積もる雪と子供の認識の話
本日のBGM Kool & The Gang - Chocolate Buttermilk
今朝も雪積もってやがんなあと思ったら、これを書いている今 金曜の夜なんですけど さらに降ってきてて↓ また積もるみたいで、上野は山の麓にあるんですけど、実は雪が割と少なくて、全然積もらない年もあるくらいなんですけど、今年はかなり降っていますね。この雪でかなりの鉢植え植物たちが死に絶えることでしょう。アイヤー
今日の昼間がこんな感じで↓ 今はこれよりさらに積もっているから 明日は諸々の雪遊びに興じることができるわけで、これ子供は大喜びだろうなー と思う一方、いつから私は雪で大喜びしなくなったのかしらと思うわけで、この雪に対する無感動ぶりときたら一体どうしちまったことだい、かつてはあんなにはしゃいでいたのに。
まあそんなこと言ったら諸々の映画やら音楽やら小説やらのコンテンツにも前と比べれば無感動になっているんですけども、コンテンツの方で言えば「慣れ」ちゃったわけですよね。見聞きした分だけ。
まあこの慣れというか鈍感化っていうのはたぶん人間が生きていきやすいように備わっている機能であって、いちいち感動するというのは実はとても辛いですよね。良い方の感動だけがあるわけじゃないですものね。悪意みたいなのにはより敏感になりますし。その辺の感受性の強弱には個人差があって、やっぱり鈍感な人の方がすこぶる健康に生きていますものね。鈍感というのも大変な才能なのですね。
雪に戻りまして、雪はなんで嫌いになったんでしょうか。今嫌いって書いたものの私は雪が嫌いなのかしら? かつてのように大好きではなくなっただけで 嫌いではないような。私の職業形態が寝室から徒歩13秒くらいで職場に到着するので雪が障害になることはないし、まあ粘土が凍るのはちょっと困るけど でも雪は関係なく寒ければ凍るし、ってことで雪が降ることで嫌なことがあまり起こらないので、今は雪に対して大変フラットな感情ですね。寒いのは嫌いだけど。
雪に関しては学校とか行ってた時の方が嫌いだったかもしれないですね。たぶん雪が積もっている中で通勤通学とかの強制されることがあると 雪を嫌いになりやすいんじゃないかしら。なんか野球部とか雪の中走らされてそうで それは嫌だろうなあと思いまして。
私はちなみにバドミントン部だったんですけど、今日はちょっとだるいから走りたくないですね、などと拒否権があったので部活中にはあまりそういう思いはしてませんでした。その分のストレスは部長たちにかかっていたんでしょうな。
子供にとって、って考えると 非日常性ってのがまずあるとして、 雪で覆い隠された白一色の視界というのは大変に簡素化されたもので、これは結構大きいんじゃないかと思いまして。ていうのも人間というのは実は視界に映るものを処理するのに結構疲れてるみたいで、特に現代は情報量がすごいですし、っていうので、例えばVRゴーグルなんかで360度の視界を、アニメのような簡単な情報量だけで組み立てられたものにすると 脳が疲れなくて大変快適なんだそうです。それはちょっと経験してみたいですよね。
それと雪というのは触れるものですから、子供が知覚する世界と地続きな存在でありつつ、触ったり食べたり痕跡を残したりすることができるわけで、その手応えが楽しいんでしょうか。世界への認識を普段とは別の手段でできるっていうところが。子供は世の中を認識する作業を遊びとしていますよね。おママごとなんかが代表例ですね。
となると私は雪に対して認識し終わってしまったのか、大変にフラットな感情で いやー よう積もってまんなあ と思いつつ、それでも新雪の野に最初に足跡を残すのは少し楽しいわねと思うのでした。
高鶴裕太 コウヅルユウタ
陶芸家
1991年生まれ
2013年横浜国立大学経済学部卒業
上野焼窯元 庚申窯3代目
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