僕らの感じる世界
ここ最近、ずっと僕たちは世界をどうやって感じているんだろうと考えていた。
宇宙の法則は感じるのが難しくて感覚として理解するのが難しい。
極小の世界の中では量子論というのが働いていると言われても、正直、何言っているのか詳しくわからない。
じゃあ、僕らは世界をどうやって捉えているんだろう?
最近は感覚と事実は別なんじゃないかと思ってきている。
僕らの世界の見方
僕らは自分の見ている一方通行の世界、自分主体の観点で見る「主観」を使って世界を見ている。それを人は「感覚」と呼ぶ。
だけど、世界は僕らが作ったものじゃないから、「主観を使った感覚」じゃ見えない。当たり前だ。
じゃあ、感覚以外で世界を見るためにはどうしたらいいんだろう?
昔から人は自分の感覚で見た世界の形と「事実」の違いに悩まされていた。
そこで、なんとかしてその法則を説明したいと思って、「数学」という言葉の形を通じて世界の法則を皆で解くことにした。
数学は世界の法則を解くための言語だけど、法則を解くための言語なため読解が難しく、普通の生活には向かない。多くの人は数式を考えただけで嫌になってくる。
普通の生活に向くのは言葉だ。
じゃあ、言葉ってなんだろう?
言葉というのは単語で出来ている。
単語というのは物をはっきりさせる名付け作業だ。リンゴはリンゴって名前をつけないと皆が連想できるようにならない。
そういう風に連想したものを連続させて、皆が思い描きやすく作られているのが言葉。
その言葉を使って僕らは色々な人と話をしたり、本を読んだりして勉強しながら生きている。
この言葉の掛け合わせを使って自分の中で人間は「知能」を作っている。
僕らはこの知能を通じて皆で世界を見ているんだけど、個別の人間としては「感覚」を使って世界を感じている。
感覚とは?
動物は自分主体の観点で見た事に対する「良い」「悪い」の積み重ねた結果を、自分の身体に記憶して生きている。
この結果の繰り返しで出来たものが「感覚」だ。
人間も動物なので、僕らも同じ方法で世界を捉えている。
感覚には大きく分けで3種類の捉え方がある。
・ポジティブ
・ネガティブ
・わからない
の3種類。
1時間の中にポジティブが多ければ心地いいから時間は早く感じる。
1時間の中にネガティブが多ければ居心地が悪いから時間は遅くなる。
1時間の中にわからない事が多ければ、ポジティブになればいいのかネガティブになればいいのかわからないから、感覚がバグって察知不能になる。
わからない事が多いが繰り返されると「鬱」になる事が多い。
鬱な状態というのは生き物としての感覚のバグなんだと思う。
知能とは?
知能とは上で書いたように「言葉」を使って、抽象化した物事を積み重ねて作り上げている、人類全員で作り上げた仕組みの事。
構造化した論理的な事だ。
昔は言葉が通じる地域でしか共有できなかったんだけど、インターネットを通じて、今は本当に人類全体で作り上げている。
感覚と知能は違う。
感覚は知能に置き換える事が難しい。
なぜなら、感覚は繰り返し起こった理不尽な事などに対して生物として抗った結果、定着するような事もあるからだ。
だから、自分でもよくわからないけど「私はこっちの方が好きなんです」という感覚を持つ人も多い。
それは、自分の親の匂いだったり、そういう生き物としての反応に由来している可能性もあるからだ。
そういった風に、人それぞれに生まれや人生があるから、人の数分の「感覚」がある。
だから、「多様な感じ方」を人類共通の「知能」として落とし込むのは難しいし、「宇宙の法則」を言葉を使い「感覚的に理解する」のは難しい。
じゃあ、どうすればいいの?
知能を完全にモノにする為には、感覚以外を使って世界を理解する術が必要になってくる。
例えば、普段生きていると「時間」は「感覚」でしか捉えられない。
1時間1分1秒という単位で、お互いに認知できるように標準的な単位は作られているけど、長い1時間もあり、短い1時間もある。
それは人それぞれの「感覚」を使って身体の心地よさで捉えるからだ。
「感覚」では「時間を正しく理解する事が不可能」だという事をアインシュタインは相対性理論で言っている。
何度も言うけど、感覚は主観で出来ているからだ。
感覚を捨てようという考え方
この考え方に2500年ほど前に気づいた人がいる。
釈迦だ。
仏教でいう悟りの境地というのは究極まで感覚を捨てた考え方。
その究極地まで行くと時間が止まる「涅槃」という世界に入る。これが、「時間を正しく理解しよう」とした釈迦の答えだった。
科学で言えばビッグバンなどの特異点では時間が止まる。僕らは感覚的に時間が進んでいる世界で生きているから、この特異点もよく理解できない。
この考え方を理解する為に感覚を捨てる作業が仏教でいえば修行であり、科学で言えば研究なわけだ。
修行の結果、感覚を捨てて事実のみで物事を理解すると、やっと「知能」が少し理解出来てくる。
先人たちはずっと事実と感覚の違いに悩まされてきたので、その結果が「知能の積み重ね」として、書物などで残されている。
それを事実として吸収出来てくれば、効果的に知能が使えてくる。
「感覚を捨てられるほどに何かを一生懸命やった結果」+「書物などで多くの事を勉強した結果」=「知能の効果的な使い方」
に、なるわけだ。だから、勉強だけでは到達できないし、感覚だけでも到達できない。
「わからない」を「知能」使って取り除こう
実は、「感覚としてわからないと鬱になる」を突破する方法は「知能を効果的に使う事」だ。
いくら感覚で捉えようとしても「わからない」事は、別駆動の知能を使って、「ポジティブかネガティブかわかる」ようにする必要がある。
分けられれば「わからなく無くなる」から、鬱は突破できる。
例えば、居心地の良し悪しはこれで決まっている。
いい場所やいい会社なんかはポジティブにあふれているし、嫌な所はネガティブにあふれているか、「わからない」状態ばかりになっている。
わからない状態をわかる状態にしていくのが、知能を効果的に使える者の役割だとも感じているし、そういう人が多いチームは強い。
だから、「感覚」をよく理解した上で「知能」も勉強して行けば、実は色々な事が「よくわかる」ようになって来る。
「わかる」と「いい感覚」になるから、わからないを分解していく毎日を過ごせば、自ずと楽しくなっていく。
だから、「感覚でわからない"知能"を大事にする事は、自分の感覚も大事にすることなんだ」って知っていると、世界はより鮮明に見える。
サポートいただけたら嬉しい限りです。