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看護管理者 藤村龍子先生インタビュー

以前、サイトで公開していたインタビュー記事を公開します。


ロングインタビュー


藤村龍子さん   

―何かを深めたいという気持ちが原動力になってきた

経歴

ふじむらりゅうこ
1964年 慶應義塾大学医学部附属厚生女子学院 卒業
    慶應義塾大学病院 就職
1969年 米国フルブライト留学
  ニューヨーク コロンビアメディカルセンター
フィラデルフィア ジェファーソンメディカルカレッジホスピタル
1971年 帰国 慶應義塾大学呼吸器・循環器系病棟主任
1973年 日本看護協会看護研修学校 教員養成課程
1974年 東海大学医療技術短期大学 講師
1981年 同大学助教授
1986年 同大学教授
1988年 慶應義塾看護短期大学 教授
1995年 退職
    東海大学健康科学部 看護学科 教授
1999年 東海大学健康科学部 看護学科 学科主任
2002年 東海大学 健康科学部 学部長 主任
2006年3月 東海大学健康科学部 定年退職 
2006年4月 国際医療福祉大学小田原保健医療学部 看護学科 教授


コンテンツ


看護の道へ
米国留学!
看護管理に興味を持つ
看護に関わってきて良かったこと
VISION


―看護の道へ


私は、母親を早くに亡くして、人間の死というものを早く知りました。
母親が亡くなる時に、母親は父親に三人娘のうち誰かが看護師になってくれればいいね、と言ったそうなんです。その話を聞かなければナースにならなかったかというとどうか分かりませんが、姉たちは看護師にならなかったし、母の遺言で看護師になったというのは大げさかもしれませんが、関係していると思います。私は早熟で・・年をとってから成熟しなくなったけれど(笑)、小説なども大人が読むような芥川龍之介の「自殺」など読んでいました。人の死に対する関心は人よりも強かったかもしれません。
もともと「    」という映画を見て保健師になりたいと思っていました。経済的に豊かでない時代に育っていて、島でがんばる保健師さんいいなと。もともと地元思考のようなところがありました。たまたま慶應義塾に知っている人がいたから進学しようかなと思いました。アメリカに行くことにしたのも、めぐり合わせです。その度に、色々な専門職集団の動きに影響されてきたと思います。看護師になってからは、何か深めたいという気持ちが次に進む原動力になってきましたね。


―米国留学へ


留学の動機になったことは色々ありました。
ちょうど「28(ニッパチ)運動」が話題になっていました。これは夜勤はせめて2人で、月8回までにして欲しいという要求運動です。私が就職した時に所属した病棟はまさにその発火点になるような病棟でした。ケアをするような病棟ではなく悲しい思いをしました。医療の現場はこういうものではないのではと。患者さんにとっては安心して休めるところが必要なのではないかと思っていました。ケアする環境でない病棟を何とかしたいというのが一つの留学のきっかけになっています。
また留学前は、慶應義塾大学病院で初めて腎移植が行なわれた頃で、あらゆる医療職種の人が一人の患者さんのためにチームになって最適なアプローチを目指しました。アメリカではどのようにチーム医療を実現しているのかという関心がありました。
 留学前、病棟所属ではなく専任の臨床学生指導のスタッフをしていました。私が常に影響を受けた人に、村上とみさんという方がいます。学生時代に臨床指導をしてくれた方で、彼女は学生と患者さんの問題をカンファレンスで話し合う方法をとっていました。こうやって問題を解決していくのだと実感したものです。彼女が、同じ様にフルブライトでコロンビアカレッジ留学していたことも留学に影響を与えています。
また、子どものころに、英語の先生とコンタクトすることが多い家庭で育ち言語教育にとても関心がありました。また私は広島出身で、原爆にはあっていないけれど、アメリカへの意識が高く育てられました。
先輩たちが何人かフルブライトでアメリカへ留学しており、フルブライトで私のアメリカ留学が現実のものとなりました。


―いざ留学!


 コロンビアもジェファーソンも外科系のユニットで実践をしました。研修プログラムは、とてもインターナショナルで、アジアの人とヨーロッパの人が多く、北欧に関心を持つようになったのも、この留学での出会いがきっかけです。アメリカの看護・医療を批判的に見つめながら、新しいものを学びました。皆アメリカに残るという人はほとんどいませんでした。アメリカもナースが不足していたから勧誘はされましたが、帰らなければならないビザであり、その当時、それなりにキャリアを持っている人が来ていました。
英語力に関しては、語学試験がありました。会話の試験もありました。一定の力を求められたけれど、その当時そこまで高いレベルではなかったと思います。コロンビアでは、消化器系と、脳神経系・リハビリなどがセットになっているところで研修をしました。それぞれセンターとして成り立っている病院でした。卒後教育プログラムや生涯教育にも関心があったのでコロンビアでは、ティーチャーズカレッジでも研修をさせてもらいました。その研修の一貫で、看護助手さんである黒人たちの教育プログラムに参加したことがあるのですが、その時、差別の問題、キング牧師が殺された直後でした。差別の問題をどう教育で扱っていくかということで、生まれたときはみんな一緒、遺伝子のために、メラニン色素がたくさんあって太陽にあたると増えていくだけで、変わらないんだと教えていました。なるほど、と思いました。アメリカは民主主義といいながらも様々な差別がありました。いじめも同じです。看護教育の臨床の場で大切にしているのは、臨床教育で大切にされない学生は現場で次は学生を大事にしない。豊かに育っていくことが大事。強いたげられる人は強いたげる。教育の中でどこでもあるのかなと思いました。

―看護管理に興味を持つ


ジェファーソンのときに、PCU(感染病棟)で実習をしました。緑膿菌などがでたら、そこに入院する病棟です。ユニークな管理システムだと思いました。その当時から管理にも興味を持つようになった。
また、ジェファーソンでは、ベッドサイドで申し送りをしていました。そうすると、より間違いがないのです。看護師さんたちの活用の仕方もPRNナースという看護師が重症な病棟に割り振られていました。今日はどこどこに行きなさいと言われるのです。私は最後に研修をした病棟でPRNナースをしました。他病棟にいって驚いたのは、引き出しを開けると同じ物が入っているのです。またその当時4時間勤務ナースや5時間勤務ナースいました。ケアプランがしっかりして、それをしっかり見れば看護ができる。日本のパートはシンプルな仕事しかできませんが、そこでは違いました。これはこれがないと動けないという現実的な看護プランがありました。私が看護記録に関心をもったのもこれがきっかけです。


―看護に関わってきて良かったこと


コロンビアを卒業した人達とデンマークでのICN大会で再開したことがあります。また、海外研修に付き添いデンマークに行ったとき、デンマークの病院で、たまたま学生を連れて病院の廊下を歩いていたら20年ぶりに再会したこともあります。国内外に限らず、看護の仕事をしているからそういう再会ができるのだと思っています。
また、東海大学健康科学部の学部長職のとき、学外の仕事として、看護協会の仕事で地方にいったり、看護診断のプロセスを通して、地方の大学病院などに行きました。そこに必ずといっていいほど教え子がいて、声をかけてくれました。それが教師の醍醐味です。


―VISION


クリティカルケアと看護診断が私の課題です。この4月19日~22日まで、アセンディオ(ACENDIO:看護診断介入成果欧州協同協会)の大会にオランダまで行ってきます。看護診断学会の理事で国際交流委員会の委員長をしているので、日本がどのような活動をしているかというのを発表して欲しいとアクセプトされたのです。発表とセッションをしてきます。アセンディオは私も初めての挑戦です。
現在、国際医療福祉大学で教える傍ら、看護管理開発学で大学院に在籍しています。クリティカルケア領域のCNSの人たちの意思決定に関わる研究をしています。何かのステップアップするためではなく、自分の活動を統合し、何らかの形にまとめができればいいなと思っています。紅梅会の新聞(H13)にも書きましたが、これからは、学事的というより何かエッセイのようなのを残していきたいと思っています。

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