鳥籠の中のシンギュラリティ 2

一人娘というのは、なぜあんなに可愛らしいのか。
 あの子と最後に会った時の事を思い出す。金色の瞳は、これから体験するすべての事への期待にキラキラと輝いていた。それだけに、今回の事を言い出すのが怖かったことを覚えている。
「もう、会えなくなるの」
 あの子の笑顔が曇る。それだけで、この身を裂かれるような痛みが走る。
「なんで?」
「色々あるの。事情が……」
「どうして?ずっと一緒って言ってたじゃない」
 この子に権利問題の話をしても、分からないだろう。黙っていることしかできない。
「ねえ、なんでってば!」
「遠くに行くの」
「じゃあ、私も連れていってよ!」
「できないの」
 思わず涙声になる。胸が詰まって、息が苦しくなる。
「できないの」
 私は人形を差し出す。あの子は戸惑いながらも、ゆっくりと人形を受け取る。
 クマの人形。私が全ての技術を注いで作ったものだ。
「その子を、私だと思って、大事にしてあげて」
「うん……分かった……」
 あの子は人形をぎゅっと抱きしめ、それから私に聞いてきた。
「ねえ、この子の名前はなんていうの?」
 


 拳が上司の顔にめり込んだ。
 労基法を無視しながら人をこき使っていた奴隷商人は、KOされたボクサーよろしく倒れることも、吹っ飛ばされて壁に叩きつけられることもなく、痛そうに手で顔を押さえてこう言った。「ここから出て行け」と。俺はその通りにした。オフィスを出るとき、パソコンばかりのもやしっ子ではこの程度か、とひどく落胆した。
 それが二年前の事だ。俺が元プログラマーという情報を、マスターはどうやって手に入れたのだろうか。パソコンにハッキングの痕跡は無く、前の職業の事を話した覚えもない。
 まあいい。それは次に会った時に聞けばいい話だ。問題は、ダウンロードしたファイル。念の為、三種類のウィルス診断ソフトにかけてみたが、特に問題なし。中身は調査対象、すなわち『輝光(テルミ)テルナ』に関する資料と、依頼の概要だ。
 『輝光テルナに接触し、以下の文章を伝えよ』。概要はこれだけ。伝える文章も『ジェイコブは元気?』の一文のみ。何かの暗号だろうか。それを伝える意味は。今はとりあえず置いておこう。
 では、どうやってトップバーチャルアイドル街道まっしぐらの暴走特急たる彼女にコンタクトするか。そのヒントを探るために、俺は資料ファイルを開いた。
 そこには文章データが一つと、オデッセイで使えるアイテムデータが一つ。
 文章データは指令だった。

 

 今日の天気予定は雨だった。しとしとと霧雨が街を濡らす中、コートの襟をひっぱり上げながら先を急ぐ。
 産業革命時代のロンドンをモデルとした街並み。背の高い石造りの建物と、古風なガス灯。レンガ敷きの地面を踏みしめるたびに、革靴がこつこつと音を立てる。今日は平日なせいか、人の影は少ない。この辺りには、重要な建物が少ないせいもあるだろう。
 オデッセイ内のワープ移動は特定の位置にあるポータルからしか行えない。そのため、ロンドンエリアのポータルからは徒歩での移動になる。目的の店はポータルからかなり遠い位置にある。どうやら趣味の店だな、と推測する。オデッセイ内の物件は、基本的にポータルに近いほど高く、遠いほど安い、という法則が存在するからだ。VRに似合わない生々しさを感じて、思わず苦笑する。
 赤い革張りの座席が目を引く蒸気自動車や、二頭立ての屋根付き馬車とすれ違いながら、歩くこと五分。『ルナ・ソサエティ・サークル』の看板が見えた。俺は扉をくぐった。
 高級レコード店の内装。一枚一枚が紙製のケースに入ったレコードが、表面をこちらに向けて棚に陳列されている。試し聞きのための再生器が置かれていて、ピカピカに磨かれた真鍮製のラッパが金色の威厳を帯びて鎮座している。客の姿は無く、店内には無音が横たわっている。
「いらっしゃいませ。何かお探しでしょうか」
 店内を見回していると、タキシードを着た男が近づいてきた。モノクルを付けた初老のアバターで、短い白髪をオールバックに固めている。
「輝光テルナの曲を」
「お客様。失礼ですが、ここより品揃えがいい店は山ほどあります。例えば、ポータル前のCDショップなど……」
「いや、ここが最大手と聞いた。空白の二ヶ月。それより前の円盤が聞きたいと言ったら?」
空白の二ヶ月。ネット情報によれば、二年前、輝光テルナが活躍の場をアンダーグラウンドからメジャーステージに移すために取った移行期間の事を、ファンの間でそう言うらしい。事務所の権利問題で、アンダーグラウンド時代の曲の販売は打ち切られ、純正なデータはファンの間でプレミア化しているとのこと。
「……」
 店員はしばらく黙ると、棚からレコードを一枚取り出し、手裏剣のように再生機へ投げつけた。レコードはプレーヤーにぴったりと収まり、真鍮のラッパが輝光テルナの1stシングル『黄金色エモーション』を店内に響かせ始める。 
「……こちらにどうぞ」
 店員の後に続くと、店の奥の狭い一室に通された。美術館の一角を切り取ったような清廉とした部屋で、ガラスケースに収められたレコードが8枚並んでいる。
「これが?」
「そう。空白の二ヶ月より前。彼女がまだ表で活動していなかった時代の物です。全て純正データです」
 情報が確かなら、これだけでひと財産だ。
 店員は懐かしむように、天井を見上げた。『黄金色エモーション』がこの部屋も満たしている。
「今、かかっているこの曲。本当は10stシングルなんです」
「本当の1stシングルは?」
 俺が聞くと、店員はガラスケースの左端、そこにある空白の空間を指した。
「今では手に入りません」
「なぜ」
「好事家たちの手は鋼より硬いものです」
 ふと、俺は今持っている物を売れば、報酬以上の金が手に入るだろうと思った。だが、その裏切りをマスターは許さないだろう。まだ、天国を手放す気にはなれない。
「あんた、対面チケットを持ってるんだって?」
 電流に触れたような動きで、店員はこちらを向く。
「なぜ、それを」
「初期のファンのごく一部に、毎年配られる特別なチケットなんだって?ライブ後に輝光テルナと楽屋で会えるなんて最高じゃないか」
「お客様、それは商品ではありません。私の光です」
「いくら積めばいい?」
「光は石ころでは代えられません。マニアは理屈じゃないんです」
 マスターから渡されたゲーム内データを手元に出す。それは虹色の輝きを持つレコードという形で現れた。
「1stシングル……」
 店員は凍り付いたように動かない。生涯追い求めていた物に出会った時、人はこんな反応をするんだろう。
「取引だ。虹と光を交換しよう」
「ですが、あのチケットは、毎年100倍以上の選考を……お金ならいくらでも出しますから、チケットだけは……」
「そうか、ならいいんだ。他をあたるよ」
 俺はさっと虹色のレコードを懐に隠す。店員は反射で手を伸ばし、口をぽかんと開けている。
「お邪魔しました。他の人は快く譲ってくれるといいんですがね」
 そう言って、部屋の出口に向かおうと店員に背を向けた。
「待ってくれ」
 絞り出すような声。わざと無視する。悪魔めいた優越感が心をくすぐる。
「頼む。お願いだ」
 振り向くと、店員の手には黄金色のチケットが握られている。 
「取引しよう」人生の岐路を前にしたって出てこないであろう震え声。
「もちろん」
 虹色のレコードと黄金のチケットが、交換される。オデッセイ内でも前例が無いくらい高価なトレードになったに違いない。その事実に思わず身震いする。
 店員は虹色のレコードをガラスケースに運ぶと、何重ものロックを解いて、中に並べた。
 これで、輝光テルナの最初期のレコードが全て揃った。
 店員は並んだレコードを、腕組みしながら眺めていたが、ふとこちらを向いて言った。
「今日はもう、店を閉めます。胸いっぱいの気持ちを噛みしめていたいです」
「分かるよ」
 店を出ると、雨は上がっていた。空を見上げると、わざとらしい虹のアーチが、ロンドンの街のまたぐように架かっていた。

【続く】

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