体がついていかない。喉は痛く、声は枯れてきた。前へ進みたいのに、足は空回りをしているようだった。
さんざん走り回ったが、柊子を見つけることはできなかった。くたくたになって家に戻ると、両親が帰宅していた。
事情を説明すると、父に殴り倒された。
「せっかくのめでたい日に、けちをつけやがって。俺の顔に泥を塗るとはな」
あの時の父の言葉を、忘れたことはない。
見上げると、母が鬼の形相で俺をにらんでいた。それが、俺が見た、母の感情ある唯一の表情だった。
俺は父と一緒に派出所へ行った。駐在さんが中心になり、結婚式から帰ってきたばかりの近所の人達と一緒に、柊子を探した。深夜までかけて辺りを捜索したが、柊子の存在を示す物は何も見つからなかった。
それぞれの家に戻る人達に、父も母も頭を下げっぱなしだった。
結局、柊子はそのまま戻ってこなかった。柊子は昼と夜の間に消えた。
厳格というより横暴な父と、無口な母の間で、俺はいつも小さくなっていた。そんな中、柊子はいつも笑みを振りまいていた。何を言っても笑い転げる柊子には、父も笑顔を向けることがあった。
柊子は我が家の太陽だった。可愛い天使だった。
しかし、柊子の存在は俺にとっての救いだったのと同時に、羨ましく、憎らしい存在でもあった。俺には決して向けられることのない父の笑顔を独占する妹に、嫉妬していたのだと、今なら分かる。
『おにいちゃーん』
あれ以来、紫色に染まる空を見ると、柊子が俺を呼ぶ声が聞こえる。体が震え、中身が空っぽになってどこかへ吸い込まれていくような感じがして、気がつくと、うずくまっていた。
柊子の声が聞こえるのは、柊子が俺を呼んでいたからじゃないのか。
寝ていても、夢うつつに聞こえていたからじゃないのか。
柊子のことを疎ましく思って、聞こえていたはずの声を、無視したんじゃないのか。
どれだけ自分を責めても、柊子は帰ってこなかった。
「また代わりをつくればいい」
柊子が消えてしばらくして、父がそう言った。母は何も言わなかった。
翌年、弟が生まれた。
俺には、弟が柊子の代わりには思えなかった。両親は、どう思っていたのだろう。
誰も柊子のことを話さなかった。あの日一緒に柊子を探してくれた近所の人達も、派出所の駐在さんまでもだ。最初から柊子なんていなかった。父も母もそいう態度をとり続け、地域全体がそれにならった。
俺の家は、昔からの農家だった。辺りに田畑を有していた。家の裏にある山も、我が家の土地で、この地区で一番大きな地主だった。地区唯一の寺の土地も、我が家が寄進したと聞いたことがある。
この地区に住む者で、父の意向に逆らう人は、誰もいなかった。
弟が生まれる前は、柊子のことを神隠しだとささやく声があった。しかし、弟が生まれると、そのささやきも消えた。
柊子の存在をあっさりとなかったことにしてしまった父。その父に従う地域の人。時間とともに、俺の中に不信と嫌悪が積み重なっていった。父に逆らうこともできず、流されている自分も、地域の人と同じだと思った。
あれから四十年。当時のことを知っている人は少なくなった。
俺が弟の頼みを断らないのは、柊子への贖罪だ。
弟の笑顔を見る度に、その声を聞く度に、柊子が生きていたらと考え、苦しくなる。もっと苦しめ、もっと苦しめと、自分を責め続ける。決して許されてはならない。生きて苦しみ続けなければならない。
それが、自分に科した罰。
弟に罪はない。だから、弟が柊子のことを知る必要はない。
『女の人の名前なのかな? 夕方になると、外に出て叫び出すんだよ。知らない名前だし。近所からも、言われちゃってさ。もう手に負えないよ。昔からの人達は、気の毒そうな顔をするだけで、何も言ってこないけど、本当は迷惑がってると思うんだ』
母は、まだ叫び続けていた。あの日の自分の姿を見ているようだった。
肩で息をする母が、ふと振り返った。
「すみません、小さな女の子を見かけませんでしたか? 幼稚園に入ったばかりで、髪の長い子なんです。名前は柊子といって、とても可愛い子なんです」
髪は乱れ、唇は不安に揺れ、声はかすれていた。
必死に訴えかけてくる目は、月明かりを跳ね返す夜の海のようだった。艶々と輝く瞳からは、絶え間なく水が溢れ出ていた。
アンドロイドでもロボットでもない。人間の顔と目だった。
初めて母を、小さく感じた。
柊子を覚えているのは、この世にもう俺と母の二人だけしかいないのだろうか。
母は、柊子がいなかったことにしてしまった父を許せても、その後生まれてきた弟を愛せても、自分のことは決して許せなかったんじゃないだろうか。俺と同じく、自分を責め続けてきたんじゃないだろうか。
もともと感情の乏しい人だったから、自分の事がわからなくなって、ようやく素直に感情を出せるようになったのかもしれない。
もしかしたら、あの泣きそうな甥の顔が、四十年前の俺の顔がきっかけだったとしたら、あの日の俺は、今も母の中に残っているのだろう。
「……一緒に探しましょう」
俺が差し出した手を、母が握った。何度も「ありがとう、ありがとう」と頭を下げた。
柊子がいなくなったあの日から、涸れ果ててしまったと思っていた涙が、俺の目に浮かんできた。
空では、紫のグラデーションが濃さを増してく。
その色を見ても、もう吐き気は襲ってこなかった。
柊子は生きていた。存在していた。
「柊子おおおおおおおおおお!」
あの日からずっと口にできなかった名前を叫んだ。
ありったけの力を込めて叫んだ。
隣にいる母の姿がにじむ。
俺は母の手を握ったまま歩き始めた。
紫に染まった闇の中を。
一緒に。
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