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こんな時だから物語を一つ。

「きたないわたし」 世良滉介

 暖色の室内灯が散らかった部屋を照らす。
私の大学生活も残り一年とわずかになった。今日も朝からオフィス街に出て説明会、面接。次の予定までのわずかな時間でファストフード店に駆け込みお腹を満たす。夕方からは、緑のエプロンを身に付けカフェで閉店までシフトに入る。家に着く頃にはいつも明日になっていた。
 部屋の隅にはホコリがたまり、洗い物や洗濯物はいつもたまってる。朝出し忘れたゴミ袋も床に転がっていた。
せめて身だしなみくらいはと、明日着るインナーやリクルートスーツのシワをなおす程度は気が回るけど、一人暮らしの女子大生なんて、友達や男の人でも家に来なければこんなもんだと思うようにしている。ましてや就活中ならなおさら、みんな一緒だって念すらおしていた。

 今日も同じルーティンで日付が変わった頃に家についた。
 カバンを床に置いて化粧も落とさず、スーツを着たままベットに飛び込んだ。
 ダメだとは分かっている。社会人は我慢の連続だってバイト先の一つ上の先輩がお店に来たときに言ってた。でも、誰にも迷惑をかけていないことまで自制できるほど私は、まだ大人ではないのかもしれない。
 明日も面接がある。そう自分を奮起させ、少しくたびれてきたスーツをハンガーにかけながらスマホをひらき明日の予定を確認した。

 スマホに一通のメールが届いてた。親指でメールを開く。
「え…?」
 私はメールの内容に思わず声を漏らした。

『黒川 彩華 様
 株式会社 金澤製薬 採用担当です。
 この度、弊社では2021年度の新卒採用を諸事情により中止とさせていただく運びとなりました。
 面接へご予約いただいておりました皆様には、大変ご迷惑をおかけしましたことを、深くお詫び申し上げます。

黒川様のより一層のご活躍をお祈り申し上げます。 』

 たった一通のメールで私とこの会社の関係は断たれた。
 別に第一志望の会社でもないし、正直興味がある会社とかそういうわけではなかったけど、エントリーシートだって面接で話す内容だってそれなりの時間をかけたのに、披露することもなく消えることがあることを私は知らなかった。
 立ち上がったしまった気力の矛先を急に失った私は、仕方なくと干していた洗濯物を取り込んで畳んだ。

 翌日、バイトまで時間が空いたので早めにお店にいって、シフトまでの時間は来週にある第一志望の面接に向けて準備することにした。
 今日は金曜日。就活は土日に行われないことが多かったので、週末はフルタイムでシフトも入れていた。空いている時間を見つけては、会社について調べ直したり、面接の話す内容に矛盾がないかなどチェックしないと間に合わなかった。今日面接が無くなったことが、少しラッキーだとすら思えてくる。
「今日も偉いねー。はい、コーヒーのおかわりどうぞ。」
 店長の実咲さんがマグカップに入ったコーヒーを2つもって隣に座る。
 あ、すいません、と軽く頭を下げて容器まで熱くなったコーヒーを受け取った。
「休憩ですか?」
「そうそう、私もラストまでだからね。」
 マグカップに口をつける実咲さんの横顔は綺麗で、ツヤのある長い黒髪から覗かせる肌は、私より5つも年上なのに透き通っている。私はここでバイトを始めてから、2年半ほどたつ。実咲さんは、田舎から上京してきてバイト経験もない私の教育係で、ミスばかりの私に「大丈夫、大丈夫」っていつも優しかった。憧れの大人だった。
「今日就活はオフの日?」
「いや、面接があったんですけど…無くなっちゃって。」
「もしかして…コロナ?」
 会社のメールには【諸事情】と書かれていたが、今、日本いや世界の【諸事情】なんてそれしかない。気分転換にSNSを開けば感染者数や政府への批判が目にとまり本当かどうかなんて分からない情報で溢れている。
「今日、都庁で会見があるみたいだしねー。」
「そうなんですね。大丈夫なんですかねー、オリンピックとか。」
 つい一ヶ月前は、新しくできる山手線の駅を普段使う機会もないのに待ち遠しくなったり、テレビやネットもオリンピック一色だった。
「そっか、オリンピックもできるのかな。このままで。」
 実咲さんは再びコーヒーを口につけようとしたが、思い返したようにやめてマグカップを両手で包んだ。
「でもね、私は、いつも通りの明日が来てくれるかどうかが一番不安だよ。」
 私は、何も言えなかった。私もこんな大人になりたいと思った憧れの人でさえ【日常】という当たり前にあるものを失う不安と向き合っている姿に、私は頷きのひとつも出来なかった。
「じゃあ、私戻るね。彩華ちゃん16時からよろしくー」
 実咲さんは、胸の横で軽く手を振って店の裏へと戻っていった。
 私は、はーいと返事をして言葉にはならない不安を少し冷めたコーヒーを口に含んでごまかした。

《この週末の外出自粛を要請します。不要不急の外出はお控えいただくようご協力をお願いしたい。》

 私が来週から出す春の新作の説明を受けている間に、都知事から外出自粛の要請が出された。
 接客中も、裏で実咲さんはエリアマネジャーだろうか、誰かと電話したり中での作業におわれていた。
 その後、お店を急遽早く閉めることになり、週末のシフトも無くなった。
「明日から急遽なんだけど、週末はお店お休みにすることになりました。」
 実咲さんが閉店作業中に、スタッフを集めて話した。
「シフトに入ってた人は本当にごめんね。みんな体調には気をつけて。」
 最後に実咲さんは笑顔を浮かべて謝っていたが、その笑顔の裏の不安が見えてしまいそうで、直視することはできず、そのまま店を後にした。

 帰り道の途中、飲み物が切れていたことに気付いて近くのスーパーに寄った。
「嘘でしょ…?」
 お店の外まで人は並び、カップ麺や缶詰と言った保存の効く商品はもちろん、ティッシュ、キッチンペーパーまで店内から姿を消していた。
 人をかき分けて、昨日飲み切った牛乳と2Lの水をカゴに入れる。本当はこれだけでよかった。よかったはずなのに私は水をもう一つ、残っていたパンを二つ、家ではほとんど食べないのに最後に残っていたカップ焼きそばをカゴに入れて列へと並んだ。
 一歩、一歩と列は前へと進む。その途中に見えてしまう残り少ない食べ物を並んでいる間に何度も買おうか悩まされた。絶対に必要のないもののはずなのに。
 在庫あるんでしょ?出しなさいよ。もうトイレットペーパーはないのか?
 レジに向かう途中に奥の方から聞こえてくる名前も知らない声が私の内側に響いて、不安を喉元まで押し上げて、気持ち悪い。
 私は、実咲さんのように不安と向き合いながら笑顔でなんかいられない。みんなの体調なんて心配する余裕なんてない。就活はどうなるの。学校はどうなるの。心を埋め尽くそうとする黒い感情が、私を不安で支配しようとする。もうカゴ入れてしまった余計なはずのものが食べ物とは思えないくらいに汚く見えた。
 レジがやっと自分の番になった。
「…ません。」
「えっ?」
 一瞬、男の店員さんが私の言葉に戸惑った気がしたが、私はレジに通される商品たちから目を逸らすことができなかった。
「…すいません。」
 私は、逃げるようにお金を払って綺麗に袋詰めされた商品を抱えて家に急ぎ足で向かった。

 酷く目覚めが悪い。昨日スーパーで買った商品が床に粗末に置かれている。お風呂にも入らずに寝てしまっていたようだ。
 時計の針はお昼をとっくに過ぎ、いつもならお店が混み出す時間だった。
 スマホにはたくさんの通知が来ていた。私が寝ている間に、私への要件をたくさん受けていてくれたみたいだ。
 バイトのシフトが無くなったLINE。
 第一志望の会社の面接が当面延期になったメール。
 大学からの授業自粛の連絡。
 当たり前に来てくれると思っていた明日は、私にはもうない。
 散らかったワンルームには時間だけが流れ、冷蔵庫の振動する音。蛇口から垂れる水がシンクをうつ音。普段なら忙しなく準備していて耳に入らない音が聞こえてくる。見通しのつかない現状が目の前にある事実が、私の小さな心臓をキュッと掴む。
 私は、無気力に土曜日を過ごした。

 日曜日になった。スマホをいじることぐらいしかやる気にならなかったが、たくさんの情報を取り込むだけの空きは私にはなく、画面を見ることもなく眺めた。
 昨日からほとんどベットから動いていない。ただ、人間とは罪深い生き物なのか、無気力でもお腹は空く。食べた残骸たちがテーブルの上に広がっていた。
 ピンポーン
 インターホンがなる。宅配便だった。
 身体を起こし、手櫛でとりあえず髪を整えて宅配物を受け取った。
 それは雑に梱包された段ボールだった。宛名を見ると田舎の母親からだった。
 ガムテープを剥がして中を見ると、一枚の広告用紙とマスクや食料品が隙間なく詰まっていた。
広告用紙を手に取り裏を見ると、ボールペンで文字が書かれていた。

彩華へ
少しだけど、使ってね。
東京は今大変だと思うけど、体調だけは気をつけること。
何かあったら、電話してね。

 マスクなんて今やどこに行っても開店前に並べなければ手に入らないし、このカップ麺や缶詰、パスタなんてこれだけ買うのは周りから見れば、「あの人買い溜めしてる」なんて悪く見られたかもしれない。
それでも、私のためにこれだけのものを段ボールに詰めてこの手紙を書いている姿を想像したら、目頭が熱くなるのを感じ涙が手元のマスクの上にこぼれ落ちた。
私は思い返したようにスマホを見る。昨日1件不在着信が入っていたが、それも母からだった。目元を強く擦って涙を拭く。目元が真っ赤になっているはずだが、そんなのは関係ない。着信履歴から母に電話を折り返す。
『はいはいー。』
「あ、お母さん。荷物…届いたよ。」
『そう?よかったー、そっちは大丈夫?』
「うん。大丈夫。お母さんありがとうね。」
『はいよー。』
「じゃあ、お母さんも体調に気をつけてね。」
『何?今さら、はい、じゃあ頑張りなさいよ。』
 1分とないやりとりだった。電話越しの声だったけど、「大丈夫?」「頑張りなさい」なんて何気ない言葉が目の前にある暗闇に光をさしてくれた気がした。
 辛いのは私だけじゃない。不安なのは私だけじゃない。みんなが闘っている。
カーテンを開けると眩しい太陽からの日差しが部屋をにたくさん入り込んできた。
「ちょっと汚いな…掃除でもしますか。」
 私は、テーブルの上に広がった残骸をレジ袋にまとめた。
 私の身体は、昨日よりとても軽かった。

 あれから数週間がたった。まだウイルスは世界に広がり、日本の状況も悪くなっているかもしれない。週末の自粛も何度目かになる。就活だってオンラインに切り替わり、選考も延期になることもあった。
 でも、私の部屋はあれから綺麗になった。読書を始めるようになり、新しい発見もあった。苦手な料理もするようになり、得意料理が少しだけ増えた。
 まだいつも通りの明日が来るには、時間がかかるかもしれない。
 だけど、また日付が変わるころに家につき、洗濯物や洗い物がたまる日が来るために私は今日も家で春の日差しを感じている。