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感情電車 #13 「好きってなんだろう」

2019年2月5日。北村克哉が新日本プロレス退団が発表された。デビュー直前からの約二年間、必死に応援していた選手だった。とても悲しい出来事だった。

***
北村を初めて観たのは、高専二年の春休みだった。2017年3月の新日本プロレス名古屋大会の会場だった。新日本プロレスのデビュー前の練習生達は、道場に住み込んでいる。そんな練習生が巡業に帯同する。それはその練習生のデビュー戦が近づいていると言うことだ。名古屋大会の会場には、リング周りを箒で掃いたり、試合後の選手にアイシングを渡したりする北村練習生の姿があった。
レスリングの学生チャンピオン。異種格闘技戦で勝利経験あり。努力だけでは辿り着けない大きな筋肉。その見た目と経歴の凄さから、道場に入る前から入団記者会見が行われるほど期待されている新人だった。期待されているだけあって、デビュー前からファンがいた。リング周辺で練習生業務に勤しむ北村に女性ファンが声を掛けていた。プロテインを渡していた。
プロテインを女性から受け取った北村は、会場に響き渡る精一杯の声量で「ありがとうございます!」と深く頭を下げていた。感謝の度合いを声量で表現する三十路の筋肉の塊は、如何にも馬鹿っぽかった。私は一発で惚れてしまった。
その後北村は、女性にツーショット撮影をお願いされていた。「はい…」と少し頼りない返事をした北村は、リングに立て掛けていた箒を手に取り、リングサイドにいる女性と少し距離を置いて、「僕ちゃんと掃除に勤しんでますからね」と周囲にアピールするように両の手を左右に動かしながら、女性が持つスマホのカメラをじっと見つめていた。
確かに、もしも自分が北村の立場だったら、外出も儘ならない新弟子の分際で、呑気にファンと写真を撮ってもいいのかと思うだろう。でもファンの気持ちには応えたいだろう。
それにしても、北村の場合は、その一連の感情の起伏が露骨過ぎた。プロテインを貰ったら大声で感謝を伝えた。
写真をお願いされたら「本当は立場的に駄目なんだけどな」という不安な表情を浮かべた。
でも、ファンのお願いには応じたかった。
そこで先輩に怒られないように手だけ動かした。
ファンと距離を置いて、ファンサービスをしていない風を装った。
距離をとって、箒を手にしたところで、女性とツーショット写真を撮っているのは、傍から見たらあからさまだった。下がった口角と皺が寄った眉間を、恐る恐るカメラがある方に向ける男の姿は、見た目こそ鍛え過ぎてる三十一歳であったが、その中身は子供だった。
年齢が一回り下の先輩もいるほど、誰よりも遅く新日本プロレスに入門したのに、誰よりも子供っぽい北村克哉に希望を感じた。世間で上手くやっていけそうにはないが、現実と非現実が入り混じったプロレスという世界でこそ輝ける類の人間だと思った。というか、彼みたいな面白味のある人間が輝けなかったら、日本のプロレスは嘘だとすら思った。
デビュー前のレスラーを好きになることは初めてだった。自分に素直過ぎる彼に私は惚れたのだった。

その一週間後。インフルエンザで急遽欠場となった中西学の代打として北村克哉が試合に出場することになった。急遽組まれたデビュー戦とあって、福井という何とも言えない土地での初陣となった。しかし、デビュー戦でいきなり数ヶ月前までIWGPタッグ王者であったタマ・トンガ&タンガ・ロア組と対戦することになったと知った時は、会社に期待されていることが窺えた。

北村がデビューしてから一ヶ月ほどが経った頃、Twitterで仲良くなりつつあった仲間内でアカウント名に「北村」を入れるブームが始まった。まだ距離感が掴めないフォロワーさんばかりだったが、北村に可能性を感じているという点で意見が一致した。私もアカウント名を「富山高専プロレス同好会」から「富山高専北村プロレス同好会」に変更した。
富山高専にプロレス同好会を作ろうという目的をもとに開設したアカウントを北村に捧げられるほど、その頃の私は北村に希望を見出していた。「北村」を添えた名前に変えた者達は総称して「北村系」と言われるようになった。
北村系としてTwitterに勤しんでいた頃、私がひっそりと続けていたプロレスブログが、北村系のうちの一人に見つかった。
そのブログ記事は、名古屋大会で感じた北村の魅力について語ったものだった。北村と出会った時の衝撃を一つのブログ記事にしたものの、その記事のリンクを貼り付けて自らツイートすることはなかった。誰かに見て欲しいという気持ちはなかった。あれほど面白いと思える光景に出会えたから、形に残しておきたいなと思い、完全なる自己満足で、言語化した次第であった。
それが北村系のうちの一人に見つかった。「そのブログ記事を書いたのは私です」と仲間にリプライすると、数人とは言え、記事を読んだ人が感想を寄せてくれた。
「愛のある文章でした」
「北村最高じゃん!」
「あなたは先見の明がありますね」
たった数件の感想であったが、それが嬉しかった。北村について書いたブログがあの時仲間に見つかっていなければ、私は書くことを続けていなかったかもしれない。そう思うと、北村が書くことの悦びを私に教えてくれたと言っても過言ではなかった。

それから半年が経とうとしていた頃のことだ。オリジナルの北村克哉Tシャツを製作して、北村にプレゼントした。
元々好きなレスラーのTシャツを自分で作ってみたいという思いがあった。カール・アンダーソンにTシャツをプレゼントして、そのTシャツをタイトルマッチの入場時に着用してもらっていたプロレスファンがいることを中学生の頃にTwitterで知ってから、私もいつか憧れの人物に自分でデザインしたTシャツをプレゼントしてみたいと漠然と思っていた。
高専一年の頃に参加した私立恵比寿中学の握手会会場がその漠然とした思いを確固たるものに変えた。会場内にいるファンの多くが推しているメンバーの自作Tシャツを着用していて、ファン同士が己のデザインしたTシャツでマウントを取り合っていた。ファンのTシャツを見たエビ中メンバーは、そのクオリティの高さに驚いていた。それらの光景を見た時、これをプロレスファン界にも持ち込みたいと私は思った。
初めて自分でデザインしたTシャツの題材が北村克哉だった。見た目のインパクトや見た目を超える人間味溢れる面白さがある北村には、デザインにしやすい要素がたくさん詰まっていた。新日本プロレス富山大会で、グッズ売店にいたスタッフに「これを北村選手に渡していただけますでしょうか」と、自作のTシャツを入れた紙袋を手渡したのだった。
すると、その一週間後に北村本人からインスタでDMが届いた。私が作ったTシャツを満面の笑みで着用している写真が無言で送られてきた。
メジャー団体のレスラーがTシャツをプレゼントしてくれたファンのインスタアカウントを特定する。しかも無言で写真を送りつける。そもそもデビューしたての若手選手は一切のSNSが禁じられているはずなのに、堂々とインスタをやっている。
全てが規格外な一回り以上年上のおじさんに、高校生の私は興奮するのだった。
私も初めて見た時の北村のように大声で感謝を伝えたいところだったが、写真が送られてきたDMで感謝の文面を作成した。すると直後に、スマホサイトの選手コラムに後日アップするとの連絡が来た。この男の性格的に、きっとそれは「ファンの方がせっかく作ってくださったのだから、アップしなければいけない」という気遣いや使命感ではなく、「嬉しいからアップしちゃおう」という気持ちが故のスマホサイトへのアップだったと思う。北村が本心から喜んでくれていそうなことが、私にとっても嬉しいことなのだった。
書くことの悦びを教えてくれたのも、Tシャツのデザインの楽しさを教えてくれたのも、北村だった。

だが、北村系を続けていく上で、嫌な気持ちになることもあった。フォロワーさんの引用リツイート先が読み込めないなと思ったら、見ず知らずのプロレスファンにブロックされていることに気付くことが増えた。これくらいなら腹が立たないのだが、
「北村を崇拝しているバカども」
「北村系とかいう目障りな奴ら」
「北村をイジって仲間内だけで盛り上がっている自慰集団」
などと、全く絡んでいない人に揶揄されることがたまにあった。これらの批判を目にした私が気分を害したように、文句を垂らす彼らも気分を害していたのかもしれない。だけど、そうだとしたなら、そっと私達のことをブロックすればいい話だ。

北村系を揶揄するだけでなく、私個人を批判してくる者もいた。ある日、Twitterで「北村 プロレス」と検索していた。すると、私のツイートのスクリーンショットを載せている者がいた。
スクリーンショット先の私のツイートの内容は、武藤敬司に関することだった。2018年3月中旬、両膝に金属製の人工関節を入れる手術をするために、自身の代名詞である必殺技・ムーンサルトプレスが使えなくなる武藤敬司の『ムーンサルトプレス引退試合』という異例の技の引退試合が組まれた。超満員の後楽園ホールに舞う武藤敬司のムーンサルトに観客達は感動した。
だが、その二週間後に武藤敬司の化身であるグレート・ムタがDDTプロレスリングのリングでムーンサルトプレスを披露したのであった。その光景を中継で見た私は、「ムーンサルト引退詐欺爆誕」とツイートしたのだった。
名前は見たことあるが、絡んだことは一度もないアカウントが私のそのツイートのスクショを添えて、

「コイツはムーンサルトプレスと月面水爆の違いもわからないのかwww
プロレスのこと何も知らねえんだな
これだから北村ファンは」

とツイートしていた。確かに私のツイートも火に油を注ぐ刺々しさがあったことは認める。しかし、これを見た時は殺してやろうかと思った。
私は生身の武藤敬司という人間がムーンサルトプレスを出したことには変わりはないから、そのようにツイートした。ムタが使うムーンサルトプレスは「月面水爆」という別名で使われていることは知っていた。
馬鹿にされる筋合いはないが、この手の知識をひけらかせて偉そうにしている痛い人に出会すのはTwitterをやっている上で仕方がないことだった。それにしても「これだから北村ファンは」の一言は余計だと思った。段々と腹が立ってきた。

「レスラーに夢を託したことねえ奴に言われたくねえよ。
知識を盾に偉そうなお前はプロレスのこと全部知ってんだよね。プロレス知ってたら、レスラーに夢を見出せなくなるのか。それなら俺は知らないままでいいわ。
突飛な技出すガイジンだけ褒めてろ。これだから海外インディープロレスファンは」

と、海外のインディーシーンが好きだったツイート主の言葉を嘲弄するように引用リツイートしたい気分だった。しかし、傷つけたくない人まで傷つけてしまうことは目に見えた。海外のインディーシーンファン全員の反感を買い、非難を浴びることで、更に苛立ってしまう自分の姿もできた。負の連鎖は続けたくなかった。
私自身も海外のインディーシーンはそこそこ好きだ。それに、私がそんな誹謗中傷をしたら、ツイート主とやってることが同じになる。発散する場所がなく、苛立ちが募る一方だったが、全て忘れることにした。結局引用リツイートはしなかった。
後日そのツイートは削除されていたが、忘れようとしていたはずの私の憤懣は解消されないのであった。

そんな嫌なことが度々あった。北村を応援する人達にも非があるのだろう。北村ファンの人々は、熱っぽく北村愛を語ることもあれば、北村の画像を貼って大喜利のようなことを始めることもあった。傍から見たら、我々はレスラーをいじって盛り上がっている不愉快な奴らだったのだろう。だけど、それは愛が故の大喜利だった。
北村ファンの内輪ノリを見ていて不愉快だったと思う者もいたのだろうが、そもそも北村克哉という存在に拒否反応を示す者が多かった。確かに北村は、期待の若手と称される割に素人目で見ても下手だった。でも、肉体だけは一丁前だった。そんな北村にノーを突きつける人が多かった。北村ファンのことを「あんなのを必死に応援している見る目がない奴ら」と見下している人もいたと思う。
それでも私は、北村のような「下手だけど面白いプロレス」を許す寛容性があった方がプロレスは素敵な世界になると信じて止まなかった。北村の応援はやめられなかった。
北村に夢を感じていたことが北村の応援を続けるに至った最たる理由であるが、同じく北村に夢を感じてるアカウント達の存在も応援を続ける要因の一つだった。北村系とその周辺のアカウントの熱量に刺激を受け、私も熱心に北村の応援に勤しんだ。
そんな北村を愛する我々を見て、下手なレスラーを本気で応援している気持ち悪い奴らだと思う者もいれば、その輪の中に入ることを望む者もいた。北村を愛している気配は一切ないのに、只々ファン同士で盛り上がりたいがために、アカウントに「北村」の文字を入れるアカウントが定期的に現れた。それはそれで不快だった。そういった人とも距離を置くようにした。
人間関係というのは、結果として構築されるものであると私は思っている。気が付いたら仲良くなっていたというのが本当の友人関係であると思う。気が付いたら仲良くなっていたという状態までに辿り着くまでの過程として、当人間での多少のアプローチは勿論あるが。
北村ファン同士でプロレス会場が一緒になった時は挨拶したし、試合後にどちらかが「この後ご飯でも食べに行きます?」なんて言うこともあった。そうして関係を築いていった。
だけど、プロレスファン同士で盛り上がりたいという目的のもとで、好きでもないのに北村の名前を出して好かれようとする人がいた。苦手だった。北村が大好きでたまらない人達が北村をTwitterでイジるのは見ていて楽しかったが、好きでもないのに北村をイジっている人達のそれは醜かった。
北村を信じている者の北村イジりも、北村がそこまで好きではない人間の北村イジりも、第三者から見たら一緒なのかもしれなかったが、私の中では両者には明確な違いがあった。愛を感じるから愉快か、愛を感じないから不愉快かだった。

本当に北村に夢を見ている人達は皆、深いプロレス愛を持っていたから、話していて楽しかったし、実際に会ってみると優しかった。揶揄してくる人や面白おかしく絡んでくる人がいても、本気で北村を応援する彼らがいたから、私も懲りずに北村を応援し続けられたのだと思う。



2017年秋から冬にかけて、十二年ぶりにヤングライオン杯が開催された。新日本プロレスの若手選手の中で誰が一番強いのかを決めるリーグ戦がヤングライオン杯だった。リーグ戦をできるほどの数のヤングライオンがいない状況が続いていたが、2017年は5人の選手がデビューし、リーグ戦を行えるだけの人数が揃ったのだった。北村は全勝で優勝し、優勝後は海外武者修行に行きたいとまで語っていた。
リーグ戦の中でも、私が特に興奮を覚えたのは、川人拓来vs北村克哉の一戦である。新日本プロレスの若手選手の試合では、デビュー日の早い方が勝つというジンクスがあった。ヤングライオン杯にエントリーしていた選手の中で、唯一川人だけが2016年デビューで、川人が優勝するのではないかという気配すらあった。
たとえ川人が一年先輩であろうが、レスリングの猛者で、120kgの筋肉を誇る三十二歳の北村を、運動神経は抜群だが、まだ体が成っていない二十歳の川人が倒してしまうというのはあまりにも無理があるのではないかと思っていた。だが、川人は、北村戦の前日に、北村と同じくレスリングの学生チャンピオンという経歴を誇る岡倫之から丸め込み技で勝利したのだった。
そんな中で迎えた全勝同士の一戦。ゴングがなるや否や、川人がエルボーとキックを北村に間髪入れずに打った。
北村が川人を強引にロープに振ると、ショルダータックルで倒した。その後も、逆水平チョップやヒップトス、ボディースラム、俵返し、というように力で川人を攻め続けた。
しかし、川人も反撃を開始した。ミサイルキックで北村を倒すると、三角締めに移行した。
北村のギブアップだけは見たくないと思っていたら、北村が三角締めされたまま起き上がり、川人をマットに叩きつけた。そこから必殺技のジャックハマーを狙おうとするも、川人が着地して、スクールボーイで北村を押さえ込んだ。
岡戦の悪夢を思い出しそうになったが、北村はなんとか肩を上げた。すると、川人はスモールパッケージホールドで北村を再び押さえ込もうとしたのだが、北村はそれを堪えて、強引にジャックハマーを決めた。北村が勝った。北村が四分で川人を仕留めた。
丸め込み技を丸め込み技で返すプロレスは何度か見てきたが、丸め込み技を豪快な力技で返すプロレスは初めて観た。下手と言われる北村が生んだ光明だった。相手の必殺技を必殺技で返すというキン肉マン的な発想に感動した。北村がこの世に下手うまプロレスというジャンルを作ってしまったとさえ思った。
北村が負けてしまうのではないかという緊張からの緩和。これこそがプロレスファンの醍醐味だと思った。私はしばらく北村のジャックハマーを思い出すだけで幸せな気持ちになれたのだった。



北村が好きになってから一年が経とうとしていた。北村ファン間の親交が深まってきた頃に、待望のアナウンスが新日本プロレス公式より発表された。闘魂SHOP水道橋店で北村克哉のツーショット撮影会が開催されることが発表されたのだった。
授業中にこっそりTwitterを開いたら、タイムラインがやけに騒がしかった。何かあったのかと思ったら、北村の撮影会のアナウンスがあった。北村を愛するフォロワーさん達が北村の初のイベントに歓喜していた。居ても立っても居られなくなった私は、東京に住む姉にイベント参加のための整理券を取ってきてくれないかとLINEを送った。
整理券はアナウンス翌日から闘魂SHOP水道橋店で配布されるとのことだった。整理券は一人2枚までという上限があり、さらにその数は200枚に限られていた。配布開始日からイベント当日までの二週間で200枚の整理券がなくなることは容易に想像できた。富山で生活している私は、整理券の獲得を誰かに頼るしかなかった。

2018年2月17日。高専三年の学年末試験が終わり、身軽になった私は、希望と姉が取ってきてくれた整理券を握りしめて東京にやってきた。
少し早く水道橋に着いた私は、闘魂SHOPの向かいにある筋肉食堂というステーキ屋に入った。居酒屋のアルバイトの稼ぎしかない私は、東京に来ても、松屋のカレーや昔ながらの中華料理屋での定食といった良心的な価格で確実に腹を満たしてくれる上に間違いなく美味しいものしか食べないのだが、この日は珍しくステーキ屋を訪れた。
筋肉食堂は、北村がプロレスラーに転身する前のトレーナーとして働いていた時代の職場の先輩が営む飲食店だった。そのことをSNSやサムライTVのバラエティ番組を通じて知っていた私は、闘魂SHOPから徒歩0分の筋肉食堂に撮影会の前に行けば、昼食を食べている北村に遭遇できるのではないかという淡い期待を抱いて店を訪れたのだった。
好きな選手がいそうだから行くというのはストーカーじみた行為なのではないかと若干の背徳感を感じていたが、それを上回る「素直に筋肉食堂のステーキを食べてみたい」という気持ちに従って、地下へと導く階段を降りて、店の扉を開けたのだった。
「いらっしゃいませ」と出迎えてくれた女性店員が「北村さんのファンなんですね」と続け様に私に言った。私は自分でデザインした北村克哉パーカーを着ていたのだった。そのパーカーを見た店員が笑顔でそう言ったのだった。
「今ちょうどあちらに北村さん本人がいらしてるんですよ。ちょっと待っててくださいね」と言い残し、店員は私を置いてけぼりにして店の奥へと向かうのだった。
店員の向かった方を見ると、本当に北村がいて、たじろいだ。二月だというのに上はタンクトップ、下はハーフパンツというコーディネートで嬉しそうにiPhoneを触っている北村の姿があった。机に肘がついた状態でiPhoneをいじるその姿は、モストマスキュラーポーズをとっているように見えた。iPhoneを支える前腕も、上腕も、太過ぎる。ハーフパンツから露出する腿が太過ぎて、脚が少女時代くらい細くすら見えてきた。
新日本プロレスから支給された大会Tシャツの袖口をハサミで乱暴に切ることで出来上がったタンクトップとiPhoneに向けた満面の笑み。私の幻想を崩さない北村克哉の姿がそこにあった。
戻ってきた店員が北村のいる席まで私を案内してくれた。

「うおー!すごい!」

挨拶する前に北村が私のパーカーを見て反応してくれた。

「以前Tシャツをプレゼントした富山の高校生です。これも勝手に作ってしまいました」

「あ〜はいはい!」と返事した北村は、急にトーンを落として、真剣な面持ちを浮かべながら私に話しかけてきた。

「あの〜、ですね。前に作っていただいたあのTシャツなんですけど、元同僚から沢山の『欲しい』という声がたくさんありまして〜。つまり、その…ええ」

つまりもっと作って欲しいということか、北村。目の前にいる天下の新日本プロレスのレスラーが田舎の高校生にTシャツを作って欲しいと遠回りにお願いしてきている。
Tシャツ一枚作るのにだって2、3000円かかるんだぜ、北村。それも「沢山の欲しいという声」って…北村。異常な空間が水道橋の地下に生じた。
目の前にいる北村は、「作ってください」とは言わないものの、その一言を目で訴えかけてきた。天下の新日本のレスラーが高校生の顔色を窺っている。ムキムキの三十二歳が小太りの十八歳の機嫌を窺っている。私と北村以外の第三者がこの光景を見たらどう思うのだろう。だけど、不思議と嫌じゃなかった。相手が高校生だろうが、欲しいものは欲しいと伝えられるような、北村克哉のピュア過ぎる人間性に惹かれていたからだ。
この異常なまでにあるがままの感情を見せる彼には、悪い印象どころか、良い印象すら感じた。私が想像していた通りの北村過ぎて、面白かった。
北村に魅力を感じつつも、知人の分のTシャツの制作費は流石に負担したくないなと思った私は、「はい!その方達とDMで繋いでくれたら、お金のやり取りとか色々しますので是非!」と明るく返事した。
北村は、納得していない人間の声色で「あ、はい。かしこまりました」と私に言った。絶対にかしこまってない。危険だけど面白い人間の匂いがした。
暗い空気が漂ってきたので、話題を変えることにした。

「以前プレゼントしたTシャツ、スマホサイトやインスタにアップしていただきありがとうございました!」

「いえいえ!またよろしくお願いします!」

あの流れで「またよろしくお願いします」というのもなかなかパンチの効いた返事だけどな、と思いながら、店員に案内されたカウンターへと向かった。

北村と話した一時間後の午後二時。撮影会開始時刻になった。闘魂SHOPの前には、100人近くの撮影会参加者達で溢れかえっていた。皆が今か今かと北村の登場を待っていた。既に北村に会った私は、その光景を俯瞰的に見ていた。
まだ出てこないのかと痺れを切らしそうになった頃、髪をワックスで固めた北村が闘魂ショップから出てきた。一時間前に会った時はワックスをつけていなかったから、北村の髪のセットに皆が待たされていたのだと分かった。
ジップアップパーカーに身を包んだ北村は、わざとらしく「暑いな」と言って、ファスナーを下におろし、その肉体美を露わにした。ファンが一斉に「うお〜」と声を漏らす光景はなんとも素敵な光景だった。一時間前の私も筋肉食堂で「うお〜」と声を漏らしそうになったのだった。

北村との撮影タイムが始まった。私の整理番号は8番と9番。すぐに自分の順番が回ってきた。

「あ〜、先程はどうも!」

「いま僕が着ているパーカーと同じデザインのTシャツです。よかったら受け取ってください。パーカーは北村さんサイズだと作れませんでして…」

そう言って差し出した紙袋はスタッフに受け取られた。

「ありがとうございます!ポーズはどうされますか?」

「ハグとかいいですか?」

「はい!」

一枚目はハグにした。プロレスラーのイベントにおいて、女性のファンは当たり前のように男子レスラーにお姫様抱っこやらハグやらしてもらっているのに、男性ファンはそれを頼みづらい現状に違和感を抱いていた。私だって男子レスラーとハグしてみたかった。
筋肉を全身に纏った北村のハグ心地は、思ったよりも柔らかかった。

「次はどうしましょう?」

「スリーパーかけてもらってもいいですか?」

「もちろんです!いきますよ!」

「はぃっ…」

イベントスタッフの「落ちちゃってるよ」という声が微かに聞こえた。苦しい表情を作ってシュールな写真を撮りたかったのだが、北村が思いの外しっかりと脇を締めたから、意図せずとも苦しい表情が出来上がった。

「今日はありがとうございました。プレゼントしたTシャツ、是非自作Tシャツにしてください」

「いいんですか!自作タンクトップにしちゃって!ザックザク切っちゃいましょう!」

北村は「#自作タンクトップ」を添えて、雑に袖を切ったTシャツの写真をたまにインスタグラムに投稿していた。自作タンクトップというハッシュタグ及びその投稿の何が良いと思ったのか、私には理解できなさ過ぎて、投稿を見る度に想像の斜め上を行く北村に笑っていた。ファンとしては、プレゼントしたTシャツが自作タンクトップになるなら本望だった。
闘魂SHOP水道橋店の傾斜が急な階段を降りる時に、一瞬だけのぼせて足元がふらつき、階段から転げ落ちそうになった。どうやらスリーパーが効いてるみたいだった。

その後、元同僚が欲しがってるTシャツの話をDMでされることはなかった。



2018年3月から北村の欠場が続いていた。地方大会で起こした脳震盪による欠場とのことだったが、初めての脳震盪による欠場にしては期間が長過ぎた。嫌な予感がしていた。そんな時も私は北村のことをツイートし続けていた。自作の北村Tシャツを着続けていた。ファッション北村系は一切北村のことを触れなくなっていた。

謎の長期欠場を続けている北村とは、たまにインスタグラムのDMでやりとりしていた。
2018年8月末、ALL INを観るためにシカゴにいた時のことだ。現地の外国人選手と撮った写真をインスタグラムに投稿したら、突然北村から「そのTシャツ欲しいです!」と連絡が入った。ルチャブラザーズと写った私が着ている自作北村Tシャツを気に入ってくれたようだった。
色の希望などを聞いた後に、送り先を聞こうと思ったら、向こうから送り場所を提示された。今海外にいるので二、三週間お時間いただきます、と伝えた。「はい。かしこまりました!」と直後に返信が来て、会話は一旦終わった。
その二日後だ。追加でTシャツが欲しいという連絡とともに、「引っ越しまして…」と新たな住所が送られてきた。この二日の間に引っ越す北村は、相変わらず狂っていた。仮に二日前に私がTシャツを即発送したとしても、そのTシャツは新住所には届かない。つまり北村の手に渡らない。
更に追加であのTシャツの色違いが欲しいやら、このTシャツの色違いが欲しいやら言われて、Tシャツ製作代が馬鹿にならなくなった。せっかく居酒屋のアルバイトを辞めて身軽な状態で海外に来たのに、帰国後もすぐにアルバイトを探さなければいけない羽目になった。

北村に会えない日々は続いていたが、北村を可愛がっているレスラーに会う機会はあった。

十月にSNSを通じてACHからコスチュームを買い取ることになった時は、ACHに「BIG KのTシャツだよ」と言ってTシャツをプレゼントした。
ACHは腹を抱えるほど笑いながら、Tシャツを喜んでくれた。ひと通り笑い終えたACHは、真剣な表情というよりは少し悲しい表情を浮かべながら、落ち着いた声色で「新日本のロッカールームでは着れないな」と言うのだった。その真意は聞けなかったが、私もACH同様に悲しい表情を浮かべるのだった。


十一月には、新日本プロレス大阪大会観戦後にBULLET CLUBの打ち上げに参加させてもらう機会があった。BULLET CLUBのメンバーと親交が深いファンの方が招いてくれたのだった。
大会の間際にお誘いいただいたのだが、ここしかないと思った私は、急遽北村のTシャツを製作して、タマ・トンガとタンガ・ロアにプレゼントした。二人は北村のデビュー戦の相手である。また、タマに関しては、北村のことを相当可愛がっているようだった。夏にシカゴで北村Tシャツを着ながら二人のサイン会に参加した時は、「イカしたTシャツ着てるじゃん!ビデオを撮らせてよ!」と言われた。
タマとは約二ヶ月ぶりの再会だった。タマは「Kitamura Boy」として私のことを認知してくれていたようで、笑顔で覚えてるよと言ってくれた。
そんなタマに北村Tシャツをプレゼントすると、大声を出して喜んでくれた。本当に嬉しかったようで、その日の夜に北村Tシャツを持った自分の写真を添えて、「Kitamura for Bullet Club?」とツイートしてくれた。

いつも絡んでいる北村ファンはそれを喜んでくれたし、国内外のプロレスファンが何が起きているのかと反応していた。
そんな中で、海外のフォロワーさんの中で北村のことを熱心に応援しているアカウントが、タマのツイートに対して、「Don’t tease me like this.」(私をからかわないで)と反応していた。それを見つけた私は胸を抉られるような感覚に陥るのだった。
***

新日本プロレスと選手の契約更改は、毎年一月末が区切りになっている。北村は新日本を辞めるのではないかという噂レベルの話は色んな人から聞いていたが、二月に入っても、北村の退団は発表されなかった。
北村は所属契約を更新したのではないかと期待を抱いて過ごしていたら、2月5日に新日本プロレスから北村克哉の退団が発表された。
ショックだった。
北村に希望を見出してきた二年間が否定されたかのような気分になった。
北村ファンを馬鹿にする輩が偉そうな顔を誇っている姿が容易に浮かんだ。
今日という日に黙っているファッション北村系に腹が立った。
北村をスターにできなかった新日本に希望を見出せなくなった。
長時間戦い抜けるレスラーだけが活躍できる風潮すらある現在の新日本プロレスで、スタミナはないし、素人が見ても下手だけど、味気のある試合をする彼が頂を目指す姿を見たかった。引退ではなく、退団ということだったが、私は新日本プロレスで活躍する彼に期待していた。勿論、新日本プロレス以外の道でも活躍して欲しいとは思ったが、新日本プロレスのリングで闘う彼が好きだったから、応援する理由がなくなった。
北村から「次のステージでも応援してくれたら幸いです」というDMが来た。コピーアンドペーストで多くの人に同じ文面を送信していたようだった。それでも私にDMを送ってくれたことは嬉しかった。
だけど、新日本プロレス以外のステージで活躍する北村を応援する自分がイメージできなくて、悲しくなった。

三年間加入していた新日本プロレスワールドを退会した。
プロレスの何が好きだったんだっけ。

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