見出し画像

もしもし、今リーが死んだ。



僕は電話に出ない。


仕事柄出れない時気づかない時が多いというもあるけれど、それよりも、何の心の準備もできないままこちらの都合に構わずピキピキ鳴り響く電話に対し、神経に響く様な、痛みに近い様な反射的な拒否反応があり、絶対に音が鳴らない設定にしている。


そうなってしまった理由は多分前職の影響がひとつ。
(何日職場に泊まりどれだけ寝てなくても何時いかなる場合も2コール以内には電話を取らなければいけないなど)


もうひとつは、今回の様な事が初めてではないからだった。


カンボジアの正月に当たるクメール正月元旦。
原因不明の強烈な偏頭痛と吐き気で寝込んでたところに見慣れない名前から1本の電話があった。


虫の知らせというけれど、普通の電話でないことはすぐにわかった。

ただその日はまともに寝返りも打てず眼球を動かすだけでも戻してしまいそうな程だったので、のたうち回るばかりで応答できなかった。



数時間して頭のぐるぐるも少しマシになり、枕元に手を伸ばしてスマホを取り、薄目で見た画面から飛び込んできたのは、あまりにも唐突な

「He has dead」

という文字と、血まみれになり、僕が見た事ない形になってしまったリーの写真だった。

リーは長年の友人で、僕の会社の一番の職人で、僕がカンボジアに来て一番長い時間を一緒に過ごした仲間だった。


画像は直視に耐えられるものではなかったが、紛れもなく彼だった。


ボイスメッセージには彼がバイクで交通事故に遭い、車に轢き逃げされたと残されていた。


普通なら、早く病院に!と怒る所かもしれないが、そんな言葉が何の意味もなさないことは色の変わった彼の顔を見れば明らかだった。

画像1


この写真が本当にキツかった。
数時間前まで普通に笑って話していた人間が、映画でも見たことのない姿になっている。

まだわからない。


教えてくれた人にすぐに電話をかけなおした。

名前も覚えてない彼が言ったのは

「もしもし、今リーが死んだ。」


電話の向こうの過呼吸じみた声を聞いて、写真が何かの間違いではない事が確定的になった。

頭がひゅんと白くなるように、首の後ろが冷たくなり、膝に力が入らなくなった。


血まみれになった写真を何度も見返した。

何度見ても、間違いなくリーだった。


リーは僕が会社を作って間もない頃に出会い、本当に何もない所から今までの5年間ずっと一緒に働き、どんなにしんどい時も一緒に頑張ってきた。


3年間汚い寮で一緒に暮らして、少しずつ革細工の道具や環境を整え、引越しの度にまた逆戻りしながらも一緒に工事をして、他のスタッフがみんな辞めてしまい2人だけになってしまった時も文句ひとつ言わずついてきてくれた。
今では彼なしでは会社が成り立たないくらいかけがえのない職人に育っていた。


彼を軸にした職人育成も、数年かけてやっと後続の職人も育ってきて、これならいけると確信し、コロナによる国内の状況も後押しし数ヶ月後には日本を含めた海外進出を控え、まさにこれから!というところだった。



正月連休前の前日、みんなお正月はどこに行くの?と聞いた時、彼は友達と一緒にプノンクーレン(滝のある山)に行くんだと言って、スタッフ全員に餞別のお年玉を渡し、行く時は気をつけて行くんやで〜。と伝えた。


その山に行った帰りの出来事だった。


電話の彼には今すぐに行くと伝えたが、もう遅いから明日来て欲しいと言われた。

立ち上がるだけで眩暈がする。
気持ちは焦る。
身体はいうことをきかない。


しんとした静かな夜、少し遠くの方からはテレビから漏れるコミカルなお笑い芸人のクメール語と、ぼよよーんという場違いでコミカルな効果音、近所の人の甲高い笑い声が聞こえる。

呆然としたまま、はっきりしない頭でさっきまでの頭痛と吐き気を他人事のように意識しながら、「これは夢だ」と誰もが考えつくような願い事をした。


その日はお正月で、他のスタッフの誕生日でもある。

カンボジア中の誰もがお祝いするはずのいつもと何ひとつ変わらない普通の夜。


こんな事ってあるか。








---





次の日、朝から葬式に行った。

バイクを飛ばして1時間半かけて行った先、誰もいない雑木林みたいな道を抜けて辿り着いたお寺は、とても静かで、とても暑かった。


画像18



ひとつ疑問だったのは、リーはバイクを持ってないし、普段1人で運転する事なんてまずない。どうしても腑に落ちなかった。

事故当日リーと一緒に行動し、現場に居合わせた子達に話を聞いた。

本当にリーが運転していたのか?と聞くと、彼はあからさまに狼狽して眼を伏せた。

それ以上は聞かなかった。
聞いて何かがわかったところで、何の意味もない。


家族が到着するまでまだ数時間もある。それを意識した途端前日から何も食べてない事に気づき急に空腹を覚えたので、近所の食堂で適当にご飯を頼んだ。

一口食べてからどうしても箸が進まず、全部残した。

店のお姉さんに「美味しくなかったの?」と聞かれ、「いや美味しかったんだけどお腹が痛くて…」となぜか咄嗟にしなくても良い言い訳をした。

2時間ほど何もない村の道端で手持ち無沙汰で待っていると両親が到着したという連絡がきたので葬儀場に戻った。


コロナの影響もあり、オレンジの袈裟とははなはだ不釣り合いな透明のフェイスガードをつけた坊さんが高笑いでふざけ合っていたり、量産型みたいなスキンヘッドのお婆の尼さん達が同じ方向を見てぼーっとしていたり、カンボジアらしく屍の入っている棺が壊れるのをハンマーで雑にブッ叩いて直したり、彼らと自分の温度差とそれらの光景全てがやけにコントじみていてよりその現実感を薄くしていた。

人の死が仕事で、人の死が日常。

インドのバラナシ、ガンジス川のほとりで見た、鼻くそをほじりながら木の棒で死体を焼いていた子供のことを思い出した。


彼らにとっては葬儀なんてものは至極日常、毎日のルーティーンに過ぎず、この世に一つしかないリーの死も、その沢山の知らない誰かの死のうちのひとつでしかない。

それは彼らとって当たり前の事であって、誰も悪くない。
そんなことはわかっているはずなのに悔しくて勝手に涙が出て来た。


横にいた友人が、「ボン(お兄さん)、泣いてるのはボンだけだよ。泣くな。Cut your feeling」と言って僕の肩を叩いた。


おっとり刀で来た為、何も持って来てなかった。

何もできないけど、せめてもの気持ちのつもりで、香典代わりに財布に入っていたお札を全部そのまま渡した。
周りの人みんなが財布に注目している感じがあった。
通常の香典の何倍もの金額にあたるとの事だったが、そんな事はどうでも良かった。

顔見知りのみんなでひとつにまとめてから、両親に手渡した。

リーの父は僕の目を見ず、下を見たままボソッと一言、遺影のリーと僕の顔が似てると言い、母親は抱きついてきて僕の胸を何度も何度もグーで叩きながら声を上げて号泣した。


黙って抱きしめたつもりだったが、つられて嗚咽が漏れた。
自分の声じゃないみたいだった。



それから棺を開けて初めて顔を見て、彼が何年も前に作ったまだつたない手縫いのカバンと写真を入れ、一緒に担ぎ、燃やした。

遺影は僕が持った。

友達は泣いてるのはお兄さんだけだよと言ったが、みんな泣いていた。


火が大きくなって、焼き場の中でボンっと低いよう軽いような重いような渇いたような独特の大きな破裂音がした。


そこで初めて「あぁ、リーは昨日交通事故に遭って、死んで、今はお葬式に来ているんだな」と実感した。


それを境に自分の中で終わった感じがあり、後で考えるとその時に諦めがついたのかもしれない。急に冷めた気持ちになり、その後どうしても最後までいる気になれず、燃え終わるまで待たずに数人に挨拶だけして帰ろうとした時、リーの母親と叔母さんが焦り気味で僕に駆け寄って何かを言った来た。

母親は強めに、叔母は少しだけ言いにくそうに、何かを伝えてきた。

どちらも聞き取れなかったので横にいた友達に通訳してもらうと、リーが働いた分の給料はもう渡したのか?と聞いてきた。

お給料だけでなく、お正月のボーナスをまさに先日渡したところですよ。それと彼の遺品が寮にあるので良かったら明日にでも取りに来ませんか?と伝えると、それは要らない。その代わりに買い取って欲しい。いくらなら買ってくれるか、と強く聞かれた。



僕は頭がクラクラしてきて、やり場もなく眉間をつねった。それでは抑えきれず目の前の人達に憚らず深いため息が漏れた。
何もかも面倒になり、その日は叔母さんに電話番号だけ伝えて寺を後にした。

息もできなくなりそうだった。



母親はまた何か言おうとした。言おうとしたように見えた。


考え方次第かもしれない。でも決して綺麗な思い出では終わらせてくれない、時々否が応でも感じさせられる独特のこの国の現実みたいなものを突き付けられた気がして、どういう気持ちになって良いかわからなくなった。

似たような経験は一度や二度ではない。

「カンボジアの為に」とか「カンボジアの人の為に」みたいな気持ちがどっかにあったうちは、ぼくはこの国や人の事を何ひとつわかってなかったんだなと改めて痛感した。

習慣がどうのとか人によるとか、そんな下らない話ではなく、もっと直接的な人と人の何かとか、自分はここではどこまでいっても余所者であって、エイリアンなんだなとか。



みぞおちの辺りが
限度なく締め付けられるような気持ちのまま、リーが事故を起こした道を、バイクで出せるだけのスピードを出して帰った。




途中、異様に滑りやすい砂利道の先に、大きなカーブと赤黒いシミがあった。




画像5



---




工房に帰ると、どっと疲れた。
出会った時の頃から今までのことを思い出しながらずっと考え事をしていた。

一緒にタイの沢山の工房に勉強に行ったこと、スコールでびしょ濡れになって走って帰ったこと、毎日何時間も技術について話し合ったこと、喧嘩して寮を出て行ったこと、リーに好きな女の子ができたのを茶化したこと、工事中に漫画みたいに同時に感電してみんなで爆笑したこと、何でもない毎日のこと。

画像13


タイで人生初めての電車に乗る為切符を買った時


画像14

画像15


タイのマーケットで真剣に革製品を見ているリー

画像16

まだ道具も揃っていなかった初期の頃の工房
リーと弟のマイ


リセットや巻き戻しボタンはないのかなとか、時間は戻せないんだなとか、ごくごく当たり前の事を何度も考えては、その度に全身の力が抜けた。


休みの日も毎日「おはよう、どこ行くの?」と顔を合わせていたので、誰もいないがらんとした工房が妙に静かに感じる。


3歩進んで5歩下がるような毎日だったけど、ほんのたまに一気に10歩進めるようなあの瞬間が忘れられなくて一緒に一喜一憂しながら頑張ってきた今までの5年間が全部なくなってしまったみたいで、本当に身体に力が入らなくなった。



同時に、彼の死を悼むもう半分の頭で、「明日からどうしよう」と、これから会社をどうしていくかを至極冷静に思案している自分に心底嫌気がさした。




昔沢山の先輩たちに言われたことを思い出した。


「職人職人って、そんな特定の個人に依存する様なビジネスモデル通用するはずないやん。その子が辞めたら終わりやろ」

色んな人に言われた。



その度に僕は「いえ、辞めません」と言った。

根拠はなかったが、そう言えるだけのものがあった。



僕の言う通り彼は5年間1度も辞めなかった。


でも死んだ。



結果的に先輩たちの言う事が正しかった。






身体に力が入らない。


さすがに潮時かなと思った。

もう充分だと思った。

カンボジアに来てから今まで、考えられないような無茶苦茶な事は沢山あったが、こんな気持ちになる事はなかった。

もう辞めたいと思う事はあったが、もう辞めようと思ったのは初めてだった。

何をどうしてももうリーは戻って来ない。

"悲しみを乗り越えて"なんてよく言うけど、こんなこと乗り越えられるわけがない。
この先もずっと。


ではせめてその事実と向き合う、受け入れる。
それはしないといけないかもしれない。



彼の死を何かの理由づけにしたくない。
でも、誰にとっても無駄ではなく、ちゃんと何かの意味があったんだと思えるようなこれからにしていきたい。


何度考えても何周回っても考えれば考える程に月並みな言い方になるけど、これからも人生は続くし、彼の分まで生きる。

それしかできない。

それだけならできる。

---


正月の連休が明けてから、もう1人の正社員の職人ナリちゃんが出勤して来た。

コロナによるロックダウンの影響で出勤できるかも危うく、多数検問があったものの無事出勤できた。

リーの事故から数日経ち、その時にはもう僕はある程度の整理はついて持ち直していたつもりだったが、彼女にとっては初日だった。

あまり言葉もないまま、それについて触れないまま、なし崩し的に仕事を始めたが、リーの写真を額に入れてる僕を見てから、彼女がぼくに聞こえないように息を殺して泣きながら仕事をしてるのを気づいた時にはその場にいるのが本当に辛かった。

その日はそこで全ての仕事を中断して、しなくても良い掃除をして、2人でゆっくりこれからの事を話した。


画像16





いつもと何も変わらない光景。
違うのは、いつもの椅子にリーがいないだけ。


いつも猫を膝に乗せながら縫い物をしていた。


何も知らない猫が、お腹すいたとにゃーにゃー鳴いて膝に登ってくる。




画像2

画像17


---

newspicksだったか。強い経営者になる為には、強いメンタルを持つ人間になる必要があるというネット番組をちょうどつい先日観た。

凄い人達は皆こんな事を乗り越えて来たのだろうか。

強い経営者になる為に何度もこんな経験をしないといけないのであれば、僕はずっと弱いままで良い。



その後数日は親身になって積極的に話を聞いてくれたりメッセージをくれる人もいれば、気を遣って触れないようにしてくれる人もいて、そのどれもが素直に嬉しかった。

中には事情を知りながら仕事でもない返事を詰めて来る人や、あら〜。ご愁傷様でーす🙏と、半ば笑い話のような軽いノリでその話題について話す人がいる事が信じられなかった。

自分にとって人生を変えるような出来事でも、他人にとってはどこまで行っても他人事なんだなと改めて当たり前のことを認識した。

彼らとはもう話す事もないと思う。


そんな感じで人と話すのも疲れるのでどこにも出ず家にこもってた時、急に工房に来て、いつもと変わらない感じでバカ話しながらも「もし良かったら彼に」と言ってリーの分までビールとシュークリームを持って来てくれた石ちゃん(遺跡修復をしている友人)の優しさが妙に嬉しかった。


この間ずっと色々な事を考えた。


"心の中で生き続ける"とかよく言われる綺麗ごとを少しだけ理解しようとしてみた。

どこかで生きていてももう何十年も会ってない人、亡くなったけどその事を知らない人、どこでどうしてるかわからない人、名前も思い出せない人、忘れてしまった人。

目を瞑ったら同じなんじゃないかなとか。

生きてても死んでても会ってないことには変わりない。

そう考えるとその人のことを忘れてしまった時が死んだ時なのかもしれないなとか。

顔も思い出せないなら生きてるのも死んでるのも同じで、概念だけの問題なのかなとか。

「生きること」と「死ぬこと、殺すこと」

より長く生きる、より良く生きる、より多く生きる。太く短く、細く長く生きる。そういうことを色々。


僕自身も生に対しての執着みたいなものが薄くなってる気がする。


ごちゃごちゃ考えても、死ぬ時は死ぬ。


命の燃やし方。命の使い方。


これまで僕にとって全ての原動力は、環境や社会に対する漠然とした疑問や怒りである事が多かったけど、この数日深く思考し続けた事で自分の中で明らかに何かが変わった。


もうひとつ、優しさとは想像力の事だと思う。

辛い経験をすればする程、誰かに「この野郎」と思う事があっても「もしかしたらこの人も」と色々な想像が働き、どこかで他人に対しても思慮深くなれるのかもしれない。

何かに必死になったり、夢中になりすぎると見えなくなるものが沢山ある。

大切なものを守る為に、戦わないと…と剣を振り下ろそうとしたその相手にも、自分が命を賭けて守ろうとしているものと同じだけ大切な存在があるのかもしれない。
相手もその大切なものを守る為にビビりながら自分に向かって剣を振り下ろそうとしてるのかもしれない。

そう考えたら隣の人に誰にも剣を振り回したりできない。


リーはそういう事を気づかせてくれたような気がします。


最後に。

あの日彼に起こった事は、この世界に生きる誰にでも起こり得る事で、大切な家族や友人がいつ急に目の前からいなくなるかわからない毎日を僕らは生きてるという事を改めて身をもって痛感させられた。
もちろん自分自身もいついなくなるかわからない。

今いる家族を出来るだけ大切にするべきだと心底思ったし、大切な人や自分が今日死んでも後悔しない毎日を生きないといけないと身に染みて感じた。





半ば自分の頭を整理する為だけに書いたくそ長い文を最後まで読んでくれてありがとうございます。

自分にとってはこれから先も生きて行く為には必要な作業でした。


考えれば考える程月並みな言葉になってしまいますが、家族や友達、恋人、身の回りの大切な人を本当に大事にして下さい。


みんなが少しでも幸せでありますように!



画像18

画像15

画像11

画像12

画像13

画像14

画像15

画像19








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?