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感情電車 #18 「CHERRY BOY MEETS GIRL」

2019年8月下旬の東京は熱かった。アメリカのインディーシーンで最も勢いのあるプロレス団体・GCWの日本公演2連戦が新木場1st RINGが行われるのだった。更に、その翌日には、マイケル・エルガン対関本大介というドリームマッチをメインイベントに控えた大日本プロレス後楽園ホール大会が行われる予定だった。夢のようなプロレスウィークだった。東京へ行かない訳にはいかなかった。
私は高専卒業後は就職ではなく、進学を希望していた。秋には大学の三年次編入試験が控えており、夏休みは沢山勉強しなければいけないのだが、この週末だけはプロレスファンの自分を大切にしようと思った。気合を入れて、興行のチケットを購入し、高速バスの予約も取った。
初めて自分の力で東京の街を歩いた高専一年の夏から早四年が経っていた。私も頻繁に東京を訪れるようになった。しかし、東京という街を知ることは一向になかった。早朝のバスタ新宿に到着し、その日の深夜には再びバスタ新宿から富山へ帰るというケースがほとんどだった。毎回滞在時間が一日しかないおかげで、大体行く場所はいつも同じだった。私だけの東京ルーティーンが自然と出来上がっていた。
朝は、新宿駅近くの早朝割を実施している個室ビデオで仮眠を取る。昼前には、赤羽でおでんを食べる。昼は、錦糸町のサウナへ行く。個室ビデオで汚れた体を洗い流して整える。夕方は、富山でも食べれるチェーン店の牛丼をかきこむ。夜が近づくと、プロレス会場へと向かう。興行終了後は、ぼちぼちとバスタ新宿へ向かう。邪心を抜いて、おでんを食って、サウナを浴びて、プロレスを観る。YouTubeには流せない酷過ぎる東京ルーティーンが出来上がっていた。
夜行バスでの日帰りはいくら若くても体力に負担がかかるのだが、滞在時間が短い方が楽しい時間だけを過ごして富山に帰れるから、泊まるよりはましだというのが、高専五年生かつ東京遠征歴五年目の私の持論だった。
しかしながら今回は、GCWと大日本プロレスを連日観ることになるから、日帰りではなかった。三日間も東京に滞在しなければならなかった。夜にはプロレスが待っているにしろ、三日間も東京にいたら、時間の消費に困ってしまうのだった。大好きなサウナに行くのは一日だけでいい。赤羽でおでんを食べるのも一日だけでいい。宿があるなら個室ビデオなんて行く必要はない。
何度東京へ行っても、気軽に会えるような友人はいなかった。当てもなく東京の街を散歩するのは大好きだが、歩き過ぎると夜の興行中に疲れがやってくるのだった。いつかのWWE日本公演は、昼間に30度超えの渋谷を歩き過ぎたせいで、疲れが私を襲い、完全に眠ってしまった。リッキー・ベンチの入場曲がアラームになったこととディーン・アンブローズが興行を締めてたことしか覚えていない。
三日間をどう潰そうか。何をして過ごそうか。
そんな時に思い出したのが、吉本興業のお笑いライブだった。私は、子供の頃から吉本興業が大好きだ。お笑いというより吉本が好きだ。
小学一年の頃、一人暮らしをする姉を訪ねに家族で東京へ行った際に、東京観光の一環としてルミネtheよしもとの通常公演を見た。そこで私は吉本興業という沼に嵌ってしまった。幸い、私だけでなく、家族揃って吉本が好きになったことで、小学二、三年の頃は母や姉によく東京へ連れて行って貰った。父の事業が一時的に上り調子だったこともあって、家庭は少しお金に余裕があったので、よく東京に連れて行って貰った。
私が頻繁に東京を訪れていた当時は、人気絶頂だったオリエンタルラジオにあやかって、渋谷にヨシモト∞ホールという若手芸人中心の画期的な劇場が誕生して間もない頃だった。また、同時期に、フジテレビが若手芸人中心のショートネタ番組「爆笑レッドカーペット」を放送開始し、芸人がブレイクしやすい環境が整いつつあった。東京吉本の若手界隈には、今にもお茶の間のスターになりそうな逸材が集まっており、ヨシモト∞ホールで平日の夕方に開演されていた若手芸人のライブ「AGE AGE LIVE」は、学校帰りの女子高生らで連日満員だった。
小学校低学年の私は、女子高生達の輪に入って、芸人の入り待ちや出待ちを繰り返した。幼き頃に舞台に立つ芸人達と触れてきた経験は、私のプロレスファン人生にも大きな影響を与えている。
家族総出で芸人の追っかけを続けた結果、母はジョイマンの高木くんと飯に行く仲になった。世間では「ジョイマン高木」と言われる芸人も、我が家では「高木くん」なのだ。母は売れない高木くんによく夕飯をご馳走していた。それは私がチェーズ・オーエンズにランチをご馳走する八年前の話だ。
吉本の芸人の追っかけをしていた時間は、私の原点と言っていいだろう。あの頃の時間があったから、好みのプロレスラーを見つけると、実際に触れてみたいと思ってしまう体に出来上がってしまったのだ。好きになったレスラーに対して、会話してみたいという感情を抱いてしまうのは、あの日々があったからだ。あの時間が、私の体にはタトゥーのように深く刻まれている。それはもう消そうとしても消せないものである。あの思い出は、一生捨てられない。我が家に大切に保管されたジョイマンが初めて書いたサインのように。

そんな思い出が東京にあることをすっかり忘れていた。吉本のライブは昼間からやっているし、時間が潰せるし、夜のプロレス興行に疲れを残さない。そして何より楽しい。何でこんなことを忘れていたのか。ここ四年ほど、プロレスのことばかり考えていて、いろいろなものを見失っていた気がする。
『プロレスについてしか知らない人は、プロレスについて何も知らない人だ』
かつてターザン山本がそう言っていた。プロレス以外も触れないといけないなと思った私は、久しぶりに吉本のライブを観に行くことにした。
劇場にこそ久しく通っていなかったが、相変わらずお笑いは好きだった。今の吉本の若手芸人のこともそこそこ知っている。せっかくだから好きな芸人が出るライブを観たい。今気になってる若手芸人というと、コウテイだ。
早朝にミサイルを打つ国の長か、橋本真也でしか見たことがないマオカラーのスーツを着て、奇抜な漫才をする新進気鋭の若手コンビ、コウテイ。危険な匂いを放ちつつも、何処か愛嬌があって大好きだった。そんなコウテイは大阪吉本所属で、なかなか東京ではお目にかかれないのだが、エルガン来日ウィークに横浜で行われる吉本のライブにたまたま出演するのだった。迷わずチケットを購入しようとした。
いざプレイガイドで購入ページを開くと、そこには「予定枚数終了」の文字があった。せっかくのコウテイを見られるチャンスだったのに。賞レース決勝圏内の東西の若手が集まると二ヶ月も前から売り切れるのか。お笑いの力を舐めていた。プロレスのチケットを買う感覚でいる自分がいた。プロレスについてしか知らない人の悪い癖が出た。
それでも諦めきれなかった。もう転売でも何でもいいからコウテイを見たかった。やけくそになってメルカリで検索したら、なんと転売されているではないか。転売と言っても、元値より安く売られていた。しかし二枚一組で売られているのがネックだった。
チケット一枚あたりの価格は元値より安いが、二枚で一組だから、結局支払わなければいけない金額はプレイガイドでチケットを一枚買う場合よりは高い。チケットを二枚手にしたところで、一緒に観に行くような友人はいない。だけど、私は迷わない。行きたいという感情から逃げない。二枚組のチケットを即購入した。
チケットを入手して、無事にコウテイを生で観られることになったのはいいものの、チケットが一枚余ってしまった。空席が一つできるくらいだったら、お金は要らないから吉本が好きな誰かにチケットを譲りたいと思った。そんな時に便利なのがTwitterだ。興味を持ってくれた人にチケットを譲ろう。私は初めて「チケット譲ります」という旨のツイートをした。

ツイートから数日経っても全く反応がなかった。そこそこフォロワーはいるのに、誰からも反応がなかった。ライブがあるのは平日の昼下がりだし、場所も横浜という絶妙に難しいところであった。仕方がない。二席分を使ってゆったりと見るか。
そう思っていたところに知らないアカウントから一通のDMが来た。

「検索から失礼します。8/23の大さん橋ホールでのお笑いライブのチケットまだ残っていますか?宜しければ同行させて頂きたいです(;_;)💦」

アカウント名は「m」。フォロー数もフォロワー数もゼロ。過去のツイートは全て、男性アイドルグループの生写真の交換取引だった。きっと若い女性のサブアカウントなのだろう。
プロフィール画像は、首から下の全身を鏡越しで撮った写真だった。snowで加工したキラキラしたフィルターが特徴的だった。服装を見るに多分同世代だった。
全く面識のない人だし、プロフィール画像も何処かから拾ってきた画像かもしれなかった。プロフィール画像だけを頼りにすると、怪しいエロアカウントに見えなくもなかった。
SNSは危険だと言い張るような人に見せたら、「これは詐欺だよ」なんてよく分かっていないようなことを言われそうな気もする。しかし私は、直感的にこの人は信用してもいい人だと思った。頭のおかしい人は活字もおかしいというのが私の持論だ。気持ちが悪い人が作成した文面は、大体気持ちが悪い。
この人は活字が丁度良かった。丁寧だけど、堅苦しさはなかった。この緩過ぎない緩さがSNSに慣れた若者らしかった。第一、SNSではこのくらいのお願いの仕方が丁度良かった。
それに、向こうは向こうで「富山高専」と名乗っている変なアカウントに対して、この人なら大丈夫だと判断して声を掛けてくれた訳だ。こっちも信じて良いだろう。私はすぐに「残ってます!」と返事した。
すると彼女、というべきか、ネカマでない限り彼女な人間は、「よかったです❗️フォロー外でも大丈夫でしょうか??」とすぐに返信してくれた。この返信の早さを受けて、もうこの人は完全に大丈夫な人だと思った。

「これも何かの縁です。一緒に行きましょう。」

活字にはしないものの、心の中でそう返信した。彼女とは当日会場で待ち合わせすることになった。
同世代の女の子とライブを見るとなると、ちょっとだけ緊張した。私は女の子と話すのが得意ではなかった。
過去に、私を好きになってくれた人がいた。小学校で生徒会長を務めていた頃に、一個下の子が私を好いてくれた。そんな自分に興味を抱いてくれている女の子とも、上手に話せなかった。

***
小学六年の初夏。放課後の教室で生徒会の雑務をこなしていた時。生徒会のメンバーでもないのに生徒会メンバーの友達に付いてくる形で手伝いをしてくれていた女の子が、その日も私の手伝いをしてくれていた。教室で二人っきりになった時、彼女は私に言ってくれた。

「私、足が速いとか、サッカーやってるところが格好良いとか、そんな格好良さじゃなくて、キムさんみたいな、格好良い人が、生徒会長であるべきだと思います」

嬉しい言葉だった。私は図抜けて勉強ができる訳ではなければ、運動音痴だった。おまけに足も遅かった。だけど、演説を聞いた生徒達の投票の結果、勉強もスポーツもできる学年の人気者を生徒会長選挙で負かせてしまう不思議な人間だった。廊下に貼られた画用紙の「新生徒会長」の文字の隣に自分の名前が書いてあるのを見た時は、言葉で勝負したら人気者すらも倒してしまう自分は、相当人間的な魅力が詰まっているのではないかと思ってしまった。しかし、そんな風に思っていたら天罰が下る気がしたので、なるべく思わないようにした。
本当は彼女の言葉を聞いた時も、心の中では「あの演説の会場にいた訳でもないのにそう思うなんて、よう分かってるやつやな」と思った。しかし、「いやいやそんな」と言いながら、適当な笑顔で誤魔化してしまった。
その時はそれが最も良い判断だと思ったが、女の子の悲しげな表情を見た時に良くないことをしてしまったと思った。二人きりになった今、彼女は確かに勇気を振り絞るような声で私のことを褒めてくれた。私のような人間が評価されるべき世界になって欲しいと訴えかけてくれた。それなのに、私は「いやいや」と適当に返事をした。
黙り込んだ彼女の憂い顔を見た時、恋愛感情として好いてくれていたのではないかと思った。男子学生からはモテても、異性にモテたことはなかったので、そういう思いが込められていることを察知できなかった。自責の念に駆られた私は、必死にその瞬間を忘れようとした。だが、その数日後には、女の子を傷つけてしまったのに、それを忘れようとしてる自分の姿勢にすらも否定的になり、辛さで押し潰されそうになった。女の子の真剣な言葉を流した自分を恥じた。男として最悪なことをしてしまったと反省した。
あの子は、放課後の生徒会の雑務を手伝いに来なくなった。
***

あの日以来、女の子との関係で自分を責めたことはない。反対に自分を褒めたこともない。それまで以上に女の子と話さなくなったから、自分を責めるような出来事も、褒めるような出来事も起きなかった。
高専に入学してからは、クラスメイトの男子が、彼女と楽しい時間を過ごしていたり、先日誰々とやったみたいな下世話な話をしたりしていたが、全く羨ましく思わなかった。異性と絡んで辛い思いをする日が来るくらいなら、馬鹿になってプロレスを観たかった。特に最近はプロレスのことしか考えられない体になってしまっていた。

同世代の女の子と同じ時間を過ごすとなると、少し気が引き締まった。たかがお笑いライブを一緒に見るだけであろうと。



2019年8月23日。ライブ当日の東京近辺は曇天模様で、いつ雨が降ってもおかしくなかった。その日の私のスケジュールは、朝一番に赤羽でおでんを食べてから横浜に移動し、三ヶ月後に編入試験を受ける予定の横浜国立大学の下見をして、午後二時頃にライブが行われる大さん橋へ移動してmちゃんと待ち合わせし、そして夜にはGCW日本公演といった流れだった。GCWはただでさえ見逃せないのに、学校の後輩・中西くんと一緒に観戦するから、絶対にすっぽかせなかった。
東京で三日間もすることなんてないと思っていたが、そんなこともなかった。関本対エルガンを観に全国から集まるフォロワーさん達と会うために、大日本プロレス後楽園ホール大会当日の明日は、昼から夜までしっかり予定で埋まっている。昨日は昨日で、フォロワーさんが働くお稲荷屋さんに行ったら、話が弾んで、六時間も店に入り浸ってしまった。一人でやれることを詰め込める一日が自ずと今日になってしまったのだった。
と、ここまでならまだいいのだが、赤羽のおでんや大学の下見に加えて、夕方に行われることが急遽決定した中野ブロードウェイでのマイケル・エルガンのサイン会も予定に食い込んできた。それも行きたかった。しかし、GCW日本公演が始まる前に中野に寄るとなると、間違いなく横浜のお笑いライブは途中退席しなければいけなかった。
コウテイの出順が分からないから見通しが立たないが、流石にコウテイを見ずして会場を去るのは違うと思った。あと、チケットを譲る女の子が可愛かったら、エルガンどころではないかもしれなかった。でもエルガンには会いたいし、GCW日本公演には遅れたくなかった。私の欲張りを加速させたのも高専だった。
そんなことを考えながら、午前十時半から一人赤羽でおでんをつついていた。蒸し暑い夏の東京で、外で立って食べるおでんもなかなか悪くない。これが私の知ってる東京だった。朝からおでんという心地良い罪悪感に苛まれていたところに、mちゃんからDMが届いた。

「おはようございます。14時頃には到着出来る予定です!本日はよろしくお願いします!」

「お疲れ様です」じゃなくて「おはようございます」なのが可愛いなと思いながら、日本酒のだし割を呑んだ。ヴェッ。二十歳になったのをいいことに格好付けるんじゃなかった。人生初の日本酒がおでんのだし割りワンカップはさすがに格好付け過ぎた。
人に時間を奪われてもいいが、人の時間を奪うわけにはいかない。時間がない私は急いでだし割を飲み干した。酔ってはいないが、喉に微かな苦味を感じながら横浜国立大学へと向かった。
最寄駅に到着した。スマホで経路を検索をしたら、ここから横浜国大まで「徒歩30分」と表示された。経路がなかなか複雑な上に、途中から山道だった。iPhoneが案内してくれても迷いそうだった。おまけに私が編入試験を受ける経済学部棟は、横浜国大の敷地内でも、駅から最も離れているところにあった。
結局四十分近くかけて横浜国大の経済学部棟に到着した。鍵が閉まっていなかったので少しだけ中を見回った。
ポケットからiPhoneを取り出して時間を確認した。あ、まずい。あの子との約束の午後二時が迫っている。
小雨に打たれながら横浜の外れを全速力で走った。走りながら思った。これは少し遅るかもしれない。また女の子と話すことが苦手になりそうな要因を自分から作ってしまっている。すぐにmちゃんに連絡した。

「開場時間から10分遅れます!すみません!」

「全然大丈夫です!こちらは時間通り着きそうですのでお待ちしております!」

結局午後二時二十分に会場に着いてしまった。最悪だ。取り敢えず見つけてもらいやすいように自分の特徴を伝えた。

「着きました!入り口付近にいる坊主です」

急いで文面を作成し、送信した。「え、良い歳こいて坊主かよ。気持ち悪っ」と思われたらどうしようかと、送信した後に少し凹んだ。もう少しよろしい伝え方があった気もするが、とにかく会えれば何でもよかった。待たせてしまっているのだから、一秒でも早く会えればよかった。

「すみませんわからないです😅会場の中ですか?」

会場の横浜大さん橋ホールは思ってた以上に奥行きのある会場で、一体何処へ行けば、ライブが行われるエリアの入場口があるのか分からなかった。

「水玉の黒のスカートです、ビニール傘持ってます!」

mちゃんのDMをヒントに、ホールの中を走り回っていたら、ようやく見つけた。待たせてしまった申し訳なさから、慌てて声を掛けた。

「すみません。チケットのDMくださった方ですよね?」

遅れていなかったらここまでスムーズに話しかけられなかったかもしれない。

「そうです!この度はありがとうございます!」

奥二重の大きな瞳に、少し丸みを帯びた鼻、控えめな口が特徴的な可愛らしい子だった。黒に纏った全身と足元のドクターマーチンが彼女の気品をよく表現していた。

「これがチケットです。中に入りましょうか」

「そしたら先にお金を渡しますね」

彼女はそう言ってピン札を渡してきた。ピン札を持っている若者を久しぶりに見た。人にお金を渡す前にピン札を用意するとは、なんてマナーが成っている子なのかと少し感動した。

「お金は受け取れないです」

「えっ」

「ツイートにもいくらでお譲りしますとか書いてませんし」

「いやでもどうしてまた…」

「メルカリで2枚組のチケットすっごく安く買えたんです。だからお金は頂けないです」

「いいんですか?」

「はい、要らないですよ」

確かに定価より安かったが、「すっごく」安くは買えてない。でも、人を幸せにできるなら、ついていい嘘もあると思う。調べたらばれる嘘だけど。

「じゃあ、中入りますか?」

「はい」

着席してからお互いにスマホも触らずに誰もいない舞台を見る時間が続いた。向こうは私に気を遣っているようだった。私はただどうするべきかと考えていた。フォロワーさんでもない初対面の同世代の女の子との時間は気まずかった。でもなんだろう。可愛い女の子との気まずい空気というのは、これはこれで心地良いものがある。
全く会話しないのも変だから、少し話をかけてみよう。

「ライブはよく見に来られるんですか?」

「前までは週末によく見に行ってたんですけど、ここ一年ちょっと全くライブに行けてなくて」

「てことは今日が一年近く振りのライブですか?」

「いえ、先月、一年振りに見に行ったんです。そしたらすっごく楽しくて。こんなに楽しかったっけって思うほど楽しくて。それでまた見に行きたいなと思ってるところでこのライブを見つけて」

運命を感じた。

「僕も先日めちゃくちゃ久しぶりに無限大に行って、お笑いライブってこんなに面白かったっけって思ったところだったんですよ」

「えー、私も久しぶりのライブは無限大でした!」

「僕は十年前とかに家族ぐるみでよく無限大に行ってて。ピースとかノブコブとか、はんにゃあたりがトップだった頃によく行ってたんですけど、久しぶりに見たら今も面白くて」

「え、凄いですね。私が吉本にずっと嵌る前です。私の全然知らない頃の無限大です」

そう話すmちゃんも、私の知らない頃のヨシモト∞ホールを見てきたのだろう。

「こうやって、熱い吉本愛を持ってる人にチケットを譲れて良かったです。なんかすごく嬉しいなあ」

私がそう言った瞬間、mちゃんが今日初めて私の目をしっかり見つめてくれた。キラキラしていて、ウルウルしているようにも見える瞳を黙って私に見せてくれた。
女の子にこんな表情を見せられたのは初めてだ。女の子の言葉にグッときたことはあったけど、私は女の子を言葉でグッとさせたことはなかった。
小学六年生の頃、胸に来る言葉を放ってくれた女の子の思いを、私は裏切ってしまった。そんな私が、今初めて、女性を言葉でグッとさせることができた。私もウルウルするところだった。自分に少しだけ自信が持てた瞬間だった。
数秒間の沈黙の後、今度はmちゃんの方から話しかけてくれた。

「今日トップバッターが見取り図っぽいんですよね」

「あれ?出順って発表されてましたっけ?」

「発表はされてないんですけど、盛山さんのSNSを見てたら次の仕事ですぐ大阪に戻らなきゃいけないみたくて」

「なるほど…そうやってコンビの出順を推測することができるんですね」

「そうなんですよ。反対にコウテイはまだこっちの方に向かってる途中っぽいんですよね」

「いやーコウテイ遅めですか。今日コウテイ見たくてチケット取ったんですよ。コウテイが今一番気になってて、東京近辺で見れるなら絶対行かなきゃと思って」

「えー、私も今コウテイが一番好きです!チケットもコウテイ目当てで探してました!どっち派ですか?私九条さん派です!」

「僕は下ちゃんです!」

やはり運命ではないか。同じコンビが好きだけど、好きな方は別れるというのがまたなんか良い。

「コウテイ遅めですか…。この後プロレスのイベントにも行きたいからコウテイのネタを見れたら会場を後にしようかなと思ってたんです」

「そうなんですね。コウテイを見ずには帰れないですよね。早く出てくれるといいですね」

「そうですね。コウテイ、ネタ面白いですよね。ああいう尖ったネタをする芸人が好きなんですよね、金属バットとか」

「…はあ」

mちゃんは、「自分はそうは思いません」と言わんばかりの表情を見せた。話題を変えよう。

「足を運ぶ劇場はいつも無限大なんですか?」

「そうですね。大体いつも無限大です。たまにルミネも行きますけど」

「こちらの方に住んでらっしゃるんですか?」

「はい、神奈川県内で暮らしてます。実家がこっちで……生まれてからずっとです」

心なしか、mちゃんは突然憂いを帯びた顔を見せた。神奈川から出たいのだろうか。聞いてもいないのに実家という言葉が出てきたし、実家から出たいのだろうか。
今でこそ富山から移動するプロレスファンの自分に誇りを持っているが、関東に住んでたら、あらゆる娯楽に気軽に触れられるからずるいなと、昔はよく思ったものだ。しかし、関東に住む若者には、それはそれで辛いものがあるのだろうと、mちゃんの表情を見て思考を巡らせた。富山に住んでいる人間以上に実家を飛び出す理由を作れなさそうだ。先程一年振りにライブに行ったと話してくれたが、多分mちゃんは私の一個下の学年なのだろう。大学受験か何かで忙しく、高校三年生の一年間はライブ会場に行けなかったのではないかと推測した。本当は今年の春に実家を出たかったのに、出られなかったのではないかと推測した。
明らかに切なくなったあの表情を見るに、家族と上手くいってないのではないかと思った。神奈川在住の学生というのは、東京で一人暮らしをするには理由がなさ過ぎる。それに家族との間で辛いことがあったとしても、実家で暮らしていた方が金銭面では良いことが多いのは事実だ。吉本のライブに足繁く通えるのも実家暮らしが故だろう。
富山に生まれ富山で育った私と、神奈川に生まれ神奈川で育ったmちゃん。富山の若者も、神奈川の若者も、東京への憧れは変わらないのだなと思った。
父と母が離婚したり、姉がいきなり母と揉めたりする環境で育った私は、家族に気を遣って幼少期を過ごした。それが故なのか、辛そうな表情をしている人間を見ると妄想を広げる癖が昔からある。
要らぬ妄想を始めたら、彼女がより愛おしく思えてきた。抱きしめたくなった。そんなことは絶対にしないし、仮にやってもいい雰囲気になったとしても、そんなことはできないのだが。

ライブが始まった。笑っている時間は、辛い時間も忘れさせてくれる。
冷房が効き過ぎた会場にいる私の右腕を温めてくれる、私の前で大きく笑うことを堪えるmちゃんが笑う度に鼻から漏らす「フッ」という息をもう少し感じていたい。面白い漫才と女の子の鼻息。こんな最高なコンビもいないだろう。
コウテイの漫才が終わった。私は行く。エルガンに会いに行く。プロレスを選ぶ。もう二度とmちゃんと会うことはないだろう。DMしようと思えばできる状況が続くだろうけど、そんなことは絶対にしない。
mちゃんにときめいた顔をされた時は嬉しかった。何かが晴れた瞬間だった。Twitterでプロレスファンを楽しませる言葉を発することができても、生身の女性を喜ばせる言葉一つも言えない人間では寂しい。初めて女性が私だけに覗かせてくれたときめいた表情が心底嬉しかった。今後アップル社のぴえんの絵文字を見る度にmちゃんのことを思い出すことだろう。
mちゃんも私のことを死ぬまでに一回でも思い出してくれたら、なんてことは思わない。ただ、mちゃんにとって今日という日が良い日になってくれたのなら、それが一番嬉しい。誰かを好きになったり、その情熱が冷めたりするのは、プロレスだけで十分だ。さあ、中野へ向かおうか。
コウテイが袖に消えていき、次の芸人の出囃子が流れる中、私は席を立った。mちゃんは、私に会釈をした。私も無言で会釈した。

中野駅の改札を出て、金曜の夕方の人混みをかき分けて、大日本プロレスのショップがある中野ブロードウェイへと走った。汗だくの中、店の前に到着すると、中西くんと、フォロワーさんの姿があった。
何度も対面してきたフォロワーさんに、少し冷ややかな口調で言われた。

「え、今日もそのTシャツなの」

私が着ているKENTA Tシャツを見て、そう言ってきた。私は咄嗟に返した。

「いや、今から着替えるっていうか、上から着ようと思ってるTシャツがあるんですよ。エルガンの奥さんがエルガンにプレゼントしたっていう海外のプヲタが作った海賊版の後楽園ホールTシャツです」

リュックからTシャツを取り出して、袖を通そうとしたその瞬間、自分の匂いの異変に気が付いた。臭い。頗る臭い。ここに来る道中、退勤ラッシュの総武線は臭いなと思っていたが、どうやら匂いの原因は私だったようだ。
暑いのに雨が降っているという最悪な天候だった今日一日。汗の匂いと雨の匂いが入り混じった最悪な匂いがKENTAのTシャツからした。更には、狩りに飢えたオスの匂いまでした。今感じてる暑さも、走ったが故の暑さなのか、じめじめした気候が故の暑さなのか、下半身から迫るものなのか分からなくなってきた。確かなのは、今着ているKENTA Tシャツに今日の全てが詰まっているということだけだった。
そこで、はっとした。mちゃんは匂いに耐えていてくれたのだろうか。
彼女の記憶の中にいる私が、もうちょっと素敵な人のままでいたかったなと凹むと同時に、早めに去って正解だったとも思った。
エルガンからサインを貰って、中西くんと一緒に中野を後にした。目指すは新木場1st RINGだ。

新木場駅に着いた。会場へ行く前にコンビニに寄りたいと思った。

「ねえ中西くん、会場行く前にちょっとファミマ寄っていい?匂い消すスプレー買いたくてさ」

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