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芸術と違和感

今日、とある講師のはなしで思うところがあったのでそのことについて語ろうとおもう。


「芸術とデザインは全く別の方向、最早逆方向を向いている。芸術は最初から自己満足だが、デザインは最初から人の役に立とうとしている。」


この意見を語った講師は、わたしは今後一切関わらない、関わりたくないような人だった。横文字ばかりを話し、何が言いたいのか分からない一貫性のないはなしをつらつらと1時間弱話していた。

興味はさほど無かったので、不変な外の風景を眺めながら、聞き流していた。しかし、先の意見が耳に入った瞬間、自分の心臓が激しく脈打った気がした。からだが暴れそうになり、必死に抑えた。怒っているのではない。ただ、猛烈な違和感にあたまが掻き乱された。

芸術は自己満足なのだろうか。

それからその講師のはなしは耳に入らなくなり、わたしはその違和感を抱えたまま教室を後にした。制作している最中も、友達と他愛も無いはなしをして笑っている時も、あたまの片隅にはあの言葉がじわじわと侵食していた。

生き方を否定された気がした。いままでずっとこれだけだと思って縋っていたものをぐしゃぐしゃにされた気がした。それだけだ、それだけなのに何故こんなにも違和感が付き纏うのだろうか。

わたしは、芸術を自己満足だとはおもっていない。デザインと同じように、ひとに''なにか''を与えるものだとおもっている。そのなにかが違うだけで、芸術もデザインも、根本的な部分ではおなじだと。

そうおもうのは、わたしが芸術にその"なにか''を与えられた立場だからである。

母は絵を描く人だった。小さい頃に母に描いて描いてとせがんで描いてもらった時のよろこび、部屋に飾って眺めていた時間、じぶんもこうなりたいという憧れ。抽象的ではあるが、そのどれもが芸術に携わっていた母が与えてくれたものである。

わたしの憧れであり、到達点だった。

時が経ち、わたしがなにかを与える側にまわった時、なんとも言えない不安と、無力感に晒された。見渡せば自分よりも遥かに説得力のある絵を描くひとたちがごろごろといた。文字通り死ぬ気になって描いた作品展、展示されたじぶんの作品のうえには、見るものを圧倒する''芸術''があった。恥ずかしくなった。その芸術は、いまのじぶんが描けないほど高い場所にあった。じぶんの絵を見ていると、通りすがりの女子高校生がわたしの作品ではなく、うえに展示された作品を見て盛り上がっていた。そのとき、その場にいた自分が叫び声をあげそうなほどにちっぽけで情けない存在におもえた。もっともっと、努力しないとだめだ。そう心に誓った。

芸術はおそろしい。人を傷つけることも癒すことも容易にできてしまう。しかし、その恐ろしさの先に得られるものに魅入られてしまったのだ。作品を生み出すものにしか味わえない、表現しがたい感覚。


もしかしたら、世間からすればこんなこと、どうでもいいことかもしれない。でも、わたしは芸術に携わる身として、自己満足で終わらせない作品を作りたい。

単なるプライドかもしれない。意固地なだけかもしれない。だけど、あの場で講師の言葉に頷くことはできなかった。


わたしは、じぶんが思っている以上につよく芸術に囚われているのかもしれない。

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