3.「受け入れる」という生き方

「天国と地獄」とは正にこのことだろう。
エレベーターの中での私の胸の高鳴りは、数日間かけ、単調減少していくことになる。

エレベーターが開き、少し歩き、扉を開け事務所に入り、登録説明会というものに参加することになった。
当時の私が知っている物だけで例えるならば、そこはまるで予備校の教室の様な空間だった。
白い壁、上に掛けられた時計、その下に設置されたホワイトボード、その正面に並ぶ長い机と椅子、そこに等間隔に置かれた資料、今にも模擬試験が始まりそうな雰囲気がそこにはあった。
ただ、模擬試験会場と大きく違っていたのは、その椅子に座り、資料を手に取る人間達の風貌であった。
夢を持った制服姿の若者はそこには1人もおらず、日本中の公園から 平日の昼間にベンチに座っている人間をかき集めたのではなかろうかと言わんばかりの無気力な大人達が私の目の前には座っていたのだ。
極端な言い方に感じるかもしれないがこれは事実だ。
帽子、サングラス、サンダルなどを着用する者、説明会が始まるまで足を組みスマホをいじる者、居眠りをする者、個性的なスタイルを貫く大人達を目の前に、私は唖然とした。
けれど、何かに所属し その環境に身を置く中で、自分だけが特殊で 周りの人と違うなどということは、まず無い。
自分の目に 最も多く映る人間達こそ、自分を映し出す鏡なのだ。
今考えてみれば、あの登録会において、私もそのうちの1人として溶け込んでいたのだろう。
当時の私は、そこまで現実を受け入れることができず、それから何年間も彼らと同じ肩書きとして働くともまだ知らずに、ただただ呆気に取られながら、登録を済ませ、無事(?)派遣社員となった。

私の登録した派遣会社のシステムはこうだ。
まず毎日派遣会社からスタッフ宛にメールが届く。
メールの内容は2日後に紹介可能な近くの現場の一覧だ。
現場というのは、私の登録した派遣会社は基本的に物流倉庫ばかりで、荷物を運ぶ重労働や、商品のピッキングをして仕分ける軽作業が多かった。
現場の名前、勤務時間、時給、作業内容、最寄駅、残業の有無、などがそれぞれ記載されている。
2日後に勤務を希望する人間は、そのメールに対し、その日中にリストの中から第3希望までを書き返信する。
その後、派遣会社側は、我々の返信を元に、適正年齢、性別、希望した現場の経験回数、自宅からの距離、など様々な情報を吟味し精査した上で、翌日(勤務希望日の前日)に"お仕事紹介メール"なるものを我々に送信する。
そのメールを見て、我々は働きたい現場であれば承諾、働きたくない現場であれば却下する旨を派遣会社に伝え、承諾した者は翌日、指定された現場で働く。
勤務後は、働いた時間などを記入した紙にサインをもらい、その紙を派遣会社に提出することで、いつでもお金がもらえるーという流れだ。
簡単なような、めんどくさいような、働いた経験すら少なかった私には、それすらもよく解らなかったが、即日お金がもらえるというのは、やはりとてもありがたく、早速説明された通りの手順で仕事を予約し、最初の勤務地が決まった。

派遣社員としての初勤務のことは今でも鮮明に憶えている。
重労働とも、それをこなすような人々ともこれまで無縁だった私は、当然それらが怖くて仕方がなかった。
そのため私は、最も身体を使わなそうな"ダイレクトメールの封入"という作業内容の勤務先を選択した。
家からは電車やバスを使い、小1時間はかかってしまう場所だったが、それでも楽な作業内容に越したことはないという一心だった。
バスを降りて、地図通りに道を歩いていると無事、勤務予定の会社の名前が記された倉庫に到着した。
その頃には既に、周りにも自分と同じ職場で勤務するであろう派遣社員の人達がトボトボと歩く姿が散見された。
本来、何事も"初めて"には緊張が伴う。
けれど、あまり褒められたものではないが、彼等に囲まれながら現場へ向かううちに、緊張は無意味なのではないかという妙な安心感が私の心の中に湧いてきた。
安心というか ただの無気力というか、とにかく19歳の出勤の様子とは思えない程に落ち着いてしまった私は、そのまま彼等と共にトボトボと歩くことで、無事勤務先に着くことができたし、倉庫内の派遣専用の待合室にも着くことができた。

待合室には、2日前の登録会と同じような澱んだ空気が漂っていた。
2度目ともなればカルチャーショックを受けることはなかったが、仕事に臨む前向きな気持ちを整えることも当然できなかった。
鍵付きのロッカーなどは無く 床には無作法にスタッフの荷物が置かれ、机には至る所にカップラーメンの空箱が並べられていて それらの中には水を吸ったドス黒いタバコの吸殻が溢れんばかりに詰まっていた。
この灰皿とも言えない何かを、いつ 誰が どのタイミングで交換するのかなんてことを考えていたら、気が遠くなってしまったので、私は考えることをやめた。

勤務時間になると、会社の名前がプリントされた作業着を来た1人の男性が現れた。
この倉庫の社員さんなのだろう。
彼は挨拶をするわけでも 自己紹介をするわけでもなく、「はぁ~い こちらでぇ~す」といった様子で、羊の群れでも移動させるかのように、我々を作業場へと案内した。
作業場には大小様々な機械があり、その全てが繋がっていた。
機械をしばらく眺めているうちに、それらがどんなシステムで動いているのかを概ね把握することができた。
小さい機械にはそれぞれ同じ紙がセットされていて、それが1枚ずつ大きい機械に吸い込まれていく

吸い込まれたそれぞれの紙が最終的には全て大きな機械の中で重なり、それをビニールに包むことで、お客様様に送るダイレクトメールが一部完成する

完成したものを誰かがパレットに決まった配列で積み重ね、そのパレットをフォークリフトでトラックに積み込み出荷する
まあこんな流れなのだろう。
そして、おおかた我々派遣の仕事は、その吸い込まれていく紙が機械から無くなる前に補充するといった内容なのだろうとも察した。

案の定、私の予測は的中した。
先程の社員さんが、「はい君はここ あなたはそこ」といった具合に、我々派遣を小さい機械の前に配置していった。
例に漏れず、私も1つの小さな機械の前に配置された。
そこには「↑ここの紙が無くなりそうになったら後ろから同じ紙を取って補充して下さい。※向きに注意」と、簡単なやり方が明記されていた。
要するに、口頭で説明する必要すら無い程に、単純な仕事内容ということだ。
仕事が始まるその時までは、この仕事内容に安堵し、これでお金が貰えるならば儲け物だと思った。

チャイムと共に私の仕事が始まった。
機械が動き出し、紙が1枚ずつ減っていった。
8割程度減ったところで、両手を目一杯広げ、広辞苑程の厚さの紙を後ろから取り、向きを揃えて機械に補充する。
5分ほど経ったら、紙がまた8割程度減るので、再び紙を補充する。
この動作の繰り返しだった。
これがやってみると案外難しく......なんてことは全くなく、予想以上に簡単な作業だった。
しかし、この作業に苦痛を感じるまでにそう長い時間はかからなかった。
暇すぎるのである。
時計が壊れているのではないかと思ってしまう程に時の流れは緩やかで、ここでの5分間は日常生活での1時間にすら感じた。
あと7時間以上もの時間を、一体何をしていればいいのだろうか、何か考え事をすべきなのか それとも何も考えないべきなのか、そんな思いばかりが何度も脳内を駆け巡った。
仕方がないので、流行りの音楽を脳内で再生させたり、周りの人間を観察することで、なんとかその場をやり過ごした。

やっとの思いで食事休憩を迎えた。
私はなんだかあの待合室に戻るのが嫌で、少し離れたコンビニでその時を過ごした。
そこでここまでの数時間を振り返り、色々な人がいるものだなぁと改めて気付かされる。
私物持ち込み厳禁と書かれていた筈なのに、白々しくイヤホンで音楽を聴く者。
紙が無くなるまでの間、あたかもそれが当然かのように床にしゃがみ込む者。
紙が曲がっていたり 向きを間違えたりして機械がエラーを起こして止まり その対応を社員さんにしてもらっては深々と謝罪をする、かと思えば数分後にまた同じようなミスを繰り返す者。
私よりはるかに悪い勤務態度 はるかに低いクオリティの仕事をする人間はたくさんいたが、我々を使っている現場の社員さんからしてみれば、彼らも私も特に大きな差は無いのだろう。
その証拠に、社員さんは、誰を注意するわけでも追い出すわけでもなかった。
そんな状況下で、一体どういう心持ちでいれば、午後の仕事も頑張ることができるのだろうか。
複雑な心境の中、私は現場に戻った。

午後の作業もとてつもなく暇ではあったが、それでも同じ動作をひたすら繰り返すことで、少しずつ時間は過ぎ、そのうち定時を迎えた。
作業終了のチャイムと共に皆、無言で一目散に現場を後にし、荷物の置いてある待合室へと向かっていった。
私は少し辺りの掃き掃除をした。
綺麗好きだったわけでも、社員さん達に媚びたわけでもなかったが、共に1日働いた何一つ尊敬することのできなかった同じ派遣社員の人達と私は違う人間なのだということを自分の中で確かめたい、そんなせめてもの背伸びから生まれた行動だった。
納得いくまで掃除をし、少し遅れて私も待合室へ戻った。
部屋にはもう誰もおらず、机には既にサインされた派遣会社に提出する用の紙が置いてあった。
私はそれを取り、現場を後にした。

バスに乗り、電車に乗り、派遣会社の事務所に到着した。
派遣会社の社員さんに紙を提出すると、その方が、
「安田さん!おつかれさまです。初勤務は、いかがでしたか?」
と、私ににこやかに問いかけた。
考えてみれば、名前を呼ばれたのも、話しかけられたのも本日初めてのことだった。
ごく普通の会話、向こうも初めての人にはそう問いかけるというマニュアルだったのかもしれないが、私はその問いかけに対し、なんだか感情が溢れ出てしまい、
「仕事は簡単でした。ただなんだか寂しい1日でした。」
と、正直に答えてしまった。
ここまでストレートに胸の内を吐露するスタッフは珍しいのだろう。
社員さんは大笑いして、
「そうでしたか。最初は多かれ少なかれ派遣という仕事には皆さん違和感を抱くものなんですよ。ただそれを楽と感じる人もいれば、寂しいと感じる人もいらっしゃるみたいですね。いずれにせよ、じき慣れていきますよ。これからもよろしくお願いしますね。」
と言いながら、私に現金を渡してくれた。
「こちらこそ、よろしくお願い致します。」
私もそう答え、現金を財布にしまい、家に帰ることにした。

家までの帰り道、空はもう真っ暗だった。
長かった1日も終わろうとしていた。
2日前の登録会に向かっていた頃の希望はまるでなく、それどころか 産まれてから 最も空虚な1日だったとすら感じた。
名前も覚えられず、挨拶をすることもされることもなく、感謝されるわけでも 叱られるわけでもなく、ただひたすら呼吸と 紙の補充をし続け、そこになぜかお金がついてきたーそんな1日に、やり甲斐や 達成感なんてものは得られる筈もなく、待ちに待った所持金に対しても、なんだか素直には喜べなかった。
唯一会話することのできた先程の派遣会社の社員さんが言った"じき慣れていく"という言葉が、私の頭の中に強く残っていた。
もちろん励ます意味で言ってくれたのはわかる。
これからも毎日寂しさや虚しさを抱えながら働き、それで得たお金で嫌々生きていくわけではない。
ただ、そんなことは私にもわかっていた。
私が何よりも不安だったのは、こんな日々が続くことより、いつかこんな日々ですら日常になり、それらにやり甲斐や達成感を感じ、それにより得たお金に心底喜ぶようになった時、その時にはもう今までの自分は居なくなってしまうのではないかということだった。
子供頃、親に行儀が悪ければ叱られた。
小学生の頃、職員室に入る時にはまず名前を名乗るようにと、躾けられた。
中学生になり、部活をするようになれば、先輩や顧問とすれ違ったら誰よりも大きい声で挨拶するようにと叩き込まれた。
これまで、人間としての最低限の常識として色々な人達から教わってきた礼儀が、この日何一つ求められず、にも関わらず私はお金を与えられた。
"人間"という科目において「君に平均点は無理だよね」と、"世間"という名の先生から、0点を取ったのに自分だけ再試験を免除されお情けで合格にしてもらったような、そんな種類の虚しさだった。
どこが痛いわけでも、嫌なことを言われたわけでも、身体が疲れ切っていたわけでもない。
ただ世間から期待されていないというか、必要とされていないというか、自分がそこら辺の石ころにでもなったかのようなこの感覚が、こんなにも辛くて 切なくて 虚しいものなのかと初めて実感した。
そんなことを考えながら夜空を見上げ、今日も当たり前のように人間としての1日を送ったであろう制服姿の学生や スーツ姿のサラリーマンに追い抜かれながら歩いていたら、私は涙が止まらなかった。

ハッキリさせておかなければならないのは、派遣社員も ダイレクトメールの封入を仕事とする人も、別に人間失格でもなければ羊でもないし、ましてや石ころでもないということだ。
誰かがしなければ、誰かが困ってしまう、必要不可欠な仕事だ。
それが単純な作業内容なのであれば、そこに挨拶や会話は無い方が効率化に繋がるという考え方もわかる。
それに、後に私は派遣で何十年間も生計を立てている方や、家族を養っている方にもたくさん出会うことになるし、尊敬できる派遣社員の方々ともたくさん出会うことになる。
今では派遣の職種や雇用形態は昔以上に広くなり、コンビニや飲食店ですら その日その時間だけ働くといったスタイルの派遣社員を店内で見る機会が増えた。
派遣に対する偏見は年々なくなっていってる気がするし、寧ろ"即戦力"、"経験豊富"という印象の方が今は強いのかもしれない。
ただ、当時の私が他の派遣社員より不幸だったのは、今まで自分がいた環境と これから身を投じるであろう環境の乖離があまりにも大きかったということ、そして その原因が誰のせいでもなく 紛れもなく自分にあったということ、この2点だった。
曲がりなりにも肩書きだけはエリートとして生きてきた19歳の私にとっては、このギャップは耐え難かった。
努力を怠り、実績を置き去りにし、自尊心だけが高くなった若者の末路だった。

帰宅し、布団に入った後も中々寝付けなかった。
次回の出勤でも、こんな思いをするのかと考えたら憂鬱だったし、逆に次回の出勤では何も感じなかったらと考えると それはそれでやはり恐ろしかった。
わずか1度の出勤で、働くことが嫌になった。
けれど、働かずしては再びあの金欠地獄に戻るだけだということもわかっていた。
そこで私は、1つ、自分との約束をすることにした。
それは"受け入れる"ということだった。
泣いても笑っても、しばらくこの生活から抜け出す見通しは立たなかったし、その原因を作った過去の自分を恨んでいては仕方がない。
毎日の仕事に嫌々向き合っていては、それこそ精神を磨耗させるばかり、楽しいと感じることはなくとも、現実を受け入れればこの環境に対する嫌悪感も無くなるのではないか。
そしていつか、そんな努力をせずともこんな日々が当たり前に感じるその日が来ても、それはこれまでの自分が消えるわけではなく 大人になったという風に捉えよう。
運命を受け入れることこそ、生き物の本分なのだから。
そう思った。
そう思うことで、その日は寝ることができたし、目を覚ませば 次回の勤務の予約をすることができた。

聞こえは良いが、この時の私の決心はただの逃げだったのかもしれない。
悪く言おうとすれば、"正当化" "現実逃避"なんて言葉が思い浮かぶ。
あの日から、現状を打破せんという気持ちを持ってもがき続けていれば、今の私は全くの別人だったのかもしれない。
ただ、あの日の夜、自分を寝かしつけたあの決心こそ、働くことへの不安や苦痛や理不尽に立ち向かう武器となり、今日までの自分を支えてきたのではないかとも思う。
どちらの道を選んだ自分の方が、男として 大人として 労働者として 人間として、強いかも 立派かも、今となっては確かめる術はないが、少なくともこの世界線で生きる今の私は、8年前のあの夜の私に感謝している。

過去の自分の思いや考えをこうして文章にしている中でつくづく感じてしまう。
随分久しぶりに己を顧みたものだと。
これまでも全く顧みなかったわけではない。
受け入れることを迷ったり、受け入れ続けたこの数年を後悔したことがあの日から一度もなかったと言ってしまったら、それは嘘になる。
「ゾウのことは考えるな」と言われれば、人間は真っ先にゾウのことを考えてしまう生き物なのだから。
ゾウのことを考えまいと、必死に頭でキリンのことを考え、それでもゾウがチラついては苦しむ、そんな日々も何度もあった。
ただ今はこうして手放しで過去と向き合えるようになった。
何故だろう。
今の仕事や生活が心から満足できるようになったからなのだろうか、それともあの日自分が恐れたように"現状に満足するだけの人間"に成り下ってしまったからなのだろうか、それは未だわからない。
その答えはこれからも働き続け、生き続けることでしか出ないのだろう。
もしかしたら死ぬまでわからないのかもしれない。
ただどちらにせよ、今の私が日々に虚しさを感じていないのなら、過去もここで1度受け入れることで、今後に繋げていけるのではないだろうか。
そう思い、低頻度ではあるが、今もこうして文章を書き続けている。
10年後でも 定年退職する時でも 死ぬ瞬間でもいい、その時に、上辺ではなく心からこれまでの全てを受け入れられたのなら、それこそが幸せなのだと今の私は考える。

タバコを片手に、呑気にこんな文章を書いているとはつゆ知らず、過去の私はその後も長いことこの業界に身を置き、次第に労働者としての才能を開花させていくわけだが、それはまた次の機会にお話させてください。

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