過ちは繰り返しませぬから

広島の平和公園にあるこの碑文、誰の誓いなのかで、昔から議論がある。いや、いつまで経っても、同じ論旨で蒸し返されるというべきか。

これは、サイエンスライター (自称)という偏った立場からだけど、わたしの知る限りのことを、記しておきたい。伝え聞いた方が、もう鬼籍に入ったりされる、古い話なのだが。

念のためお断りしておくけど、わたし自身が以下のような世界観を持っているわけでない。あくまでも、当時の世界観の話として読んでもらいたい。

結論から書こう。
この文章の主語は、『人類』であり、誓いを立てる時に念頭に置いているのは、神である。
なぜ神が出てくるか?といえば、
核分裂反応(その連鎖反応)を、人智を超えた神の領域と見ていたから、である……正確には、当時のインテリたちにそれほど衝撃的だった。

なぜ『神の領域』なのかには、理由が二つある。
一つは、元素変換を伴う反応であること
二つ目には、その結果出てくるエネルギーが、従来知られているエネルギー源に比べ桁違いの大きさであったこと、
(さらに三つ目として、放射線障害のことを挙げないといけないと思っている。原爆投下の段階では、X線による急性症状以外はほとんど研究されておらず、広島・長崎での被爆者の疫学調査で、だんだんとわかっていった……そのことへの悔恨もあったろう……この辺り、いずれ別項立てて書いてみたい)

とりわけ、神に関わるのは、元素変換のこと、ウラン、プルトニウム等の原子に、人の手で刺激を与えることで、ほかの元素の原子に変えている……このことに、タブー感があった。
何しろ、元素(element)は、物質の根源を探す千年単位の探究の末に確定できた、大元の要素だった。1900年ごろになった、ようやく元素が原子という実在のものに置き換えて語れるまでに研究が進んだ。
しかし、その理論はすぐに揺らいだ。原子核の分裂である。自然と別の元素へと変わっていく……当初はそんな現象を見つけただけだったが、やがて英国のラザフォードのグループにより、核分裂を人為的に進められるのが発見された。
つまり、人の手で、元素を変えられる、というキケンな発見である。
あえてアミニズム的に書くと、銅の神様を崇めているつもりが、知らない間に、ほかの人間によって、鉄の神様に変質されることがある、というのだから……これを神の冒涜と言わずして何という!
同時に、この変化を起こさせることで、街一つが消滅するほどの、見たことないほどのエネルギーが出た……タブーを侵したための、神の業火と考えてしまう人がたくさんいたのである……。

今日……いや、わたしが物理を学んだ30年前だって、そんな考え方は古くさかったし、核反応だって原理的には制御可能であることもはっきりしてた……そこに『神』を感じる必然はなかったし、今後持って欲しくない(研究に、そのようなタブーを作って欲しくない)
だけど、30年前には、まだ湯川先生の世代の学者さんの直弟子にあたる人が、老教授におられて、思い出話として、そんな世界観を聞かされた経験もある。

もう、あの種の過ちのために、『神』を感じるほどの厄災が見たくない、といえば、21世紀の目線へ、少し近づくだろうか?

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