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感情電車 #20 「私が愛した嫌われ者」

2010年8月下旬。小学五年の夏の終わり。大好きな夏休みも終わりが近づいていて、センチな気持ちになっていた私は、残された夏休みを存分に味わうかのように夜更かしに勤しんでいた。親に見つかったら寝室に戻されるから、仕方なく暗いままのリビングで、当てもなくテレビをザッピングした。何か面白そうな番組はやっていないかとリモコンのチャンネルボタンをいじっていたら、日テレG+というCSチャンネルでプロレスリング・ノアの試合が録画中継されていた。
丁度KENTA対青木篤志が始まるところだった。新日本プロレスファンだった私は、新日本プロレスに度々参戦していた青木篤志のことはよく知っていた。一方で、KENTAのことはよく知らなかった。毎週購入している週刊プロレスで度々表紙を飾っていたKENTAというプロレスラー。その顔と名前は一致していたが、試合を観るのはこの時が初めてだった。
KENTAは、MCバトルのビートに使われていそうなヒップホップのインストゥルメンタルで入場してきた。プロレスラーの入場曲としては盛り上がりどころのなさ過ぎる落ち着いたメロディーラインに乗って、ファンの声援にも振り向かず、一人静かに闘志を燃やすように、リングへと歩いていた。

「あ、この人は人間的に面白い」

一瞬でそう思った。今まで見てきたどのレスラーとも違うオーラがKENTAにはあった。劣等感をそのまま人間という塊に収めたかのような雰囲気があった。劣等感というより、自分の信じるものを突き詰めている人間の刺々しさにも感じられた。
その魅力の正体は掴み切れなかった。しかし、入場ゲートからリングまで、ただ一直線に歩く彼の姿に、人間的としての魅力を感じたことは確かだった。
実際にKENTAは、試合中も尖っていた。タイトルマッチでもなければ、青木との間に遺恨があるわけでもないのに、ここまでやるかと衝撃を受けてしまう、蹴って殴っての凄惨な試合をやってのけた。
それまで私が観てきた新日本プロレスやドラゴンゲートプロレスリングのジュニアヘビー級の試合とは全く異なった。素人目で見ても分かるほど、そこらのヘビー級の選手よりよっぽど重い打撃をしていた。決して大きくはないのに、どんな技を受けても壊れない頑丈な体をしていた。かつて新日本プロレスのリングで丸藤正道が「ノアのジュニアは最強です」と言っていたが、KENTAと青木を見て、その言葉の意味が理解できた気がした。舐められないプロレスを見せていたのが、ノアのジュニアだった。
KENTAは、体中にみなぎるフラストレーションをリング上で爆発させているように見えた。体が大きくてなんぼの世界で自分は体が小さいこと、総合格闘技全盛期にプロレスをやってきたこと、まだまだプロレス界における自分の立ち位置に満足していないこと。試合を観たら、入場シーンで感じた魅力の正体が少し分かった気がした。
小さいけど鍛え抜かれた肉体と、尖っているけど「これがプロレスだよな」と思わせてくれる戦いぶりを見て、素晴らしいレスラーに出会ってしまったと思った。対戦相手の向こう側にいる世間をぶん殴っているかのようなKENTAの闘いに一発で惚れた。こんな男になりたいとすら思うほど、テレビに映ったKENTAは格好良かった。
KENTAと青木篤志が夏の終わりの憂鬱が吹き飛ばしてくれた。

その日以降、KENTAの試合をYouTubeで探しては見ることを繰り返した。舐められたら終わりだと言わんばかりのKENTAの試合は、運動もできないし、ちょっと太ってるし、体格を生かせると思ったちびっこ相撲ではそこそこの結果しか出せないし、おまけに秀でて勉強ができる訳でもない小学生の私の胸に突き刺さった。私もKENTAのように、頭はクールに、行動は大胆に、苛立ちを情熱に変換して生きて行きたいと思った。

KENTAと青木の試合を観てから半年が経とうとしていた頃、KENTAはヒールレスラーと化した。自身がリーダーのユニット「NO MERCY」を結成した。NO MERCYのKENTAの口から出てくる言葉はどれも刺激的だった。
週刊プロレスを始めとするメディアを通じて、KENTAは言葉も強いということに気付いていた。空席が目立つ日本武道館で試合をした後に「今のノアは武道館レベルに達していない」と言っていたのを誌面で確認した時は、所属選手でそう言い切れるのは強いなと思ったのを覚えている。
ヒールと化したことで、よりタブーに斬り込みやすい環境を得たKENTAは、言葉のプロレスに拍車をかけるのだった。

地上波放送終了。
創業者・三沢光晴の死。
観客動員数減少。

ノアはネガティブな話題が続いていた。尾羽打ち枯らした団体の姿を目前にして、ノアの選手達はそれに触れないようにしていたから、余計にノアは落ちぶれた雰囲気を醸し出していた。
そんなノアには、タブーに斬り込んでくれるヒールレスラー・KENTAの存在が必要だった。タブーに斬り込むと言っても、只々悪態づいて会社に対して文句を垂らす訳ではなかった。現状を受け止めて、刺激ある言葉を放ち、ノアを在るべき姿に導いてくれる。そんなダークヒーロー的存在がヒールのKENTAだった。
時には積極的に他団体に参戦するノアの選手達に対して「内も盛り上げられねえ奴が外に出てんじゃねえ」と批判した。時には「愛のないマッチメークをするな」と、ノアのマッチメークを担当していた仲田龍GMを批判した。
三沢光晴の最後のタッグパートナーであり、これからのノアを担う、次世代の選手の中でも頭ひとつ抜けた存在であった潮崎豪。ヒールと化し、多くのファンの支持を背負い、ヘビー級戦線にも参画するようにKENTA。そんな二人のスペシャルシングルマッチを仲田GMが組もうとした時、KENTAは、「潮崎とは最高のシチュエーションで戦いたいのに、なぜ今組もうとするのか。付き合いたての一番楽しい時間に結婚の話を持ち出してくる奴みたいでうざい」と週刊プロレスのコラムに寄稿していた。
その言葉を目にした私は、鳥肌が立った。出会ってから三ヶ月という早さで結婚した両親が離婚していたから、小学六年生ながら、付き合いたてが一番楽しいことはなんとなく分かっていた。

「一番楽しい時間に結婚の話を持ち出してくる奴みたいでうざい」

その言葉は、何度読んでも私の胸を深く抉るのだった。
読んでいる時に「これは私のことを話しているのではないかな」と思わせてくれる良質な小説のような言葉の魅力がKENTAの言葉にはあった。ノアのことを批判しているだけなのに第三者の心をも抉る破壊力、皮肉めいているのにどこかポップな比喩表現、思いを言葉に乗せることの重要性とその際の伝え方。KENTAは、私に言葉の面白さを気付かせてくれた。

ヒールのKENTAに魅了されたのは私だけではなかった。当時のノアファンが胸に秘めていたことを代弁したり、誰も気付かなかった問題を提起したりすることで、ファンの心を動かし、刺激的な言葉に見合う確かな試合内容を見せて、ファンからの支持率を着実に上げていくのだった。

2011年7月。小学六年の夏休み。ノア富山大会で初めてKENTAを生で観た。愛のないマッチメークによる6人タッグマッチでもKENTAは輝いていた。新日本プロレスが同じ会場で興行を開いた時よりも客席は寂しかったが、リング上に立つKENTAは、他団体の誰にも負けない強いオーラを放っていた。
試合後、ノアのファンクラブ撮影会が行われていた。ファンクラブ先行でチケットを購入したファンクラブ会員は、その日の大会に出場した好きな選手とツーショットを撮れたのだが、富山大会に来ていたファンクラブ会員全員が好きな選手にKENTAを指名していた。売店のスタッフに今からでもあの撮影会に参加することはできませんかと尋ねたが、無理だとあしらわれた。ファンクラブ会員の列が出来ている会場の隅が光輝いていた。あの輪の中に入りたかった。ファンクラブ会員でないことを悔いた。
その後、KENTAは着実にヘビー級戦線で結果を出していった。秋には、GHCヘビー級王座の最多防衛記録を築き、先日王座から陥落したばかりの杉浦貴との次期挑戦者決定戦を制し、あの時組まれそうになった単なるスペシャルシングルマッチではなく、王者対挑戦者という構図で潮崎豪対KENTAを実現させた。
潮崎戦ではベルトにはあと一歩届かず、そのまま欠場期間へと入ったが、2012年にはシングルリーグ戦で優勝を果たした。さらに2013年には、GHCヘビー級王座を初戴冠した。
一年間ベルトを防衛し続けたが、2014年初頭に陥落し、五月にはノアを去った。KENTAは、プロレスに悩んでいた時に自分の視野を広げてくれたという憧れのWWEへ行くのだった。
ノアを去った時は悲しかったが、ハルク・ホーガンに呼び込まれる形でWWEマットに初登場した時は、KENTAがメジャーリーガーになることへの悦びを覚えた。

2015年春には、若手選手のトーナメント戦で優勝し、所属になってから異例の速さでレッスルマニアに出場した。KENTAと出会った時は小学生だった私も、その春には高専生になっていた。
高専という地元の友達が一人もいない新しい環境に飛び込んだ私にとって、WWEという新たな環境で活躍するKENTAの姿は刺激的に映った。だが、その後KENTAは欠場を繰り返し、気が付けば入団時のような輝きを失くしていた。一方で私の高専生活は、段々と充実していくのだった。
芯がぶれないKENTAが好きだったのに、WWEにいるKENTAは、会社に指示されたことをこなしたいのか、我を通したいのか、よく分からなくて、私は次第にKENTAの試合を観なくなった。

2018年9月。丸藤正道20周年興行にWWE所属ながらKENTAが参戦した。日本のプロレス界で輝き直している丸藤とWWEで燻っているKENTAのシングルマッチは見逃せるはずがなかった。KENTAを熱心に応援していた小中学生の頃とは違って、自分の足で東京のプロレス会場に通えるまで私は大人になっていた。
しかし、時間が経ち過ぎた。東京のプロレス会場どころか、私は海外のプロレス会場にまで足を運ぶようになっていた。丸藤とKENTAのシングルマッチが発表される前に、シカゴ行きの航空券を既に購入していた。丸藤対KENTAが日本で行われている裏で、シカゴにいる私は、CMパンクとツーショットを撮っていた。
CMパンクは、KENTAが開発したGO 2 SLEEPを「GTS」という技名に変えて、自身の得意技とし、WWEの頂点まで上り詰めたスーパースターだ。GO 2 SLEEPの開発者なのにCMパンクの下位互換のように扱われ、WWEで燻っている最中のKENTAが、日本でかつてのライバルと戦うというのに、それをスルーした。丸藤対KENTAの裏で、私は、プロレスをしなくても十分に食べていけるまで上り詰めていたCMパンクとツーショットを撮っていた。いくら最近のKENTAの試合を観ていないと言っても、運命とは皮肉だなと思った。
Twitterを開くと、両国国技館にいるファン達のツイートが沢山流れてきた。そっちに行きたいと思う気持ちもあった。しかしながら、露出度が低くなったことでかえって伝説の人と化していた世界的大スターのCMパンクと写真を撮れることの方が、丸藤と戦う今のKENTAの姿を現地で見届けることよりも、その時の私にとっては嬉しいことだった。
インスタグラムを開くと、丸藤20周年興行を現地で観戦していた若い女性のフォロワーさんが、写真に添える形で試合の感想を載せていた。

「個人的にはちょっと普通だったけど、昔のノアの話を聞いたら、ファンにはたまらない試合だったんだろうなって思った」

しっかりと悔しいという感情を抱いた自分に驚いた。その投稿を載せたファンを恨むという気持ちは一切ない。丸藤正道対KENTAという多くのファンを何度も熱狂させてきた黄金カードが、今や文脈でしか楽しめない試合になったのかと思うと、悔しかったのだった。
文脈で楽しめることもプロレスの魅力であり、名勝負数え唄とまで言われた対戦カードが今はちょっと普通という儚ささえもプロレスの魅力ではあるのだが、KENTAファンとしては悔しい限りだった。初見のKENTAがちょっと普通なKENTAだったら、きっとあの頃応援していなかっただろう。
シカゴにいることを理由に今のKENTAを生で観ずに済んだのも、かつてKENTAに熱狂した私の運命だったのだろうなと思ってしまった。

2019年2月にKENTAは、WWEを自主退団した。WWEを離脱した選手には、90日間の他団体出場禁止期間がWWE側から設けられる場合が多い。禁止期間が解けたら、日本に帰ってきて、ノアにでも上がるのかな、となんとなく思っていた。

6月9日。KENTAが新日本プロレス参戦を表明した。KENTAがG1 CLIMAXに出場するというのは、夢のような話であったが、興味がある程度で、興奮はしなかった。

7月7日。目が覚めた。大好きな阿部史典の「KENTAvs飯伏観た?」の一言を受けて、KENTAへの情熱を取り戻した。しょっぱいと言われている今のKENTAを、私が応援しなくて誰が応援するのかと、使命感に駆られた。
KENTAのG1 CLIMAX公式戦を何度も繰り返し観た。新日本プロレスファンが、KENTAのプロレスを批判する一方で、私は必死にKENTAの魅力をネットで発信し続けた。時にはKENTAが新日本プロレスのリングに上がることの文脈的な楽しみ方も提示した。Twitterやブログで、KENTAのことを発信し続けた。今の私にできることはそれだけだった。



それから頻繁に会場に足を運んだ。生でKENTAを観られなかった小中学生時代の時間を取り戻すかのようにKENTAの大一番を観に行く日々が続いた。
八月には、日本武道館という思い出の地に帰還するKENTAを観に行った。

十一月には、NEVER無差別級王者として石井智宏を迎え撃ったKENTAを観に行った。

2020年1月5日。KENTAは後藤洋央紀に負けた。思っていたより唐突に負けてショックを受けた。王者のKENTAをもっと長く観たかった。

悲しんでいるのも束の間だった。史上初の東京ドーム2連戦のメインイベントで、史上初のIWGPヘビー級王座&IWGPインターコンチネンタル王座の二冠王となった内藤哲也が、ファンにお馴染みの掛け声を叫んでいる最中に、KENTAが内藤を襲った。

倒れた内藤とのうのうと退場するKENTAをバックにリングアナウンサーの「本日の興行はこれにて終了となります」の声が届いた。


「うっわ、ありえないんだけど」
「どういうこと?」
「は?死ねや!」

客席の内藤ファンは荒れていた。プロレス会場でよく見かける「ブー」と叫ぶ者はいなかった。KENTAは東京ドームに絶望を生んだ。絶望に一体感などないことを私は知った。
絶望に満ちた二階席スタンドで私は一人歓喜に満ちていた。KENTAに「塩」だの「つまらない」だの批判が集まっている中で応援し続けたことも、今日後藤に負けたことも、小学生の頃に惚れたことも、全てが報われた気がした。

翌日の大田区体育館大会のメインイベント終了後に「何が言いたいかっていうと……この二本のベルト、俺いただいちゃうよって事!」とKENTAは倒れた内藤に向かって叫んだ。

バスタ新宿発の夜行バスに乗る前に新宿駅東口近くの横浜家系のラーメン屋に入った。店内にはエビ中の最新アルバムから「ジャンプ」が流れていた。
さあ、始まるぞ。五年間の高専生活の最後の思い出作りを。



1月7日。内藤哲也vsKENTAのIWGPヘビー級・IWGPインターコンチネンタルダブル選手権試合が、2月9日大阪城ホール大会で行われることが決定した。KENTAは、新日本プロレス参戦表明時に、戦いたい相手として内藤の名前を挙げていた。「なにやら今はカリスマと呼ばれているらしいじゃないですか?」とKENTAは言っていた。
幼少期に私が思いを乗せたカリスマと2020年の新日本プロレスにおけるカリスマのタイトルマッチだった。廃れた環境で突如として現れたカリスマと、恵まれた環境の中で生まれたカリスマ。私はあの時惚れたカリスマを信じたかった。
気が付けば、大会のチケットと富山-大阪間の高速バスの往復チケットを購入していた。



1月18日。KENTAのグッズやコスチュームのデザインを手掛けるブランド・reversalが大阪城決戦二日前の2月7日に原宿でKENTAのサイン会を開催することが発表された。
今世界で一番のファンから嫌われているヒールレスラーがサイン会を行うというのは、プロレス界では異例中の異例だった。しかも何かが起きそうなタイトルマッチの二日前にそれが開催されるというのも異例だった。
KENTAのサインは持っていた。ノア時代のKENTAの既にサインを入れられたグッズを購入したことがあった。だが、直接サインを貰ったことはなかった。
私はKENTAに会ったことがなかった。大会会場でこそリングに立つKENTAの姿を観たことがあったが、間近でKENTAを観たことがなかった。
行きたいなと思ったが、既に富山-大阪間の高速バスを往復で予約していた。大阪大会の二日前の東京となると、色々と出費が嵩みそうだった。しかも平日だから、高専の卒業研究の口頭試問と重なる懸念があった。その期間、学生は教官に指定された日に口頭試問を受けるしかないのだった。
諦めるべきかとも思ったが、目の前にあるチャンスを掴まない馬鹿が何処にいるんだと、私が私に声を掛けた。原宿に行こうと心に決めた。



数日後、私の卒業研究を担当している教官の部屋を訪ねて、「2月7日だけは口頭試問を入れないでください」と頭を下げた。プロレスラーのサイン会に行くからという他人からしたら阿呆らしいと思われ兼ねない理由は伏せて、悲しい出来事があったかのような表情を浮かべて教官に訴えかけた。
教官は「分かりました」とあっさり言ってくれた。そのまま悲しい表情を浮かべて、教官室を出た。ラグビー部時代に身につけた実際の思いと違う表情を作るという技術がここで生きた。廊下で飛び跳ねたくなるほど喜んだ。
口頭試問は無事クリアしたが、次に資金の問題があった。私は編入試験直前から今日に至るまでアルバイトをしておらず、1月5日の東京ドーム大会を観に行った時点で貯金のほとんどがなくなっていた。
タンスに眠っていたカリスマと化す前の内藤哲也グッズを全てメルカリに売った。綺麗な状態で保管したがる癖がここで生きた。出品すると即購入者が現れるほどのカリスマと化した内藤をこの時ばかりは感謝した。無事に資金が貯まった。KENTAに忠誠を誓う意味でも良い行いだと思った。
富山から大阪へと向かう高速バスの予約をキャンセルして、富山から東京へ向かう夜行バスの予約をした。また、コツコツと貯めていたマイレージを使って、羽田から伊丹へと向かうフライトを予約した。
準備万端の状態で、過去のKENTAの試合を見返した。過去のKENTAの言葉を触れ直した。自分の中のKENTA愛を迸らせた。そんなことをしなくてもKENTAのことは大好きなのに、「お前はKENTAのファンなんだ」と自分に言い聞かせる日々を続けた。



2月7日を迎えた。夜行バスから降りてネットカフェで仮眠を取った私は、その体のまま原宿へと向かった。整理券配布開始時刻の二時間前の午前十時にリバーサル原宿前に着くと、既に既に20人以上のファンが待機していた。限定100人だったから、少しでも早く来ようとするファンが多いようだった。新日本プロレスに参戦してからのKENTAグッズよりも、往年のノア時代のKENTAグッズを身に付けたファンの姿が目立った。こんな時間にここに来るファンは、ずっとKENTAを応援してきたファンばかりのようだった。微笑ましかった。
午前十時四十分。リバーサルのスタッフが、ずっとここで待機されても近隣の店にも、お客様自身にも、迷惑をかけてしまうということで、整理券獲得のための番号札を渡してくれた。十二時前にここに来てくれたら、番号札順に案内してくれるとのことだった。

寒いところで待たされるのも厳しいものがあったが、平日の午前の原宿で時間を潰すのも苦労した。ロッテリアに入って、お腹も空いていないのにハンバーガーを食べた。
少し気持ち悪くなったところで再びリバーサル原宿前に戻った。時刻は正午になった。
狭い店内に一人ずつ入店し、会計を済ませて、整理券を受け取るという運びだった。既に100人以上のファンが駆けつけていたようで、新たにやってきたファンにリバーサルの店員が「すみません。本日の整理券配布は終了いたしました」と声を掛けているのを確認した。
隣のアパレルショップの店員は「こんな行列初めて見たんだけど」と呟いていた。ファンにとっても、そうでない人にとっても、それは異質な光景だった。
Tシャツは三枚までの購入制限があった。定員こそ100人であったが、一人あたり最大で三枚の整理券が貰えるのであった。私は三種類のTシャツを一つずつ購入し、仕事を早く切り上げて現場まで駆けつけたものの整理券を入手できなかったお世話になってるフォロワーさんに整理券を一枚譲った。サイン会が始まるまでの五時間強、フォロワーさんとKENTAはIWGPを獲れるのかについて熱っぽく語り合った。
午後六時十分にリバーサル原宿前に戻った。昼に二人でローストビーフ丼を食べながら、サイン会は列の最初に並ぶべきか、最後に行くべきかという話をしていた。最初に行けば一発目の参加者としてKENTAの大きな印象を与えるだろうし、最後に行けば、スタッフに剥がされることなくゆっくりと話せそうだし、などと話していた。しかし、既に喋り疲れた感じすらある私達は、最初か最後かなんてどうでもよくなっていて、ただ列に並んだ。
午後六時四十四分。サイン会開始時刻より十四分遅れてKENTAが到着した。皆の前をKENTAが横切った瞬間、冬の裏腹の寒さに耐えていたファンが一気に温まった。そこにいる全員が希望に満ちた声を漏らした瞬間、砂漠に雨が降ったら現地の人々はこのように喜ぶのかなと考えた。
遅れても笑顔のKENTAはスターのオーラが半端なかった。真っ白なパーカーも、ベージュのロングコートも、本来アラフォーの男性が身に付けるには痛々しい物であるはずなのに、KENTAが着ていると輝いていた。


午後六時五十五分。いよいよ私の順番が近づいていた。KENTAが店内中央に座っているのを確認した。KENTAの横には、リバーサルスタッフと新日本プロレスの記者達もいる。店内から、微かにKENTAの入場曲が聞こえてくる。
フォロワーさんが私より先にKENTAのもとへ行った。店内に曲が流れているにしろ、距離的にKENTAとフォロワーさんの会話が耳に届いてもおかしくないはずなのに、全く聞こえなかった。私は緊張しているようだった。
私の出番が来た。整理券をリバーサルのスタッフに渡した後、事前に購入したTシャツを広げて、私とスタッフが引っ張った。KENTAがそこに銀のペンでサインを書き始めた。

「学校サボって富山から来ました!」

「いや、学校行かなきゃ!」

サインの手を止めたKENTAは自分で笑いを堪えるようにしてつっこんでくれた。
リバーサルのスタッフと新日本プロレスの記者の笑い声が響いた。私はいたって真面目な顔をして、KENTAは綺麗につっこみ切った後の人間の顔をしていた。長年恋い焦がれた人間に最初に言われた言葉が教育的指導というのも悪くなかった。

「高校?大学?」

「高専ってところに通ってます。世間的には大学生の年になるんですけど」

私は普段この手の質問を大人にされたら、わざわざ高専と名乗らずに、大学生と答える。しかし、「高専」というアカウント名で誰よりもKENTAへの愛をインターネット上で語り続けてきたから、高専と言いたかった。KENTAの公式ハッシュタグ「#KENTAG2S」を昨夏多用していたのも、私とリバーサル公式と整理券を一枚譲ったフォロワーさんくらいだった。

「あーっ!高専だ!」

KENTAはそう言ってくれた。「高等専門学校ね!その学校知ってる!」という意味なのか、「俺のことよく呟いてる高専だ!」という意味なのか、真相は分からなかったが、きっと後者のような気がした。クソリプばかり飛ばされているKENTAの目に熱心に応援しているファンの姿が留まってくれたのなら、これほど嬉しいことはなかった。

「えっ、じゃあ何?今日帰るんだ?」

「いえ、このまま大阪に行きます」

「あっ…ほんとう…ありがとね」

世界中から嫌われていて、私が愛してやまないヒールレスラーが、落ち着いた表情で、声のトーンを落として、感謝を述べてくれた。
ノア時代から見せ続けてくれた「言葉の力」と、WWE時代を経て磨きがかかった「表情」、そして最近の新日本プロレスで多用している、相手を仕留める「急なトーンダウン」。全てを食らった私は間も無く天に召しそうだ。

「最後に握手だけいいですか?」

「あー、是非」

「ありがとうございます!またいつか!」

「うん」

そう言ってKENTAは手にぐいっと力を入れてくれた。あの子の握手会の別れ際まで思い出して、感情がぐちゃぐちゃになった。
BULLET CLUBのToo Sweetポーズで KENTAと指を触れ合うファンも見受けられたが、私は握手を選んだ。それで正解だと思った。憧れの人との固い握手は、一生忘れることはないだろう。

ようやく会えたKENTAにうっとりして言葉が出ない私を見たフォロワーさんが「大丈夫か?スタバでも入ってクールダウンしよう」と笑いながら言ってくれた。

お互いに飲み物を注文して、席に着いた後も、「いや〜…」という言葉しか出てこなかった。二十歳の田舎者が、多分四十くらいのフォロワーさんと二人っきりで華金の原宿を過ごすというのも不思議な時間だった。KENTAとTwitterがくれた大切な時間だった。
フォロワーさんが机にKENTAのサインが入ったTシャツを広げて写真を撮っていた。まだ言葉が出てこない私はフラペチーノの手に取ろうとすると、うっとりが故の不注意でフォロワーさんのTシャツに飲みかけのフラペチーノをこぼしそうになった。その瞬間に、我に返った。
そういえば私はKENTAのサインが入ったTシャツを確認していなかった。サインを入れているKENTAに夢中で、サイン自体はまだ見ていなかった。私も同様にTシャツを机に広げた。

フォロワーさんが「完成してんじゃん」と言った。確かにKENTAのサインの位置がデザインの一部のようになっていた。
その後、二人で「G2S」とサインに添えているのは、CMパンクへの対抗意識なのかななどと話した。



2月9日。運命の日を迎えた。
朝から羽田から伊丹に移動して、伊丹空港からサウナへ向かった。試合時間まで余裕があったので、サウナで体を整えた。体を洗って、髪を洗っている時に、体を洗う前に既に髪を洗ったことを思い出して、自分が如何に気が気でないのかを知った。
開場時間に入場して、興行開始までひたすら二時間待った。本を読んでも、Twitterを触っても、何をやっても落ち着かなかった。試合が始まっても、どの試合も頭に入ってこなかった。

午後七時十五分。内藤哲也vs KENTAの煽りVTRが流れた。「三万人から嫌われたことある?一瞬で」という煽りVTRの初めのKENTAの言葉で客席の至る所から笑い声が聞こえた。ファーストインパクトはKENTAが勝ち取ったようだった。
そしていよいよ KENTAが入場した。BULLET CLUBのメンバーを後ろに引き連れて、ノアを彷彿とさせる緑色のレーザービームと共に入場した。過去も現在も全て背負って今日という日を臨むように見えた。頼むから勝って欲しいと思った。



試合が終わった。内藤のデスティーノにKENTAが沈んだ。顔面を血で染めた内藤が勝った。悔しさを超えたような感覚があった。呆れている訳ではないが呆れているようにも感じる、酷い怠さが押し寄せてきた。
ただ嬉しいことが一つだけあった。誰かの肩を借りる訳でもなければ、千鳥足で帰る訳でもなく、俺は死んでないぞとばかりに自分の足でゆっくりと控え室へと歩を進めるKENTAを見られたことだった。新日本プロレスを構成する一員にはなっても、新日本プロレス色には染まらないKENTAの覚悟が見えた。

試合後のTwitterには、KENTAを賞賛する声があった。

「一ヶ月間よく盛り上げた!」
「ベビーの内藤に対して、KENTAはヒールとして最高の仕事をしたよね」
「ここまでヒールとして嫌われたKENTA凄いよ」

どの言葉も私は使いたくないと思った。負けたKENTAを褒めるのは、KENTAファンとして違う気もした。だけど、この一ヶ月間、もっと言うと、離脱していた時期もあったけど十年間、KENTAを応援してきて良かったと思える夜だった。本気になれた夜だった。忘れられない旅だった。

午後九時過ぎに阪急三番街高速バス乗り場に到着した。今日一日、モンスターエナジーくらいしか口にしていないことに気が付いた私は、夜行バス出発前に近くのCoCo壱番屋でカツカレーを急いで食べた。このカツカレーがしばらく思い出の味になりそうだった。
午後九時五十分にバスが出発した。京都から乗車してくる人もいるため、すぐに消灯されずに、しばらくの間車内は明かりがついたままだった。
眼を閉じても眠れなかった。ワイヤレスイヤホンを耳に繋いで、曲を聴いていた。
午前零時になると、車内が消灯した。緊張感が解けたのか、闇に包まれた瞬間に号泣してしまった。
KENTAが負けたことへの悔し涙なのか。
CMパンクでさえ既に会っているというのに、憧れのKENTAに十年越しでやっと会えたことが今になって涙になったのか。
また日常へ戻ることが寂しいのか。
今聴いている「十七歳の地図」に感動しているのか。
五年間の高専生活が終焉を迎えようとしていることへの涙なのか。
涙の理由を考えてみたが、全て当て嵌まった。



2月10日。午前五時三十五分。富山駅に到着した。その日の授業で提出しなければいけないレポートを早急に仕上げた。
外に出ると、東京へと向かう前に積もっていた雪はほとんど溶けていた。私のKENTAへの熱であの雪を溶かしたのだ。そう思いたい。

さあ、残された高専生活が始まる。

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