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価値観に+αをしてみた

アクセスありがとうございます。
越路つぐみです。


「あれやらなきゃー」と言いつつも、しないことは私はそれなりにあるのですけれど、みなさんはいかがでしょう。


昔はですね、「やりたいけれど、○○だったから…」や「やろうとしていたのよ、でも…」みたいな感じでうだうだ言っていました。
(今もこのステップは踏みます)


ただ、そんな風に過ごしていた時にふと感じたのです。
…私は誰に何のために言い訳をしているのだろう…と。


私はどーーも、【決めたことをしない】は【よくないこと】と思っていて、その弁解を必死で周りにしているわけです。
周りは誰も気にしていないかもしれないのに。


そこでふと周りを見てみますと、みんなそこそこに【しない】を使いながら生活をしていましたし、誰かが【しない】を決めたとしても私自身が相手を【よくない】と評価するばかりでもないなぁということもありました。


そこでよーーやく、私は【しない】を自分で決めたのよと腹をくくる道に踏み出し始めたわけです。


先にも書いたとおり、うだうだいうステップは踏んでいることに変わりはないのですけれど、【しないは私が決めた】は明確に把握していますし、私が決めたことを私が引き受けるステップの1つになっているような感じです。

やっていることは同じかもしれませんが、何のために行っているかに変化があったので、その先にも変化があった…そんな感じでしょうか。



自身の価値観に関わることが起きたとき、「気にしない」とか「自分を変化させる」という方向でアプローチをすることを提案する機会がとても多いように感じています。

個人的な意見としましては、皆さん自身の価値観を大切にしつつ、苦しくなりすぎない道を見つけていけることが必要なように感じています。

今回の私の【しないはよくない】も価値観そのものは変わっていないです。
ですが、【しない私はダメな奴と思いすぎる必要はない】とか、【しないも人生の選択の中の1つとして持つ必要がある】などが価値観のバリエーションとして加わったことで、もともとの価値観を変化させすぎることなく、どうにか折り合いをつけて暮らしていけるようになっています。


社会規範や周りとの兼ね合いの中で、変えていくことを求められる価値観はある一定程度ありますが、それはほんの一部ではないでしょうか。

人の持つ価値観の多くは、【私と周りが苦しくなりすぎない道で活かす】で充分なのではないかなぁと感じる今日この頃です。



ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
またの機会に。

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