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感情電車 #17 「永遠プレッシャー」

2019年8月下旬。先月二十歳を迎えた私は、あるバーに寄ろうか悩んでいた。そのバーは、水道橋の雑居ビルの二階にある。一階のエレベーター前までやってきた私は、そこまで辿り着いたというのに、まだ店に入ろうか悩んでいた。目前にあるエレベーターに乗って二階へ行くか、或いは水道橋を後にして、渋谷のヨシモト∞ホールへ行って、若手芸人のライブを観るか。その二択で悩んでいた。
エレベーターに乗れば、再会したい人が待っていた。二十歳になったからこそ、その人が経営するバーに来ることができた。大人になった今だからこそ、その人に会いたかった。だが、私の中でのその人は素敵な思い出の住人であり、簡単に再会したくない気もしていた。初めて会ったあの日から長い月日が経ったのだから、ふらっと店に寄って簡単な再会を遂げたくなかった。

***
中学時代を矢野通に捧げた。そう言い切れるほど、中学生の頃の私は矢野通に夢中だった。
矢野通を知ったのは、プロレスと出会った2009年、私が小学校四年の夏のことである。当時の矢野通と言えば、私のヒーローである真壁刀義を裏切った悪い奴だった。それはもう最悪な印象しかなかった。しかし、プロレスを見続けていくうちに、自分の好きな選手を裏切った選手のことを心底憎んだりしなくなった。一番ピュアだけど、一番体に毒なプロレスの見方を自然としなくなった。すると途端に矢野通が魅力的に映った。
中学から大学までレスリングの全国大会で優勝し続けてきた一流アスリートなのに、そのレスリングスキルを披露することはなく、リング上では巧みな反則技で対戦相手を翻弄する矢野通に惚れた。黒髪に吊りパン姿でレスリングを主として戦う矢野通よりも、金髪に法被姿で番傘で対戦相手を殴る矢野通の方が魅力的だったと思う。
矢野通は、単にできることを披露しなかった。吊りパンを履いて戦っても面白くないと判断し、面白いこと、かつ自分に似合うことを優先して披露した。自己プロデュースが上手な矢野通の徹底したプロフェッショナルさには痺れた。
自分に似合うことと言っても、単に自分に見合った役割をこなす訳ではなかった。与えられた仕事を淡々とこなしている大人の姿をわざわざプロレスで見る必要はない。矢野通は違った。自分に見合った役割の範囲内で最大限に遊び心を取り入れていたのだ。
対戦相手や新弟子、時には自分にしつこく野次を飛ばしてくる観客の髪を切っていた。髪切りキャラが定着してきた頃には、「バーバー矢野開店だ!」と叫んでいた。その姿を見た時、テレビの前にいた私は唸らされるのであった。ツーブロックにしてあげるのならまだしも、観客の頭のてっぺんを大胆にバリカンで刈っておいて、自らをバーバー矢野と名乗る。髪を切られた観客の唖然とした表情も含め面白かった。これほど面白くて、これほど怖いことがあるだろうか。
虚と実の境目が分からなかった。完全なる真実であれば、人の髪の毛を無断で切るのは立派な犯罪だ。今の時代に同じことをやったら、「あれは仕込みです」と公表したとて炎上するだろう。しかし、時代も相まってそれが許されていたプロレスの世界に私は感銘した。そんな世界を盛り上げるヒールレスラー矢野通に惚れていた。
試合後の棚橋弘至を襲い、棚橋が持つIWGPヘビー級のベルトを強奪して、「今日からこのベルトは俺様の管理下だ」と高らかに宣言したその数日後、棚橋が出演する予定だった新潟のラジオ番組まで矢野通がジャックしたこともあった。その芸の細かさに感服した。地方のラジオ番組をジャックするのは斬新すぎた。地方でコツコツとプロモーション活動を重ねて、新日本プロレスの知名度を上げようとしていた棚橋の出演枠をヒールレスラーが奪うのは新鮮すぎた。しかも新潟でリアルタイムで聴く以外にファンがそのラジオの音源を入手できる方法がなく、その破茶滅茶さには、プロレスの醍醐味が詰まっていた。
小学校高学年で気付いた矢野通の魅力。中学一年になる頃には、もう矢野通にゾッコンだった。2011年のG1 CLIMAXの棚橋戦、2012年のG1の鈴木みのる戦と丸藤正道戦を何度観たことか。デビュー10周年記念DVDが発売された時はどれだけ嬉しかったことやら。過去に開催されたイベントでファンに譲ったコスチュームがヤフオクに出品されているのを確認した時は、所持金のほとんどをぶち込んで無事に落札した。落札した時は興奮を抑えきれなくなって近くの公園を走った。



矢野通を想い続けた田舎の中二がいよいよ矢野通本人と会えることになった。
母の知人のそのまた知人が富山市内で居酒屋の店主をしているそうで、その居酒屋には店主と仲が良い高橋裕二郎が毎年やってくるらしかった。今秋に開催される新日本プロレス富山大会の試合後に、裕二郎が仲間を引き連れて居酒屋にやってくるそうだ。裕二郎が連れてくる仲間というのがオカダ・カズチカと矢野通だった。試合後の選手三人とファン数人でオードブルをつつくという不思議な空間に私と母が参加することになった。

2013年9月10日。新日本プロレス富山大会当日。常に公共交通機関を利用して移動する母が珍しくレンタカーを借りてきた。オカダに会えるということで、ミーハーが働いた母も乗り気だった。私は急いで学校から帰ってきて、雑にシャワーを浴び、母が借りてきた車に乗り込んで、会場へ向かった。
新日本プロレスで活躍している選手は全員出場していたし、新日本プロレス本隊チーム対BULLET CLUBの6人タッグマッチはBULLET CLUBのセコンド介入によってノーコンテストで終わったかと思いきや、両軍のセコンドを加えての10人タッグマッチとして再試合が行われた。ここは田舎だと言うのに、アメリカのプロレスみたいな展開が待っていた。観客は大いに盛り上がった。富山をフィラデルフィアにできるのも新日本プロレスぐらいだった。
興行を楽しんだ私達親子は居酒屋へ向かった。店に着き、予約していた名前を告げると、裕二郎と付き合いのある店主が二階の広々とした個室に案内してくれた。既にファン数人がそこにいた。今日も仕事があったことが服装から判断できるおじさんに、プ女子と括るには年季が入り過ぎてる女性ファンなどがいた。酒を飲める人達ばかりで、未成年は私しかいなかった。
矢野通と対面する、プロレスラーとご飯を食べる、といった体験以前に、居酒屋に来ること自体が初めてだった。おまけに周りは大人しかいない。色んなことに緊張感を覚えながら、正座して選手が来るのを待っていた。

「まもなく選手の皆様来られまーす」

店主が二階に上がってきてそう言った。このまま選手が来ない状態が長く続くと、破裂してしまいそうなくらい心臓が大きく動いている。これから天下の新日本プロレスのレスラーが来るというのに、周りの大人達は談笑していた。私には心臓の音しか聞こえない。
店主がもうすぐ選手が来ると言ってから五分が過ぎた頃、「お疲れ様です」と裕二郎が二階に上がってきた。やはり最初に入ってくるのは裕二郎なのか、と思おうとしたら、裕二郎に次いで、オカダ、矢野と順番にやってきた。来たら来たで心臓が破裂しそうになった。本物の矢野通が目の前にいた。
選手三人は、どこに座るか話し始めた。「じゃあ僕は」と言って、裕二郎は上座の一番奥に、オカダは私の目の前の上座の真ん中に、矢野通はなんと私の隣を選んだ。私は下座の真ん中あたりに座っていて、右には母、左には矢野通といった具合だった。
選手とファンが早速飲み物を注文し始めた。動揺してメニューに目を通すこともできなくなっている私は、きっとメニューの中にあるだろうから「コーラで」と取り敢えず言ってみた。隣の矢野通は黒ホッピーを注文していた。母や他の選手が何を注文したのかは聞こえなかった。目の前にいるIWGP王者のことすら見てなかった。私には左にいる矢野通しか見えなかった。目線は上手く左にやれないのに、矢野通にしか神経が集中していなかった。
皆で乾杯をした。まだ一言も矢野通と会話できていないが、隣にいるのに乾杯をしないのは良くないので、「どうも」と言って、憧れの矢野通とグラスをカチンと合わせた。
他にも席があったのに、何故矢野通が私の隣を選んだのか考えまくった。仕切り役の裕二郎が上座の一番奥に行くのは何となく理解できる。オカダが宴の注目の的となる上座の中央に座っているのも分かる。矢野通は、何故下座の私の隣なのか。もしかして、この場には明らかに違和感のある子供に興味を持ってくれているのか。だとしたら嬉しい限りだが、子供の私から一言声を掛けることができない。話したい。話したいのに話せない。
すると、母が先陣を切って、矢野通に声を掛けた。

「この子、矢野さんのことが大好きでいつも矢野さんの試合ばかり見てるんです。こないだは貯めてきたお年玉全部使って、ヤフオクで矢野さんのコスチュームを落札して」

「えー、本当ですか!まずヤフオクに僕のコスチュームが売られていたんですか」

母に笑顔を見せた矢野通が、私の目を見て言ってきた。

「今日持ってる?」

「は、はい」

リュックの中に入れていた、ジップロックで真空状態にしてあるコスチュームを、私は矢野通に手渡した。矢野通が黒ホッピーと揚げ物がいくつか並べられたテーブルの前で、かつて自身が履いていたコスチュームを大きく広げた。両の手で掴んだコスチュームを顔の近くまで持っていき、大袈裟に鼻息を吸った。
それぞれで盛り上がっていたファン達が一斉に黙ってコスチュームの匂いを嗅ぐ矢野通に視線を向けた。すると周囲の視線を感じた矢野通は、子供と話す時の優しいタメ口から砕けた敬語に口調を切り替えて語ってくれた。

「ああ、これ本物ですね。僕が実際に履いてたやつです。何年か前のイベントでファンに渡したやつですね。ファンに渡す前にしっかり洗っておいたんで、ちゃんと柔軟剤の香りがします。よかった、あはははは」

ファン達が一斉に笑った。皆の視線が消えたところで、矢野通が微笑みながら私に質問した。

「ねえ、履いた?」

「履ける訳ないじゃないですか」

平然と嘘をついた。本当は家に届いて、すぐに履いた。ブカブカになるかと思いきや、意外とタイトな履き心地だった。私もプロレスラーのコスチュームを履いたら若干のきつさを感じられるほど体が大きくなったのかと喜びに浸ったのも束の間、ストレッチ素材だからピチッとした履き心地になって当然であることに気付いたのだった。

「履いた?」

全く同じ質問を矢野通がしてきた。きっとここで私が「正直……履きました」と言ったら、笑って受け入れてくれるような気がする。目の前にいる大人は、それほど面白くて寛容な人間であることがなんとなく分かった。というか、そういう振りのような気がした。これは私の「履きました」を待っているのではないか。

「履いてないです、履いてないです」

私に振ってくれていることを察知しても、崇拝するプロレスラーの前で本人が使用していたパンツを履いたなんて冗談でも言えなかった。本当は履いたのに。宴に向けて気持ちを昂らせるために昨日も履いたのに。

「そっかー。履いてないか」

感心している風を装った落ち着いた声色だけど、「そこは『履きました』でいいんだよ」と内心で思っていそうな表情で相槌を打たれた。それもこの大人の魅力だった。
試合が終われば次の街へ移動し、移動先の街で試合が終われば、また次の街へと移動するように、プロレスラー達には24時間仕事が付き纏っている訳だが、今回の富山大会は少しスケジュールに余裕があった。大会前々日に富山に入り、大会翌日の夕方に富山を発ち、次の巡業先である長野へと移動するという日程だった。いつもの宴がどのような様子なのか知らないが、時間に余裕のある選手達はとてもリラックスしている様子だった。

「普段は選手の皆さんも結構ハードなスケジュールですよね」

母が矢野通に話しかけた。

「まあでも慣れたらそんなにですよ。バスも快適ですし、移動もそんな苦ではないですね。まあこんな感じで、どうしても腰がちょっと痛かったりとかはするんですけどね」

そう言って、店の壁と自身の腰との間に挟んでいるクッション代わりの座布団を指した。

「試合してる時間以外もプロレスラーとして動いてるっていうのはまあありますよね。移動もそうですし、ジムに行ったりとかもそうですし。そういう意味ではハードなんですかね」

矢野通もジムでトレーニングしているという話が新鮮だった。天下の新日本プロレスのトップランナーだから当然と言えば当然だった。しかし、そんな姿を一切感じさせないヒールを貫いていた大好きなプロレスラーの口から「ジム」という言葉が出た時は、聞いてはいけない話を聞いてしまった背徳感と妙な興奮がやってきた。

「そうなんですねえ。興行時間以外もずっとプロレスラーであるんですもんね。ちなみに矢野さんはご家族は…」

母が深入りした質問をした。確かに聞いてみたかったことではあるが、ヒールレスラーにそれはタブーだ。

「結婚してます。去年生まれた子供もいます。本当は僕も『矢野通結婚しました〜!イェーイ!』みたいなこと言いたいタイプなんですけど、リング上では悪いことやってるんで、まあ言わなくてもいいかなって感じで」

私が矢野通を好きになった理由がその言葉に詰まっている気がした。少し恥ずかしくなったのか、矢野通はオカダに話を振った。

「オカダは結婚とか考えないの?」

オカダは結婚禁止令が新日本プロレスから発令しているらしい。先日そんな記事を有名なプロレスファンブログで読んだ。これはすごく気になる。

「今は考えないですね」

オカダがクールに返答したところに、母が割り込んできた。

「オカダさんはリア充ですか?」

「りあじゅう?何ですか、それ」

「リアルに充実って言って、仕事も私生活も上手くいっているみたいなことを言うんです。彼女さんはいらっしゃるんですか?」

IWGP王者に何を聞いているんだ。わきまえろ、戯け者。流石の母に対してもそう思ってしまった。

「いないです」

またもオカダがクールに話を終わらせようとしたところで、矢野さんが話に戻ってきた。

「でもオカダにもなれば有名人と結婚できるよね。女子アナとかアイドルとか。こもりんは?」

周りのファン達は笑った。

「いや、でも近くで見ると本当かわいいんですよ」

フォローなのに、「いや、でも」はエッジが効いていた。私の大好きなヒールレスラーは言葉も強いことを知った。

すっかり黙り込んだ私を見た矢野さんが私に色んな質問をしてくれた。
「好きなアイドル誰?ぱるる?やっぱぱるる?」
「今見てるドラマある?」
「リーガルハイは見てる?」
「ケンゴの将来の夢は何なの?」
投げられた質問の全て正直に答えるつもりが、将来の夢を聞かれた時だけ、つきたくない嘘をついてしまった。

「医者です」

言ってしまった。母が喜ぶことを言わなければいけないという使命感に駆られて、微塵も思っていないことを言ってしまった。
私の本当の夢は、プロレスを広めることだった。プロレスを広めて、自分のようなプロレスと出会ってから人生がより豊かになったという人間を世の中に一人でも増やしたいと思っていた。
人生は繰り返せないから、登場人物の生涯を覗いて学びを得ようとする映画という娯楽が誕生したのなら、プロレスはファンがレスラーと共に成長するために誕生した娯楽だ。キャッチーな試合や選手のキャッチーな部分という表面上の面白さばかりがメディアで取り扱われているが、プロレスの魅力の真髄はそんな浅はかなものではない。私が面白さを広めたい。そう思っていた。
プロレスの魅力を伝えるという目的を達成することが第一で、そのためにはどんな手段を取ってもいいと思っていた。でも、数ある手段の中で、中学二年生なりに最も可能性を感じていたのが、業界一位の新日本プロレスの社員になることだった。
2013年の新日本プロレスは、新卒採用も中途採用も受け付けていなかったが、何がなんでも新日本に辿り着いてやろうと思っていたし、新日本の一員として働く自分の姿をなんとなくイメージできていた。
「プロレスブーム再燃」といくらメディアで謳われようが、プロレスが楽しいものの域を超えられなかったら、そんなブームは糞食らえと思っていた。「この選手が格好良い!」や「この飛び技が凄い!」の奥へファンを連れて行くのがプロレスだ。
私はプロレスと出会って人生が豊かになった。私にとってのプロレスは、もはや趣味の域を超えて、人生の一部だ。人の人生に大きな影響を与えてしまうほど、プロレスは可能性を秘めているというのに、どうも表面上の面白さだけが取り上げられている現状に苛立っていた。
プロレス界に改革、いや、プロレスファン界隈に改革を起こしたいと心の中で闘志を燃やしていた。しかし、そんな確固たる思いさえも新日本プロレスで戦う大好きなプロレスラーと実母を前にすると、語れない弱い自分がいた。

「良い夢持ってんじゃん!いつかケンゴが大人になってさ、俺が怪我とか病気とかしたら助けてよ!」

「はい」

「ずっと応援して、世界一の矢野通ファンになってくれよ!」

「はい」

そう言って矢野さんは肩を組んでくれた。私に期待しないでくれ。そんな理想のファンになんてなれない。
医者という夢ありきで世界一の矢野通ファンと言われたのなら罪悪感しかない。でも、大好きな矢野さんからの「世界一の矢野通ファンになってくれ」という、ど直球なプロポーズには、素直にうっとりしてしまった。

「矢野さんごめんなさいね。うちの子、人とうまく喋れない子で」

うっとりしていた息子の心をさらっと母は抉った。そんな私をフォローしてくれたのも矢野さんだった。

「お母さん、僕も今でこそ色んな人と話せてますけど、小さい頃は言いたいことを何も言えない子だったんです。でも大人になるに連れて、何かをきっかけに自然と喋れるようになるもんですよ。ケンゴくんもそうなる気が僕はしてます」

いつかそんな日が来るのかな、という言葉も私は心の中で呑み込んだ。

言いたいことを上手く言えなかった幼少期の話から派生して、学生時代から今に至るまでの自身の話を矢野さんがしてくれた。
スパーリング中に初めてお父さんを倒した高校生の頃、それまでやらされてる感覚しかなかったレスリングが自分の意思でやるものに変わったこと。
オリンピック出場という長年の夢が叶わなかった時のこと。
先日開催が決まった2020年の東京オリンピックに出場したいと思ってること。
今何か参加できそうな種目がないか探してること。
振り返ったら際限がないほど、小さな頃から現在までを丁寧に語ってくれた。大好きな人の知らない時代の話が聞けたことが嬉しかった。私の想像以上に敏腕プロデューサーは面白いことに飢えていたことも嬉しかった。
人間・矢野通の物語を覗き見させてもらったような感覚だった。矢野さんが言葉を発する度にどんどん矢野通への愛が増していった。その一方で、贅沢過ぎるひとときを当たり前のように受け入れてる自分を俯瞰で見つめていた。なんて夢のような時間を過ごしているのだろうかと思って、矢野さんの話に集中できなくなったりもした。

宴もそろそろ終わりが近づいていて、ファンが選手からサインを貰ったり、一緒に写真を撮って貰ったりする時間に突入した。矢野さんは鞄の中から先月発売された自身がプロデュースしたDVD「YTR!VTR!トールトゥギャザー通(2)」を取り出した。

「はい、皆さん買ってくださいね〜。買ってくれた人にはサインも写真も応じますよ〜。買わなかった人には応じませんよ〜」

リング上でいつも宣伝しているDVDを、プライベートでも販促している矢野さんは、私の幻想を崩さなかった。オカダや裕二郎は何にでもサインを入れてるし、誰とでも写真を撮っているのに、矢野通はDVD購入者にしか応じないと言い出した。矢野通だからこそ成せる技だった。この人はいつまでプロレスをやっているのか。これこそが理想のプロレスラーの姿なのではないか。

サイン・撮影タイムが終わり、いよいよお開きかといった時に、矢野通がテーブルの下で私の手のひらに一枚の紙を置いた。

「なんか悩み事とかあったら相談してよ」

名刺だった。生まれて初めて名刺を貰った。いくら今日という日があったとしても、今の私が尊く思うプロレスラーに気軽に悩み事を話せる気は到底しないが、大好きな人にとって、連絡先を渡せるほど心の許せる人間になれたことがすごく嬉しかった。

「えっ、これ…」

「ほら、みんなに見られちゃうから財布にでも仕舞って」

「ありがとうございます」

「自分が面白いと思ったことは何でもやってみるといいよ!それが大事かな!勉強も頑張って!」

「明日英語のテストなので頑張ります」

「え、何やってんの!こんなことやってたら駄目でしょ!あはははは!…まあ、明日のテストは仮に点数悪くても大丈夫だよ。もっと長いこの先、頑張ってね!」

「はい!」

ファンと選手の皆で店の外に出た。

「僕達はこれからまだ店に残りますが、皆さんとはこれでお別れということで。じゃあ、僕ら三人がここに並びますので、皆さん是非お手持ちのカメラで写真を撮ってください」

裕二郎がそう言って、三選手の撮影タイムに突入した。

「撮れました?大丈夫そうですね。じゃあ今日はありがとうございました」

「ありがとうございました〜!」とファンが声を揃えて言った。

名残惜しさがあった。最後に自分から矢野さんに話しかけたい。改めてお礼を言いに行こうと思った瞬間、矢野さんが言った。

「ケンゴ、ヘイっ!」

矢野さんは右手を挙げた。私はジャンプして、高くにある分厚い手に私の手を重ねた。

「じゃあまたね!」

「はい!またいつか!」

母とレンタカーを停めているコインパーキングまで歩いていた時、夏の終わりの冷たい風が私の頬を撫でた。夢の世界にいた私を溶かすような感覚があった。
***

次の日の英語のテストは100点だった。友達と過ごした、分かりやすい青春みたいなものが中学時代になかった私にとって、あの頃が中学時代のハイライトだった。寂しい話だが、自慢でもある。
私なりの青春からもうすぐ六年の年月が経つ。「昨日はありがとうございました」と綴ったメールと、スペシャルシングルマッチの前哨戦のタッグマッチで鈴木みのるにKOされて担架で運ばれた光景をサムライTVの生中継で観ていた時、母に指示されるがままに「大丈夫でしたか?」と送ったメールと、あの日から半年後に開催された「新日本プロレス高岡大会を見に行きました」と書いたメール。三度のやりとりしかしなかった。
私の「大丈夫でしたか?」に対して、「大丈夫!神戸ではしっかり勝つから!」という文面が届いた二週間後、本当に新日本プロレス神戸大会の鈴木みのる戦で勝った時は頗る喜んだ。鈴木みのるにはずっと勝ち越していたから、今回こそ負けてしまうのではないかと心配していた。噛み締めるように矢野通の勝利を一人喜んでいた。ベーブ・ルースにホームランを打つことを約束された病気の少年の気持ちが分かったような気がした。

矢野さんと出会ったちょうど一年後の新日本プロレス富山大会の興行終了後も、あの居酒屋を訪れた。その年、店主と仲の良い裕二郎がオカダを裏切り、BULLET CLUBに電撃加入したため、裕二郎が居酒屋に連れてきたのは、オカダでも、矢野さんでもなく、BULLET CLUBメンバーの外国人選手たちだった。
居酒屋では会えなかったけど、その日の富山大会で、入場ゲートから出てきた瞬間に私と視線が合った矢野さんが「おー!久しぶり!」と言わんばかりの驚いた表情で指をこちらに向けてくれた。真後ろにあるスピーカーから爆音で入場曲が流れていたので、私は笑顔という返事を矢野さんにした。あれが私と矢野さんの最後の会話だ。

医者になれるほど勉強は頑張れなかったけど、面白いと思うことは何でもやってきた。面白いと思うことに忠実に従ってきた結果、二十歳になった今の私なら母がいなくともあなたとゆっくり話せる自信がある。

高専一年の四月、商学概論の先生に将来の夢を紙に書かされたことがあった。私は何の迷いもなく、「新日本プロレスの社員になってプロレスの魅力を世に広める」と書いた。

LINEで働いている長女の姉が新日本プロレスのスタンプを企画した時に、「弟が新日本プロレスさんの社員になりたいとずっと言っていて」と新日本プロレスの社員さんに伝えてくれたことがあった。社員さんは「弟もキムさんですよね。名前覚えておきます。待ってます」と答えてくれたらしい。

シカゴのALL INのサイン会の会場では、棚橋のポッドキャストでもお馴染みの新日本社員さんと出会して、「僕、新日本プロレスさんの社員になることが昔からの夢なんです」と話したら、「いつでも待ってるから連絡して」と名刺を渡された。

相変わらず新日本プロレスは好きだけど、北村克哉が退団した頃に、もう新日本プロレスの社員になりたくないと思った。しかし、矢野さんと出会った頃に、「プロレスを発信することが目的で、そのためなら手段は何でもいい」と思っていたように、今もプロレスの魅力を発信したいという気持ちはある。ただニューヨークで深い傷を負ってしまったこともあって、何をしたいのか自分でもよく分からなくなっている。そんなことを思うと、あの青春から随分と時間が経ったものだなと思う。
私のことを覚えていなかったらどうしようかという恐怖がある。流石に覚えてくれているとは思うが、久々に会えたことに喜ぶ私のテンションと向こうのテンションが全く一致しない可能性もある。怖い。でも行く。ここまで来たからには、矢野さんに会いに行く。
勇気を振り絞ってエレベーターのボタンを押した。

一つ上のフロアに行くだけなのに、エレベーターに乗っている時間が長く感じた。
二階に着いて、扉が開くと、そこはもうエーブリエタースだった。エレベーターから足を一歩踏み出すと、「いらっしゃいませ〜」という声がした。
男の声がだった。心臓の音が急激に上がった。声がした方に目をやると、アルバイトとして働く元KAIENTAI-DOJOのユーマ24がいた。
矢野さんはまだいないようだった。

カウンターに座り、メガジョッキのレモンサワーと生ハムを注文した。注文を聞きに来たユーマ24に、今日矢野さんが来るか来ないかを聞いてしまうと、全てが終わってしまう気がした。のんびり待つことにした。
メガジョッキのレモンサワーをチビチビと飲みながら、店のど真ん中にある大きなビジョンに映し出された今年のG1公式戦を観ていた。

十分経っても矢野さんは来ない。

三十分経っても来ない。

一時間経っても来ない。

結局矢野さんは来なかった。
「引くわー」と思った。ここ二年ほど、北村やKENTAに夢中で矢野さんのことを熱心に応援していなかったのに、一丁前に感動の再会を望んでいた自分は気持ち悪いなと思った。
でも、いつかまた会いたいことには変わりなかった。あの日の帰りに交わした「またね」。「また」は今日じゃなかったか。どうやら今日会うべきなのは矢野通ではなく空気階段なのか。
お通しとして出てきた山盛りのポップコーンの残りを食べ切り、店を後にした。空気階段を見に渋谷ヨシモト∞ホールへ向かった。

乗り換えの新宿駅へと向かう総武線に揺られながら、想いを巡らせる。

「東京オリンピックが来年に迫っていると思うと、あの日から随分と時間が経ったのだと痛感します。

東京オリンピック出場はもう難しいでしょうが、矢野さんが東京マラソンを完走した直後にノア後楽園大会にXとして登場した時は感動しました。自分が面白いと思ったことに忠実な、こんな大人になりたいなと思いました。

あれだけドラマの話をしていた矢野さんが「民王」や「99.9-刑事専門弁護士-」といった人気ドラマに出演していた時は、一人感動してました。

今でもテレビでぱるるを見ると、矢野さんに「好きなアイドル誰?ぱるる?」と言われたあの日のことを思い出します。

「またね」を交わしてから長い年月が経った今になって言い切れます。矢野通は私の青春の1ページです。

またいつかお会いできたらと思ってます。」


新宿で総武線から山手線に乗り換えるタイミングでノスタルジーから離れた。さあ、空気階段はどんなネタをやってくれるだろうか。

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