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物欲と膝つき合わせて対話を試みる(長いのでPart.1)

 過去、「私は物欲があまりない」と度々書いてきた覚えがあるのだが、実のところ、それはまるっきりデタラメだ。
 なぜそんな嘘を度々ついてきたのか。
 折りに触れ、なにかノスタルジイな心情の吐露を謀っているときに、「私はさほど物欲がない人間だ」「モノに対する執着がガキの時分から薄いのだ」などと宣い、そうした「無欲な人」というイメージを読者に植え付けることで、格好がつくといいますか、感傷的な気持ちのときに、より人々の同情を惹くための方策として、「これくらいいいだろう」と無意識レベルで評決を下し、結果そのような嘘で、私の虚像は生み出された。私は私に唆されてやったのである。

 実体はというと、「The 物欲の化身」である。幼少の頃より祖父に会えば、玩具を買い与えられるものだから、「おじいちゃんと会う=物・現金が手に入る」などという公式まで組み上がっていたのではなかろうか、というほど小賢しい餓鬼であった。そんな餓鬼が成長して服飾関係に目覚める年頃になると、散財した。高校が特殊で、大学の単位制を取り入れた学校だったこともあり、校則もなく、制服もないため、毎日私服だった。その私服集めに熱中した。汗水流してバイトで稼いだ金を注ぎ込んだ。のではない。じいちゃんの金だった。この頃には、会いにいくたび一回一万円がもらえた。会いに行くのが億劫になり、面会が途絶えがちになると、母経由で金の入った封筒が渡された。一万円だったり、三万円だったりした。誕生日には五万円くれたこともあった気がする。もらいすぎて、ありがたみを感じてなさすぎて、もはや記憶が薄い。人としてどうかと思う。と、今なら思う。

 そんなわけで、学生時代はとくに、金には困らなかった。今より貯金があった。馬鹿みたいに服を買った。一着一万円が、学生時代の私の庶民感覚だった。だが、服同士を合わせる、つまりコーディネートする、という概念がなかった。単体で購入したお気に入りのアウターとシャツを組み合わせる。ここまでは概念があった。が、そこに、パンツ、そして靴、そして、ヘアースタイルを合わせ、もっというと自分の顔面を合わせる、という概念がなかった。全身鏡で見ていたのは、アウターとインナー。そして顔面単体、であった。私の視力は当時0.02以下であった。油絵のそれを、まんざらでもない、と。鏡面3cmの距離で思った。それは致命的なことだった。なぜこんなにオシャレに気を遣っているのに、モテないのだろう、と謎だった。女の子たちの目は節穴なのだろうか? と本気で考えたりした。節穴だったのは私のeyesだった。

 節穴の目に合うコンタクトレンズを装填した。まんざらでもなくなかった。ダメダメだった。まったくイケてなかった。前髪ハチワレくねくね癖っ毛ヘアースタイルと、ひょっとこでもそんなに傾いてはいないだろうというくらいの困り垂れ眉だった。衝撃だった。なぜ私はいままで、このような顔面で自信を持てていたのだろうか。小学生時代のモテ期が、私に変な自信を与えているらしかった。小学四年生までは、べらぼうにモテた。クラスのマドンナに手作りチョコを渡され、クラスで二番目にかわいいうさぎ顔の天使に机の中にチョコを入れられ、転校時にはずっと好きでしたとラブレターを二人からもらい、有頂天だった。私はモテモテ星から来たモテ星人なのだと、私の境遇を恨んだ。罪な男よ、と目を細めて夜空を見上げたりした。
 男らしさ、中性的な顔立ち、とは対極だった。足が速かった。餓鬼の頃は子供特有の、それなりにかわいいとかっこいいが混ざった愛らしいといってもいい顔立ちだった。髪型もマッシュルームで誤魔化しが効いた。目鼻立ちだけは、整っていた。
 神はそんな私が気に食わなかった。会話する女の子が片手で足りるくらいだったことにも納得がいった。服にだけはやたら金をかけているが、髪にも顔にも靴にも頓着がない男が、モテるわけがない。それなら服もだらしないほうがまだマシだ。なぜなら、全体的に頓着がない、のであれば、それはそういう人種として違和感なく認識はされ、存在はある程度許容される。だが、服だけやたら頑張っている人、これは、ただの異物だ。異形の存在だ。
「この、前髪ハチワレくねくね癖っ毛ヘアースタイルがいけないのだ」そう思うやいなや、千五百円の床屋を卒業して、美容室の門を叩いた。カットとパーマである。無駄だった。なぜ直毛パーマを選んだのか。それには相応の理由があるのだが、いまは恥ずかしくて書けない。結局、卒業するまで仲良く(会話を何度か交わした)なった女子は5人を下らなかったように思う。それはつまり、そういうことだ。
 アンニュイが私の居場所になったのは、その頃からだったかもしれない。それは今回の話とは関係がない。

 分不相応な金遣いは、祖父の金一封が滞りはじめた後も延々と続いた。収入に対して、それに応じた金の投じ方ではない。実家暮らしも功を奏した(奏してない)。その月の収入は、毎回(大抵が衣服)七割方消えていった。
 私の最初の勤め先は、僻地にあるパートの、おばちゃんに囲まれながらの職場だった。「若いのになんでまたこんなところに?」おばさんたちに口々にそう言われた。私は逆になぜそのようなことを聞かれるのか不思議だった。時給も今思えばとても低かった。当時の最低賃金並みだったかもしれない。時給よりも大事なものがある。同世代の人間と顔を合わせるのが嫌だった。私は顔面への信頼を失っていた。安部公房の『他人の顔』という小説に、すこぶる共感し、勇気づけられた。私の顔も、ケロイドで溶けたのだ、と思うようにした。外傷のほうがまだ救いがある。先天的なそれには救いがない。だから外傷ということにしておいた。実際、後天的に顔面の被害に遭ったわけですし。すこし気持ちが軽くなった。ように記憶している。妄想かもしれない。

 物欲、おい、こっちを向け。物欲と向き合うつもりが、顔面コンプレックスとやあこんにちは、してしまったではないか。軌道修正。

 だがこれは必要な道筋だった。ここを通らずして、私の物欲とは向き合えないのだろう。急がば回らんば虎子を得ず、というやつだ。待ってろよ、虎子。(続く)

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