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【創作大賞感想】首がもげる時、僕は何を思うんだろう

幸いなことに僕はこれまで大きな病気や怪我をしたことがありません。だから”自分の死”というものにどこか鈍感で、いつかはその時が来ることは理解はしていますが今の自分とは無関係だと思ってる節がありました。

その意識が少し変化したのが父親の死でした。

僕の父親は数年前に脳出血である日唐突に亡くなりました。それは僕ら家族にとってまさに青天の霹靂で全く予期せぬ出来事でした。
亡くなる前までの父親は本当に元気で、ほんの1ヵ月前には車を新車に買い替えたばかりでした。突然の訃報に母親は酷く狼狽えましたし僕や姉もいろんな対応に四苦八苦しました。

それから僕は”死”は常に隣り合わせにあると少しだけ意識するようになりました。かと言って何か特別なことをしているわけではありませんが、母親の預貯金や保険関係を把握しておいたり、”今”自分が死んだらどうなるんだろうと漠然と考えるようになりました。


泥辺五郎さんのエッセイを拝読した時、同じような感覚を持ちました。

こちらのエッセイは泥辺五郎さんが過去に書かれた童話【首がもげたキリン】の物語と一緒に進んでいきます。
キリンのアゾルカはある朝目覚めると自分の首がもげていることに気が付きます。自力では動けないアゾルカと酷い頭痛から横になって休まれる泥辺さんがなんとなく重なっているような印象を受けました。


”死”を理解せず動けないまま生き続けるアゾルカはその後ハイエナのガジェットやライオンのドレンたちと話すことで自分の”死”と向き合っていきます。そしてやがて訪れる”死”を徐々に受け入れるアゾルカ。
「誰かが僕のことを思い出してくれるのなら、それだけでもこれまで生きてた甲斐はある気がする」アゾルカのこの言葉がとても心に残りました。
意識が途切れたアゾルカは”死”そのものに飲み込まれます。アゾルカはそこで、失ってしまった『生』が、ようやくかげがえのないものだと気付きます。


2024年2月頃に脳脊髄液減少症と診断された泥辺さんは入院することになります。二週間絶対安静という状況でベッドに横になり、大量の電子書籍を読まれたそうです。職場復帰を諦めたのもこの頃でした。
二週間の安静後、泥辺さんの頭の重みは軽減されました。毎日のリハビリも軽快にこなし、もう大丈夫だと思った泥辺さんは三週間の入院生活を終えられます。しかし退院後も度々頭痛に襲われます。仕事への復帰も叶わず数カ月の時を過ごしました。
入院前から頭痛に悩まされ、そして絶対安静の入院を経てもなおも続く体調不良。この時期の泥辺さんの心境を思うと胸が苦しくなります。
仕事がしたくても出来ない状態。望むような結果が出ない執筆活動。

「回復は見込めませんね。今後一生無理はできません」

そう言われることを期待されたこともあったそうです。
入院中や退院直後には、もしかするとアゾルカのように”死”と向き合われていたのかもしれません。


泥辺さんのこのエッセイを拝読した後、しばらく”死”について思わずにはいられませんでした。

誰しもがアゾルカや僕の父親のようにある日突然”死”が訪れる可能性はある。”首がもげた時”、果たして自分は何を思うのか。
アゾルカのように(幸せだった)と思うことができるか、それとも”死”を受け入れることが出来ず首がもげたことに気付かずにいるのか。

答えは分かりません。でもアゾルカのように思えたらやっぱり幸せだろうなと思いました。
そして父がそう思ってくれていたらいいな、そんな風に思いました。


エッセイの最後に泥辺さんはこう言われました。

 まだ首はもげてはいない。まずは軽い運動から始めようか。そして何かしら書いていこう。書いている間は生きている。働けるようになってからも、書き続けるためにも。

泥辺さんの記事より

泥辺さんも、もちろん僕もまだ首はもげていない。やがて訪れるその時まで僕も精一杯生きようと思いました。


泥辺さん、本当に素敵なエッセイをありがとうございました。僕はこのエッセイが読めて本当に良かったと思っています。いつか「首がもげたキリン」の全編を読みたいと思っています。


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