鳥籠の中のシンギュラリティ 1

シロナガスクジラの背中に寝転んで、空を見上げていた。
 クジラの背中と同じ、どろりとした紺色の空をキャンパスに、キラキラした星が散りばめられている。じっと見つめていると、流星群のパレードが始まった。空は細い線状の光に埋め尽くされる。
 雷鳴。雲一つない空に稲妻が走り、パレードに参加する。雷鳴はとても近くで響いて身体を揺さぶるのに、恐怖はまったくない。ジャズドラムのような心地よさ。波はざぱんざぱんと静かにうねってテンポを作り、クジラの歌声がそれに乗っかる。ほら穴に響く声のような、甲高い重低音でクジラが歌う。
 すべてがバラバラで、すべてが調和している。
「きれいだね」ありきたりなセリフ。隣で寝転ぶ少女は、白いワンピースのほかに何も身に着けていない。空から落ちてきた天使のようだ。
「そうだね」ありきたりなセリフで返す。気を使わない会話が心地いい。白いワンピースに浮かぶ、彫像のように小ぶりで完璧なプロモーションのラインを目で楽しみながら、少女の癖っ毛を撫でてやると、少女は猫のように目を細めて手に頭をこすりつけてくる。猫を飼いたい事を知っていたのだろうか。
 天国に包まれてどのくらい経ったのか。
 少女の顔が近づく。浮かれた月のように金色の瞳はとろんとしている。幼さの残る丸い輪郭。膨らみかけの唇は未熟な果実。どんどん近づいて、近づいて、近づいて、そして、体をすり抜けて落ちて行った。
 パレードが終わる。流星群も、夜空も、稲妻も、海も、シロナガスクジラも、塗りたての水彩画に水をかけたように、どろどろになって、溶けて、消えていく。
 無限の虚空の中に取り残される。ぼんやりと、果てのないNULLを眺める。予兆のない虚しさがこんこんとこみあげてくる。コンコン、とノックが響く。時間だ。頬を軽くつねる。あらかじめ設定された覚醒用の仕草。


 顔を上げると、ウサギの顔をしたマスターがいた。デフォルメのされていないリアルな動物の顔で、そんな顔はオデッセイでも珍しい。
「『夜空と白い少女』。いかがでしたか?」マスターが聞いてきた。機械を通したような中性的な声。
「ああ、いいトリップだった」カウンターから顔を上げて腕時計を見る。古風なアナログ針はきっかり三分、俺のトリップタイムを示している。体感では五時間はいたような気がする。楽しい時間がすぐに過ぎると悔しさを感じるが、逆なら話は別。むしろ圧倒的な優越感がある。それを楽しめるのも、パルスドラッグのいい所だ。
 VRヘルメットに取り付けたパルス発生器がデータプログラムに従って、脳の一部を刺激して架空現実的な空間を体験させる。それがパルスドラッグだ。
 元々は、今のVR技術よりさらに高度な架空現実を構成するための技術だったのだが、コンピューターが送ってくる電気信号に人間の脳は長時間耐えられないことが分かり、今は精神療法などの医療目的で使われているだけの技術だ。表向きは。
 裏では、パルスドラッグ使用目的で、医療用に使われているパルス発生器が小売店の倉庫から横流しされては、ネットオークションで取引されている。品名も出品者もバラバラで、俺が手に入れた時は、『トイレ便器用電動ブラシ。即決2万円』だった。
 
 飲みかけのウイスキーが入ったグラスを一気にあおる。なんの味もしないただの色付き水がアバターの喉を通り抜ける。空のグラスを置く。
「もう一杯」
「ダメです。ウチで死人を出すわけにはいかない。もっと薄暗い店なら出してもらえますよ」
 パルスドラッグ乱用時の副作用は頭痛と鼻血、最悪の場合は脳卒中だ。
「マスターのが一番なんだ。あんたこそ真のアーティストだ」
「そして、一番のお気に入りはその安さ」
「それもある」
 オデッセイにおけるパルスドラッグの店は、たいていは小さなバーだ。そこで出される酒のオブジェクトデータにパルスドラッグが入っていて、ダウンロードして開けばトリップが楽しめる。トリップ一回あたりの相場は架空通貨で300ダラー。日本円で3000円とちょっと。しかし、ここ『ラビットフット』では100ダラーで出している。
 その理由を聞くと、マスターはいつも「お客様へのご奉仕です」とはぐらかす。パルスドラッグとは言うが、一種の芸術映像みたいなものだ。先ほどの雷鳴やクジラの歌の音響調整、天使少女のモデリングやAIの作成など。ネットに流れている電子ドラッグを調整しただけの一般的なパルスドラッグとは、比べ物にならない手間がかかっているはずなのに。
 いや、電子ドラッグならまだいい。グロ画像や事故映像をつぎはぎにした悪質な詐欺品も流通している。だからこそ、先ほどの天国の貴重さがわかるのだ。


「アゲアゲですかー!?恋の道は!絶対に!ノット・スロウ・ダウン!」
 カウンターの端に置かれたブラウン管テレビでは、新進気鋭のバーチャルアイドル『輝光(テルミ)テルナ』がオレンジのポニーテールをふりふり踊っている。地下パーキング風のステージ、オレンジのラインが入ったストリート系のステージ衣装。スカートから突き出た細い脚がライトで白く照らされる。
「ご存じでしょうか」マスターもテレビを見ながら言った。赤い瞳は、動物が持つ無の意志すら造形してある。
「名前だけな。『恋心ダウンタウン』。新曲か」
「知ってるじゃないですか」
「どこに行っても流れてるんだ。服屋でもな」
 服屋といっても、オデッセイにあるアバター用のコスチューム屋だ。オデッセイ運営が用意した無料コスチュームから、デザイナーが作成したブランド物まで揃っている。また、モデリング審査が通ればユーザーも出品できるし、オデッセイにはユーザー運営のブティックもある。
「じゃあ、そのコートはそこで?」
 マスターが俺のアバターを指さした。ベージュのトレンチコートにハンチング帽、刃物のように鋭い目つきをした青年。
「そう、これでようやく完成って感じだ」
「そのアバター、昔の探偵ものの主人公ですよね。ほら、ドッグ&なんとか……」
「ドッグ&ダッグ。驚いた。マスターが知っているなんて」
 マスターの言う通り、『ドッグ&ダック』という昔のテレビドラマの主人公をモデルにしたアバターだ。硬派な探偵ものという路線のせいか、あまり人気も出なかったためにワンクールで打ち切られてしまったが、とても好きな番組だった。
 ただ、その話の先が続くことはなかった。少しの間を置いてマスターが言った。
「実は、あなたのような探偵にお願いがあるんです」
 突然の申し出に面食らってしまう。
「いや、これはそういうアバターなだけで、本当に探偵ってわけじゃ……」
「彼女」と、マスターはブラウン管モニターで踊るアイドルに目を向ける。音楽は止まり、輝光テルナはポーズを決めている。「調べて欲しいんです。もちろん報酬は出します」
「だから、俺は探偵じゃ……」
「あなたなら調べられるはずです」
 カウンターに白い封筒が置かれる。データファイルだ。
「調査代も含めて、前金で五万ダラー。今振り込みました」
「なんだって?」
 あわててステータス画面を開くと、確かに五万ダラー増えている。数ある架空通貨の中でもダラーは信用が高く、日本円への換金も簡単にできる。つまり、俺の口座に五十万円振り込まれたというのと同じだ。
「もし、断れば?」
「お金は返さなくて結構です。私は次の人を探すだけですから」
「ここから消えるってことか?」
「ええ」
 もし、マスターがここから消えれば、俺は二度とあのパルスドラッグを体験できなくなるだろう。それは、あちこちの酒場を回って電子ドラッグもどきの低品質なブツを探し回る日々に逆戻りということだ。しかも、ここより三倍も高い値段で。金の話より、俺はそっちの方が重要だった。
「いかがしますか?」
 俺は、封筒を手に取ってダウンロードする。その間も、兎の顔は無表情のままだ。
「依頼内容も、必要な資料も、その中に全て入っています。ご健闘を」


 俺はキックされた。次の瞬間には『ラビットフット』前の道路に、一人で佇んでいた。
 依頼を受けたからには仕方ない。ダウンロードした資料を読むために、俺はVRヘルメットに手をかけた。

【続く】

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