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感情電車 #9 「高岡蜃気楼」

2016年5月上旬、高専二年の春。私がラグビー部を辞めたばかりの頃。下級生が続々と退部したラグビー部に残った一個上の先輩の徳井さんから頻繁にLINEが来るようになった。
「キムくん本当にやめるんかー?」
この文面が三日に一回くらいのペースで送られてきた。もう私の退部が顧問に認められたというのに、執拗に同じ文面を送り続けてきた。
私が「もう戻りませんよ」と返信しても、徳井さんは既読無視をしてきた。その三日後にまた同じ文面が送られてきて、私は「もう戻りませんよ」と返信して、徳井さんは既読無視することが続いた。「戻ります!」と私が言ったら、この無限ループは終わるのだろうが、私はラグビー部に戻る気など更々なかった。
徳井さんは、その時その時でひたすら何かを繰り返す習性があった。「それな」が若者の間で流行りの言葉だと知った途端に私の言葉に対して「それな」としか返事しなくなったり、アプリのアイコンがエロ画像になってしまうほど危険なエロサイトをスマホで見続けたりと、何かに拘り始めたら止まらない人間だった。
そんな徳井さんが新たに身につけた反復が、三日に一回の「キムくん本当にやめるんかー?」だった。私は返信が面倒臭くて途中から既読無視するようになった。

五月下旬のある日。帰りのスクールバスを待っていたら、これからラグビー部の練習へと向かう徳井さんと遭遇した。徳井さんは「ちょ、ちょ、ちょキムくん」と言って、やってきたバスに乗り込もうとする私の両肩を後ろから優しく掴んでバスから引き離した。

「戻りたいと思わんがか?」

「思わないですよ。ってか僕を引き止めたいんじゃなくて自分が辞めたいだけですよね?」

「それな。いやでもキムくんおらんときついって」

「推測ですけど、その言葉の『キムくん』の部分、他の辞めてった人達の名前に置き換えて、他の人にも言ってますよね?」

「それな。いやでもマジでふざけれる相手おらんと今のラグビー部やってけんぞ。助けてくれ」

「嫌なら自分が辞めればいいだけじゃないですか」

「ははは。それな」

その三日後に来た徳井さんからのLINEには、「やめたわ」の一言が書かれていた。



七月下旬の昼休み。二ヶ月近くぶりに徳井さんからLINEが届いた。「プロレス同好会作らんか」との文面だった。
ラグビー部を辞める前、下級生達のLINEグループで私は「皆で辞めたらプロレス同好会作って、グラウンドの真ん中にマット引いてプロレスごっこやりましょう。同じグラウンドで練習しているサッカー部は、いつも俺らの場所に入ってくるなってうるさいから、ラグビー部とサッカー部のいるグラウンドのちょうど真ん中にマットを引けばラグビー部のためにもなりますし」とふざけて言っていたのだった。
グラウンドの話は冗談として、プロレス同好会に所属するというのは私の長年の夢だった。小学生の頃にプロレス同好会、所謂「学生プロレス」というジャンルがこの世に存在することを知った時から、私はプロレス同好会に興味を抱いていた。一番モテたい大学時代にプロレスに時間を捧げるって狂ってるなと思った。
大学進学のために上京した姉がどんどん垢抜けていく姿を小学生の頃から見てきた。盆と正月に富山に帰ってくる度に酒が強くなっている姉を見て、遊んでるんだなと思っていた。母経由で新しい彼氏が出来たことを知った時は、そもそも前の彼氏がいたのかよと思った。
大学生は遊びたい生き物であると小学生ながら理解していた。女性ですらそうなら、男なんてもっとだろう、と小学生の頃の私は漠然と思っていた。そんな遊びたいはずの生き物が、遊びの照準をプロレスに定めているということに感動を覚えた。私も大学生になったら、この世界に飛び込んでみたいと思った。
その思いはずっと変わらなくて、高専に入学した後も、高専を卒業したら大学に編入して、編入先の大学でプロレス同好会に入りたいと思っていた。しかし、私が所属する学科から三年次編入できる大学でプロレス同好会がある学校はなかった。それならば、自分でプロレス同好会を作るしかないなと思っていた私は、冗談交じりでラグビー部の下級生のLINEグループでプロレス同好会を作らないかと提案していたのだった。
皆がラグビー部を辞めた後、そのLINEグループは機能しなくなった。グループから退会する者もいた。私は自分がプロレス同好会を作ろうなんて言っていたことも忘れていた。徳井さんのLINEを見て、プロレス同好会を作りたかったことを思い出した。
私の二つ上の学年には、一年生の頃に写真部を作った先輩がいた。その先輩が作った写真部は、全く機能していなかった。学校から部費だけ貰って、数ヶ月に一度、部員達でお菓子パーティーをするだけの部活だった。その先輩と家が近かったことだけを理由にラグビー部と兼部していた私は、写真部の実態を知っていた。その光景を見ていたら、こんな部活はさっさと潰して、私がプロレス同好会を作るべきだろうと、謎の使命感に駆られるのだった。
写真部にも久しく行っていなかったから、プロレス同好会を作りたかったことをすっかり忘れていた。全ては徳井さんが思い出させてくれた。
私は徳井さんのLINEを既読無視せずに、「絶対に作りましょう。今日の放課後会えます?」と返信した。

放課後に徳井さんと、「トランジスタ特集」と表紙に書かれた謎の雑誌や新聞のバックナンバーが眠る閲覧室に集合した。会話禁止と書かれた札が壁に掛かっているものの、誰も来ないから喋り放題という、写真部くらい機能していない閲覧室で、ラグビー部を辞めてから今日までお互いどうしてたか軽く話した後、どうやったらプロレス同好会を作れるのか考え合った。

「そんなことより今日はプロレス同好会ですよ。中村さんは一年の秋に写真部作ったって言ってたんで、僕らも今から動けば来年の春には作れるんじゃないですかね。商船学科の一年で作れたなら国際ビジネス学科の僕らに作れない訳ないですから。部費を理由に学生課に断られるようなことあれば写真部潰しますよ」

「え、むしろ写真部作るのにそんなかかったんか。まあそうやな。中村さん好きやけど、写真部は潰してみたいな。一般的に見れば写真部の方が存在すべきやろうけど、あんな写真部より俺らが今から作ろうとしてるプロレス同好会の方がよっぽど意義あるもんな」

「そうですよ。しかし創部には何が必要なんですかね」

「部員の数はある程度必要やろうけど、他はなんやろうな。部活の内容は説明しなくちゃいけないやろうけど」

「あー、そりゃそうですよね。とりあえず学生課行きますか」

二人で学生課に言って、説明を受けた。学生課のおじちゃんは、10人以上の部員と部活動の内容に関する説明が書かれた書類が必要だと言った。忙しそうにしてるおじちゃんの簡単な説明を聞き終えた二人で学生課から出た。

「やっぱ部員と説明でしたね」

「いけそうやな」

「そうですね。部員に関しては名前だけ借りれたらいい訳ですし」

「じゃあ部員任せたわ」

「え、そうは言っても僕友達いないですよ」

「キムくん、俺もおらんぞ」

「じゃあやります」

「俺は説明文作るわ」

そのまま閲覧室に戻り、二人で色んな妄想を語り合った。

「再来年の北斗祭でプロレスやりたいな」

「あーやりたいですわ。如何にも学生生活楽しんでる軽音部とダンス部のためだけにある学園祭のステージじゃないんだぞってところ見せたいですね。あと僕はプロレス同好会に入りたくて富山高専に入学したという子を生み出したいです」

「じゃあまず中学生の目にも入るようにTwitterアカウントを開設させんないかんな」

徳井さんの言葉に従って、私はユーザー名が「@Kosen_Wrestling」で、名前は「富山高専プロレス同好会」のアカウントを開設した。パスワードを徳井さんと共有した。
その日はそれで解散した。

そのまま私達は前期末試験を受け、何の連絡も取らないまま夏休みに突入するのだった。



十一月中旬。私が英語スピーチコンテスト中部大会で敗退したことを聞き付けた徳井さんが私にLINEを送ってきた。

「プロレス同好会はじめますか」

四ヶ月間必死で取り組んできたスピーチコンテストの本番でネタを飛ばしてしまったことがショックで、何もやる気が起きない頃だった。
この数ヶ月間、徳井さんがプロレス同好会について触れてこなかったのは、「今はスピーチコンテストに集中しろ」という優しさだったのかもしれないし、私が敗退したタイミングと気分屋の徳井さんが乗り気になったタイミングが偶然重なっただけなのかもしれなかった。
私から誘う形で先月徳井さんと一緒にドラゴンゲートプロレスリングの富山大会を観に行ったのだが、その帰りに一切プロレス同好会の話題が上がらなかったことを思い出すと、偶然タイミングが重なっただけで、徳井さんはただの気分屋だなと思った。
徳井さんが今乗り気ならばこちらも動こうと思った私は、学生課のおじちゃんが言っていたことを思い出して、クラスメイトの男子に「同好会作りたいんだけど創部するためには部員の数必要だから名前だけ貸して欲しい」と、自作の用紙に署名を募った。その用紙を持って、放課後徳井さんと閲覧室で合流した。

「僕ら含めてもあと一人部員足りないんですよね」

「健でいいだろ。あいつの名前書いとこうぜ」

ラグビー部時代に共に汗を流した私の一学年上の先輩の健さんだ。健さんは、ラグビー部の中でもイジられ役だった。本当はあってはならない行為ということを分かっていながら、まあ健さんならいいかと思った。汚い字でそれっぽく健さんの名前を用紙に記入している徳井さんを見過ごした。

「あとは部活の概要をWordで書くだけですね」

「あ、俺もう書いてきたから、このまま学生課行こう」

其の気になった時の徳井さんは、行動が早かった。徳井さんが書いた概要に目を通すと、プロレスファンではないがプロレスには興味がある徳井さんなりに頑張って書いた部活動の内容や創部の意義などが並んでいた。
頑張って書いたことは窺えたが、これは学生課が認めてくれるのだろうかと疑問に思うレベルの内容だった。だが、いくら何でも言える仲とはいえ、先輩に全てを任せておきながら、後で口を挟むのは違う気がしたので、黙って一緒に学生課へ向かった。
「部員を集めて、概要を書いてきたので、確認のほう宜しくお願い致します」と徳井さんが学生課のおじちゃんに二枚の紙を渡した。
ざっと目を通したおじちゃんは、「いいよ」と言った。こんなにもあっさりと創部が認められるのかと思ったのも束の間、おじちゃんは続けて「あとは顧問だね」と言った。

「え、すみません。顧問ってなんのことですか?」

「言ってなかったっけ?自分達で顧問見つけるんだよ。顧問がいないと始められないから」

一番重要なものを七月に言い忘れられていたのだった。てっきり学生課側が暇そうな教官に声を掛けて、顧問を用意してくれるのかと思っていた。絶望に満ちた二人で閲覧室に戻った。

「顧問とか無理じゃね?ライセンスどころか経験もないのにプロレスやりたいですって言う学生に付いてくる教官なんかおるか?」

「いないでしょうね…。声掛けれるので丸山さんあたりですけど」

「そうか、キムくんスピーチコンテストの担当してもらってたもんな。あー、押せばいけるか?いやでもちょっとむずそうやな」

「マジ一番大切なことちゃんと言ってくれや学生課」

「もうTwitterだけでも本格的にやらん?富山高専プロレス同好会って名乗ったアカウントで有名になったらそれはもう学校側も認めざるを得んくなるかもしれんぞ」

「学校を上回る権威を得られるとは思えないですけど、実際に在る体でやってたら面白いですね」

「なんでも始めてみんと。キムくん、富山高専プロレス同好会のアカウントで何も発信しとらんやろ?」

「してないですけど、自分はやってるみたいな言い方してきますね」

「俺やっとるぞ。アカウント見てみ」

そうやって私が四ヶ月ぶりにアカウントにログインすると、イケハヤに反論ツイートを飛ばしている富山高専プロレス同好会がいた。

「ちょ何やってんすか。隠れてこれやってたのちょっとシュールで面白いですけど、よくないですって」

そう言って私はその場で全ツイートを削除した。

「まずプロフィールちゃんとせんなんな。勝手にもう創部したことにしておくか」

「ああ、少し面白いですね」

「あと運営してる人の名前イニシャルで書いておくか」

「その必要あります?」

「だって高専生が見た時に誰がやってるか分かった方が良くね?」

「あー、まあそうかもしれないですね」

「俺とキムくんと健の名前書いとくか」

「じゃあそれで」

「おし、次は富山高専の学生片っ端からフォローしてくぞ」

「えー、徳井さんまた変なツイートするだけでしょ。自分のイニシャルで変なツイートして注目浴びたり、変なツイートしておきながらそのツイートに人のイニシャル添えたりして楽しみたいだけでしょ」

「まあそれもあるけど、高専生のフォローは必須やろ」

「そうですね。いやでも恥ずいですね」

「生徒会が運営してるアカウントのフォロワー全部フォローするわ」

「え、ちょっと待ってくださいよ」

徳井さんは次から次へと富山高専の学生だと思われるアカウントをフォローしていった。その時、閲覧室に新聞のバックナンバーを探す学長が入ってきたので、私達は隣のコンピュータ室に移動した。
コンピュータ室には卒業論文を書いている五年生や課題をやっている下級生の姿があった。

「何か変なアカウントからフォロリク来てんだけど」

「え、何これ〜。拒否しな」

五年生の女子学生達の声を聞いた私達は、お互いの顔を見合って笑った。

「おもろいな」

「確かに面白いですわ」

次々と高専生からフォローが返ってきた。面識のない学生から「最高」という一言のDMが来た。通知が来る度に私達は笑い合った。創部とかどうでもよくなるくらいTwitterが面白かった。



結局創部出来そうにないまま春を迎えてしまった。私は三年生になり、徳井さんは四年生になった。
あの日以降、徳井さんは健さんのイニシャルを最後に添えた変なツイートを繰り返していた。最初のうちは私も面白がっていたのだが、途中からそのツイート内容が段々と過激さを増していったので、私の独断でパスワードを変えた。
私は私でTwitterという沼に嵌ってしまっていた。チェーズ・オーエンズと連絡を取った際に使用していたアカウントでは、どんなツイートをしても、多くて3いいねくらいしか集まらなかったのが、富山高専プロレス同好会という大胆な名前で発信を始めた途端に、プロレスファンから沢山いいねを貰えるようになった。富山高専プロレス同好会と名乗っているだけで、チェーズと連絡を取ったアカウントでフォローしていた憧れのプロレスファンからフォローされた。反応を貰えることの楽しさを徐々に覚えていたのだった。
Twitterはそのような進捗状況で、実際の富山高専プロレス同好会設立に関しては、顧問を依頼した教官達に続々と断られるという悲惨な状況だった。二人で懸命に作ったパワーポイントも、全て「無理です」で片付けられてしまった。
プロレスをやることを目的とするのではなく、観ることを目的にすれば良いのではないかと思って、断られた教官達に二周目のプレゼンをしたが、今度は「趣味の範囲でやってください」で片付けられてしまうのだった。丸山先生でさえ同様の反応だった。
それでも私達は、来年の学園祭で何かしらを披露して、学生達の見世物になりたいという夢を抱いていた。徳井さんは、当日までに体を仕上げて純粋にプロレスを見せたいと言っていた。私には、ステージの両脇にあるスピーカーから爆音で「サンライズ」を流し、ステージと真逆の方向からスタン・ハンセンの格好をして登場したいという夢があった。要するに変な形で目立ちたかった。ドラムを叩いたり、踊りを披露したりではなく、己の信じる面白いことを高専の学生達にぶつけてみたかった。
しかしながら、顧問不在のせいで、私達の夢も叶えられそうになかった。この人なら押せばいけそうだと思った教官にさえきっぱりと断られて傷心していた私達は、夢を語るだけで、それに向けて何かを実行できるような元気がなくなっていた。

「とりあえず新入生入れます?五年間の高専生活の折り返し地点を過ぎてる四年生と折り返し地点に向かってる三年生になったばかりの奴で動いていても、色んな意味でどうにもなんない気がしますよ。若い力を借りるのは、創部のためにも、創部した後の存続のためにも、なんか必要な気がしてきましたわ。そういや写真部だって部長の中村さんが上の学年に行くにつれてお菓子パーティーすらしなくなってますし。まあ僕らは写真部と違って創部すらできてないわけですけど」

「ああ、そうやな。明日の昼休み新入生の教室行くか」

「はい、勧誘しましょう」


翌日の昼休み。私と徳井さんは一年生の教室を訪れた。我々に馴染みのある国際ビジネス学科の教室に入って、「はい、プロレスに興味ある人ー?」と大きな声で手を挙げながら私は言った。誰も反応してくれなかったので、男子学生の集団に狙いを定めて、「プロレス興味ない?」と言ってみたが、「ないです」としか返ってこなかった。電子情報工学科の教室でも同じような反応だった。
いよいよ残すは商船学科の教室だった。頼みの綱はここしかなかった。誰か出てこいという一心で「プロレスに興味ある人いるー?」と言うと、私の近くにいた男子学生が「僕じゃないですけど、あいつプロレス好きですよ」と同級生を紹介してくれた。
「あいつ」と呼ばれていた子に、私が「プロレス好きなの?」と声を掛けたら、戸惑った表情で「はい、好きです。こないだも新日本の高岡大会観に行きました」と言ってくれた。彼の名前は中西だと言う。
私はまだ存在もしない部活動の説明をして、中西君を勧誘した。

「あ、知ってます。合格決まった日に富山高専ってTwitterで調べたらヒットして、ああ、あるんだって思いました」

「それがないんだよ」

とりあえず中西君とLINEを交換して、その日は退散した。



8月26日。夏休みの中盤。初めて中西君と一緒にプロレスを観戦する日が来た。あれから中西君とは沢山プロレスの話をした。チェーズに飯を奢った話や過去に観に行った興行の話をもとに私のプロレス観を中西君に語った。中西君は知らないプロレスの話に目を輝かせてくれたのだった。
その日はまず二人で昼下がりの金沢を目指した。金沢駅前の商店街の夏祭りの演目として女子プロレスの試合があるのだった。
観戦無料の夏祭りということで、会場には老若男女問わず様々な層の観客がいた。沢山の人達でリングの周りは埋め尽くされているというのに、プロレスのTシャツを着ている人は片手で数えられるほどしかいなかった。

プロレスファンこそ少なかったが、試合が始まれば会場は盛大に沸いた。メインイベントに勝利したアジャコングが「来年もまたここに来ていいですか」と問い掛けると、客席は万雷の拍手と歓声に包まれた。強く激しく手を叩く子供達と一緒に、私と中西君も手が赤くなるまで拍手を続けた。なんとも微笑ましい光景だった。

心が温まったところで、次の会場へ向かった。金沢から四十分ほど移動した富山県高岡市でプロレスリングZERO1の興行が開催されるのだった。
会場の高岡テクノドームは高岡駅から徒歩三十分だったのだが、試合開始時間に間に合いそうになかったので、高岡駅からタクシーに乗った。
会場に着いた。会場ロビーで学生料金のチケットを購入し、二人で慌てて扉の向こうに入った。目の前には衝撃的な光景が広がった。信じられないほどガラガラだった。

一時間前の金沢が嘘かと思えるほど、ガラガラだった。冷房のない夏の展示場なのに、何故か上着を着たくなるほど体が冷えた。
Twitterや週刊プロレスを通じて、ZERO1が観客数に伸び悩んでいることは知っていた。とはいえ、富山はZERO1のエース候補である小幡優作の地元だった。メインイベントは電流爆破マッチだった。観客が集まる要素はあったから、ある程度の数は集まるものだと思っていた。
同じ会場で新日本プロレスが興行を催せば、1,500人近くの観客が集まる。それなのに、今この会場には、観客とカウントしていいのかスタッフとカウントしていいのか分からない興行の手伝いをしてそうな大人を含めても、40人に満たない数しか人がいなかった。中西君はこの会場の真ん中で大きな歓声を浴びる新日本プロレスのレスラー達の姿を知っている。先輩として、2,000円を払わせてまでこんなところに連れてきてしまって申し訳ないとさえ思った。
それにしても先程の金沢駅前の光景との落差が凄まじかった。異世界に飛び込んでしまったような不思議な感覚に陥ったまま、時間が経っていった。
メインイベントの時間になった。静寂な会場のど真ん中から観客動員数に釣り合わなさ過ぎる鼓膜が破れそうなほどの爆破音が響いた。

火薬の匂いを乗せた熱風が客席に充満した。冷え切った会場が物理的に温まるという何とも皮肉な光景だった。
天井に目線をやると、戸惑っている観客と反して煙が気持ちよさそうに舞っていた。それは後輩との思い出にはしたくない蜃気楼だった。

試合が終わると、中西君は田中将斗の売店に並んでいた。「あんな爆破しておきながらケロっと売店立ってるの凄すぎますよ」と嬉々とした表情で話してくれて安心した。

全てを俯瞰的に見ていた私だが、興行の中にしっかりと熱くなる瞬間があった。それはZERO1の興行の名物である、大谷晋二郎が対戦相手に顔面ウォッシュを仕掛ける場面だった。大谷晋二郎の足の動きに合わせて、ファンが「オイッ!オイッ!」と声を出すお馴染みの流れだ。
この日はファンが全く声を出さなかった。それでも必死に大谷晋二郎は観客を煽っていた。何度も何度も「オイッ!オイッ!」のリズムで足を動かしていた。
会場の端では、観客の誰もが黙ってリングを見つめていることにも気付かないほどリング上の大谷晋二郎に夢中になっているオッキー沖田リングアナウンサーの姿があった。「オイッ!オイッ!」と一人叫ぶオッキー沖田の声を机の上に置いてある電源が入ったままのマイクが拾い、会場の中にある大きなスピーカーからその声が薄らと響いた。
ただでさえオッキーの声が通る静かな会場の中に0.5秒遅れで「オイッ!オイッ!」というスピーカー越しの声が響いた。
オッキーに目線をやると、先程の夏祭りで見かけた少年を思い出した。その瞬間、報われて欲しいと思った。これだけ自分達を信じてる大人には素直に報われて欲しいと思った。こんな感情をプロレス会場で抱くのは初めてだった。



8月31日。私はZERO1を観に後楽園ホールを訪れた。
中西君と別れた体のまま夜行バスに乗って東京へ向かい、全日本プロレス両国大会やフリーダムズ後楽園ホール大会を観た。その後、青春18きっぷで仙台を目指し、センダイガールズプロレスリングの興行を観たりした。センダイガールズの道場で体を動かしたりした。
全身に筋肉痛が蔓延る中、鈍行列車で仙台から東京まで移動して、そのまま後楽園ホールを訪れたのだった。あまりにも体が疲れていたから、楽しめるか不安だった。このZERO1後楽園ホール大会だけはどうしても楽しみたかった。それには訳があった。

富山高専プロレス同好会と名乗ってプロレスに関するツイートを続けていると、プロレス会場でTwitterを通して知り合った人と会う機会が少しずつ増えていった。
今回の旅の最中、Twitterで私のことを見てくれているある人物に、ZERO1後楽園ホール大会を観に行くことを話すと、「絶対つまんないでしょ」と言われたのだった。確かにそう思われても仕方がないのが今のZERO1だった。実際に先日観た高岡大会も面白いとは言えなかった。
それでも、その言葉を耳にした瞬間、悔しく思った。あのオッキーの姿を思い出して、悔しく思った。だからこの後楽園ホール大会だけは絶対に楽しみたかった。


楽しめた。試合が始まると、ZERO1後楽園ホール大会を素直に楽しめた自分がいた。体力が限界を迎え、興奮状態に陥っているからなのか、高岡大会が酷過ぎたからなのか、判断はつき兼ねたが、素直に楽しめた。
メインイベントの世界ヘビー級選手権、田中将斗vs拳王は、特に良かった。守りのフルタイムドローではなく、攻めのフルタイムドローだった。試合時間残り一分のアナウンスがされた時ですら決着がつく気がするほど、レスラーの本気を観た。
三十分が経過し、時間切れ引き分けのゴングが鳴った時には自然と涙が溢れてきた。八年前の夏にプロレスと出会って以来、毎日プロレスについて考えている私がプロレスってこんなに面白かったっけと思うほど面白かった。
片方は他団体の選手ではあったが、試合が行われたリングはZERO1だった。ZERO1が面白かった。

後楽園ホール大会も客席は寂しかったが、私の中の何かは間違いなく晴れたのだった。問題は解決していないのに、幸せに包まれた私は、後楽園ホールを後にした。

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