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Eyja #01

 誇大広告だけが生活の風景になる前の1974年、誇張だらけのオカルト本『The Bermuda Triangle』が出版され、世界的なベストセラーになった。著者とされるチャールズ・ベルリッツは謎の失踪を遂げており、死体は見つかっていない。最後の目撃者とされるフロリダの証券投資家は、明け方の海で自身のサロンクルーザーの甲板に中腰で立つ彼の姿を見た。半身だけ振り返った彼の右眼から何かが突き出ているのが見えて怯んでしまい、その隙に彼は大西洋に飛び込んでしまったという。自身の目に引き摺り下ろされるようだった。投資家はしばらく茫然として鈍色の海を眺めていたが、遠くトビウオが跳ねただけだった。我に返りCall911したが、捜索は行われなかった。

 かつてチャールズ・ベルリッツの両眼だったことのある残骸が付着したまま、それをイトミミズのようにひらひらとさせながらサンゴの塊は深海を目指す。肉食の大型魚と幾何級数的に増していく水圧にチャールズ・ベルリッツの身体は紙粘土でできたタイヤのようにほろほろと擦り切れていった。水深推定10000m。地球の大方の動物は視覚を放棄せざるを得ない漆黒の闇。雌を後ろから抱えた形の互いに30センチメートルはあろうかというアンフィポッドのつがい。雄は出会えた奇跡を貪るようにがっちりと雌をホールドしたまま海底と平行に揺蕩っていた。例え何が起ころうとも、この想いと心中するつもりの2匹。かつて脳を介して密接に連絡を取り合っていたチャールズ・ベルリッツのつがいの眼だった残骸を引き摺って、サンゴの塊はアンフィポッド夫妻のねじれの軌跡を辿って今や垂直に海底を目指している。そしてそれは、目的であった巨大なサンゴの塊の傍で静止した。

 大西洋の底に居を構えた推定2700歳の巨大な脳サンゴは、周囲を仄かにエメラルドに照らしている。世界はもう一度瞼を開くことができる。筋、何千何万という筋がフラクタルに入り組んでいる。枝分かれし、袋小路に追いやられ、寄り添い、少しずつ幅を広げて爬行する線。忘れられた電話ボックスのように内側から発光して、何かを考えているようだ。何かを考えている。思考する脳サンゴは長い旅路を全うしたサンゴを片手間に取り込む。かつて自分だった自分。空間的な差異を利用して恩恵をもたらすかつての自分。遠く離れたアメリカで何十年と働き、帰ってくるなり膨大な情報を授けてくれる。手に取るようだ、と思う。私は少しだけチャールズ・ベルリッツとして生きた。人間の生涯。52歳までチャールズ・ベルリッツはチャールズ・ベルリッツとして生きて、だんだん私になった。旅はいいものだ。私にとって人間の人生は文字通り旅だった。最も単純な商人資本の旅。向こうで商品を売り、商品を仕入れ、帰ってきてまた売る。そう、距離が値打ちになるようなものだ。私は人間文化を少し操作し、沢山の情報を仕入れた。私は時間と共に大きくなる。私は無数のポリプを放つ。少し前、アイスランドの南西沖で海底火山の噴火があった。出来上がりつつある島の植生に入り込むことができた。私は多くの人間の魂を必要としている。魂を持つのは人間だけだ。栄養がある、というだけでは済まないのだ、もう知ってしまった。美味しいということ。どのような種類の魂が美味しいかということまで知ってしまった。

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