DULL-COLORED POP「演劇」を観て思ったこと& VR演劇の企画
DULL-COLORED POP の活動休止公演「演劇」を観に行って、当日劇場で売られていたパンフレット「旅立ち」を買いまして、それを本郷3丁目の上島珈琲店で読んでいました。
「演劇」はとっても面白かった。一緒に演劇をしている劇団主宰に勧められて初めて見に行ったんですが、エネルギーを感じたし、いまここにしかない時間と空間を人生の中の2時間に得ることができたし、陳腐な言い方ですが、3500円という価格以上の感動、価値を得た時間でした。というか、小劇場で2時間もパイプ椅子に座らせたら確実に1時間で尻が痛くなって「まだ終わらないかなー」ってなるのに、110分間、まったく飽きることなく楽しめた。
一緒に見に行った彼女が見終わった後で
(彼女は元々演劇に興味があったわけではないのに、僕が演劇をやっていることで、僕のを観に来てもらったり、一緒にいろんな演劇を見に行ってもらっている)
「面白かった。こういう面白い演劇も演劇界にはあるんだよ、ということをもっと広く知ってもらえるといいね」と言っていて
なんだか、そう、そうなんだよ、確かにそうだよね、こういう面白い作品が知られてなくて「なんか演劇って、なんなん?何が面白いん?アングラ?気狂い?」みたいな印象だけ持たれていることってもったいないよな、と改めて思ったのでした。
僕も僕なりに「演劇」の感想を言葉にしようと思って気づいたのですが、演劇って見終わった後、感想を言葉にしづらい。他のアートにも言えるのかもしれないけど。いつしかスプツニ子!さんが「作品で伝えたかったメッセージは?って聞かれるけど、簡潔なメッセージにしたかったらtweetするわ!言葉にできない伝えたい何かを、作品として表現しているのだ!」的なことをtweetされてて、印象的でしたが、だから感想も簡単に言葉にできないのは当たり前なのかもしれないけれど。
それにしても、「演劇」を観た感想はなんとも言い難い。2次元の言葉、3次元の空間、4次元の公演時間を超えたn次元の情報量、とでも言うのでしょうか。情報量が多い。
ただ、その努力を怠ってはいけないのだろうと思います。こと、演劇という「いまその場所でしか価値を感じられない活動」は、形の残る音楽や絵画と違って。「これ見てくださいよ、サイコーじゃないですか、これに僕はね、3億3000万円払ったんですよ」と、グルスキーの写真を買った人が他の人に説明できるのとは違うんだなと。
この前、北海道から就活の一環で上京してきていたTくんが心理学を学んでいるらしくって、その流れで言っていたけど
人と人が対面で話をすると、n次元の情報交換を行なっているそうなのです。n次元というのは、なんというか、変数が大量という意味合いで使われていて、話す内容+間+表情+息遣い+テンション+熱量+・・・それらが重なっているので、非常に多くの情報をやり取りしている状態が「対面会話」なのだそう。
小劇場演劇では、照明、音響、観客の体温、反応などが、脚本、芝居に折り重なって、n次元の連続なわけですね。
だから、それを、ある意味2次元の言葉に落とすことがとっても脳味噌へのdos攻撃になっているのかもしれません。
僕は演劇、脚本や演出をしているわけではなく役者なんですけど、芝居をしていることが好きで、それをお金や時間に困ってやめることなく、持続的に活動していくために、事業にしたいと目論んでいるのですが
「演劇の価値、人にとって喜ばれるポイント(お金を払ってでも喜んでもらえるポイント」を言葉にしていくことが、一つの課題だと思うんです。そりゃ「演劇」みたいに圧倒的な体験を世の中に提供し続けていれば、いわば、コンテンツマーケティングじゃないですが、コンテンツが勝手に収益に変わっていくのかもしれません、そういう時代の追い風も相まって。
でも、じゃあ例えば、僕のfacebookでの友人1680人のうち、何人が「演劇」の存在を知っているかというと、多分10人行かないくらいだと思うんです。
だからこそ、やっぱり、2次元の情報に変えて、01デジタルのネットへと発信する必要もあるんだろうなと。
ただ、ここまで書いて改めて「演劇」のパンフレットを見てみたとき、発信だけが課題なのか?とまた思う。
代表の方が「誰か楽しませることを、卑怯だと思う。これは今思えばとても歪んだ発想である。(中略)演劇は何のためにあるのか、人生は何のためにあるのか、と問われたときに、少し前の自分と違って、今の自分は、「誰かのため」と別の言葉を使えるようになったということを述べるにとどめておく。」とおっしゃっている。
これほど演劇界から注目されている方も、そういう葛藤を抱えながらやられているんだ、と知ってとても興味深いコメントだなと思った。
そうすると、単に良い演劇作品を言葉にして、発信するだけでは足りない気もしてきます。
なぜなら、演劇をやっている人は、自分(あるいは自分の中にある世界観)を観てほしい!が原動力になっていて、相手を喜ばせるために、ひいては、相手にお金を払ってでも見たいと思ってもらう・楽しんでもらうためには、活動をしていないケースも多いのかなと。
誰かのためにやる、ことが目的になっていない場合が多い。それを責めたいわけでもないし、「社会性、儲ける思考を持ちつつ、作品作りなんて、できるわけがない」というのもわかる気がします。一方、持続的に表現を行うには、見てくれる(お金を払ってくれる)人が必要でもある。だから「誰かのためにやる」ことを考えて、そもそも演劇をやる姿勢も必要なのかと。
パンフレット内の代表の方のコメントでその部分を最も表しているのが「私にとって舞台・演劇とは、「楽しませる」というよりも、「突きつける」とか「問いかける」ものであったから。」という部分。自分が一緒にやっている劇団主宰も「飢餓がないと、世の中に何かしら飢えていたり、反骨心が無いと、演劇やっている意味が無い、というか、演劇やらなくていい」というようなことを言っていた。
誰かを楽しませるより、自分の中で世の中に問いたい・言いたいことが原動力になっているから、土台、「相手に価値を届け、その対価としてお金をもらう」というビジネスの理論と合わないのかな、と諦めにも似た気持ちにもなる。
なんか、うまく文章のつながりを作れないけれど、とにかく「ジレンマ」だ。
持続的に演劇表現を行なっていたい。そのためには、持続するためのお金が必要だ。お金をもらうためには、人を楽しませないといけない。でも、人を楽しませるために、演劇をやっているわけでなく、自分の訴えたいことを訴えるためにやっている。だから、自分が訴えたいことに価値を感じてもらう人がいればいい。でも、自分の言いたいことばかり耳を傾けてくれる人が多くいるわけではない。その壁を、圧倒的に良い作品で乗り越えるしかない、という状況。でも「良い」という判断は、見る人が決めるから、見る人のために作らないといけない。でも、人を楽しませるためにやっているわけではなくて・・・。
ここまで書いたことで思ったけど、
演劇をやる人は、もっともっともっと、広く世の中の人、お金を生み出す仕組み、さらには時に流行さえも、単純に、知るようにしないといけないと思った。自分自身がまさにそうなのだけど。
表面的に「流行に左右されるような作品はダメだ」なんて表層的なこと言ってたらダメだ。だって、そのくせ、「演劇は社会を映しだす」なんて言っているだから。流行も積み重なれば社会を表す層になるんだから。
改めて「演劇」を観て思った感想は
・役者の芝居力がすごい。各役がその場にいる・言葉を発する・動く目的を、各々が指の先まで染み渡らせているように見えた。
・日常芝居と、非日常芝居との行き来が、心地よい。先生が真っ当に教育について語るシーンと、キンタマが出てくるシーンとの行き来具合が、何も考えなくていいくらい、楽しい。
箇条書きにすると楽に書けるかなと思ったけど、、やっぱり書ききれない。今日はこの辺で。
そして、自分は自分のチャレンジで、演劇をやる。VR演劇を企画準備中だ。正確には、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)の前方にステレオカメラをつけ、観客の目には生の芝居が見えていながら、突如、拡張現実(AR)でオブジェクトが現れたり、さっきまで見えていた景色が少し遅れて目に見えたり(SR:代替現実)、目に見える風景がバーチャルなものに変わったり(VR)、といろいろやって、Mixed Reality(MR)になるという演出を作演とプログラマーさんと考えている。
でも、技術を見せるなんて面白くないのはそうなので、その技術を、さりげなく不気味に感じさせるような具合に、作品に対して影響を与えるものにしたいと思っている。
ミーハーかもしれないけど、新しいテクノロジーと演劇を組み合わせることで何が起こるのか、試してみたい気持ちから始めた企画。2016年中には形にするのだ。