東京祝詞講座を修えて

大師匠に当たる清水宗徳先生が、五岳でも南岳が一番厳しい、だからこそ四輔山があると言っておられてことが、今しみじみと身に染みている


私は南岳ではないが、今は東京に住み、数年前までは東京の(皇居の)南を守ると明治天皇様が定められて勅使を送った神社にご奉仕して、毎日玉体安全、鎮護国家、萬民泰平を祈っていたが、その神社を辞め、今は自宅の一室に祭壇を組み、御神前にして日々玉体安全、鎮護国家、萬民泰平を祈っているが、この寓居はまさに皇居のまた厳密にいうと宮中三殿の真南であり、自宅祭壇には宮中三殿の御分霊が鎮まっておりこれを天照御影大神と称して日々潔斎を重ねて祈りの日々を送っている


この南の霊的守護の勤めあってこそ、生かされているのだとわかるし、これを離れるのがなかなか難しい

その神社に御奉仕したのも、その御役目を拝命するためであったと今ではわかる

これは祈りきるしかないのだが、祈り終わるという話でもない

だからこれを変わるには、今度は皇居の艮に住んで鬼門封じとして祈りの日々を送るか、あるいはまた以前のように皇居の直近に住んで日々柱として生きるかなのだが、山に帰りたいという気持ちもあって、結局動けない状況ではある

妄想に過ぎないかも知れないけれど、神道に深入りして真に霊的な世界にどっぷり浸かるとこうい御役目みたいなものを与えられることがある

それをどう受け取るかでその後の生き方が変わる

私はもう「諾」としか言えなかったのでこうなっている

それが幸せかどうかはわからない


祝詞講座が世に出た時に一番嬉しかったのは、日本全国に祝詞の清らかな言霊が広がって、毎日祝詞を奏上する方が増え、出版以来それが不断に行われていることだ

一万五千部以上、マニアックな祝詞奏上の本が売れるなんて私も含めて誰も思っていなかったが、それも自分の力ではなく、日本全国に祝詞の清らかな言霊を広げ国土を浄化しようと思われた神祇諸仙の御力だと、私自身がひしひしと実感している

私には本来そんな力は何もない

ただ神々と御仏、御縁あって御導引くださっている師仙たちの御蔭で生かされており、御役目を授かって日々そのためだけに生きているからこそ、祈りだけで生きていくことが出来ている

だから、祈祷を受けてくださっている人たち、日々ご奉納などでしてくださる人たち、祝詞講座に来てくださる人たち、また日々色々と御指導賜り御教示を賜っている大恩ある方々のお蔭で自分も、自分の生活も修行も成り立っていることを痛感しているので、日々感謝しかない


だからこそ、自分が持っているもので公開して良いもの、伝授して良いもの、教導して良いものは全て出し切ろうと思っている

祈り以外で、私ができる唯一の恩返しだからだ


今回も諏訪さんと共に埋没していた祝詞を復興できたことも自分の力ではなく、神様のお導きであり、この祝詞自体が世に出て、世界を人々を祓い清めたいと思われたのだろう

それをたまたま心を寄せていた私を通じて復興させたのだろうが、祝詞講座で四十人以上が一斉に祝詞を奏上した時に、これは私と諏訪さんだけでなく、講座を受けてくださったこの四十人以上の人々も一緒に復興してくださったのだと直感した

もちろんこれから大阪で受講する数十名の受講者も含めてだ

だから、どこにも自分の力とか功績というものは無いのだなと改めて思った

祝詞の本も、祈祷も、祝詞講座も、皆神様のお陰、神仏のおかげ、実際に働いてくれる眷属のおかげ、人々のおかげで、自分はおかげで生きているのだなと祝詞講座が終わってまた理解が深まった


うちの祝詞講座が本当に健全だなと思うのは、できる限り神社で正式参拝してから始めるし、参加費も内容を思えば安いと参加してくださった皆様が皆言ってくださるし、何よりも私を全く崇め奉らないのが良い

直会でも、いつも皆さん初対面の方同士でも気心が知れて仲良くなって大盛り上がりしているだが、私は大体それに洩れて一人でぼーっとしてることが多い

それは私はとても気に入っている

私に依存したり、信仰したり、神格化しようとすれば、祝詞をいくら唱えても何の意味もない

神前にいない時はただのおっさんだ

直会の度にうちの講座の参加者はレベルが高いと思う


本来は○岳である私が、今は南岳の御役目を拝命して、日々祈りのみに生きている中でしんどいこと、厳しいことも多いが、時々祝詞講座の中での感動や、直会の中での放置されっぷりで、本当に生きてて良かったなと思って、何とか今日も頑張っている

頂いたサポートは、天照御影大神様への御供物や蝋燭や線香などを買わせて頂きます。陰徳を積む事で、運命改善なさってください。