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33 余白

土曜。朝。雨。
コーヒーを淹れ、カウンターから目の前を通る明治通りを見下ろす。
天気のせいもありまだあたりは薄暗く、通りを走る車はヘッドライトを明々と点け忙しそうにしている。
お店をしている以上誰かに来てほしいが、一人静かに音楽を聴きながら本を読むこの時間も好きだ。

スマホを意識して手放さないとという危機感を最近猶更感じる。
2~3分あけばSNSやニュースサイトを開く。
YoutubeやSpotifyのせいで(おかげで)作業をしながら耳を使えるようになってしまい、情報を遮断する言い訳ができないでいる。
頭の回転の早い人はよいだろうが、私の場合、情報を見聞きしながら自分の頭で考えるということができない。
どうしても入ってくる内容に身を委ねてしまう。
自分の頭の中で咀嚼し整理し統合し発展させるという時間がとれなくなっている。
大変まずい。

現代のあらゆるサービスは人類の可処分時間の奪い合いであり、それは市場の原理であり、明確な悪ではない。
魅力的なコンテンツが多いのは世界にとって良いことだ。
私はNetflixも好きだし、XやInstagramやnoteのおかげでお店の情報発信できているし、Googleのあらゆるツールは一つのインフラなっている。
ただ、強く意識をしてそれらを遮断しないと、私のような弱い受け手は彼らの圧(重ねて言うがそこに善悪はない)に押しつぶされてしまう。
考えるのを放棄してしまう。
小さな画面に流れる自分には関係ない世の出来事に脊髄で反応し、誰かの言葉を無自覚に転用し親指で打ち込んで溜飲を下げ、すぐに忘れる。
そんな社会的ゾンビになってしまう。

もっと余白のある時間を作らないといけない。
公園を歩いたり、川辺を走ったり、海を見ながらおにぎりを食べたり、音楽を聴きながらぼーっとしたり、犬と遊んだり、皮から餃子を作ったり。
そこにはオーバーヒートした頭を冷ます余白がある。
余白があれば冷静になれるし、自分の頭でゆっくり考えられる。新たな視点での発見がある。
別にその余白で生まれた気づきが実生活で実践的に役立つものではなくていいと思う。
ただ精神衛生上良い、と思うだけだ。
その余白が多い方が私の満足感、納得感が高い。

ご多分に漏れず20代はギラギラ、キラキラしたものに憧れた。
生まれも育ちも福岡で、関門海峡を越えて生活をしたことがないコンプレックスもあったと思う。
そのせいで周囲に迷惑もかけたし、自分もなかなか疲弊した。
今はそうした異常に熱量の高い輝かしく見える生き方は、限られた人にしかできないものだと思っている。そして自分はそれではない。

自分の家族と友人と、二次的な知り合いまで、くらいが幸せであればいいと思う。
彼らの幸せを邪魔せず、可能であれば少しそれに貢献できればそれで充分だと思っている。

そのために自分には余白が必要だ。


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