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「江文也」考 02

江文也が戦後、日本に戻らず
中国に残る選択を行ったのは、
プライベートの部分(特に家族)の他に、
かの地に自分の人生をかけて
研究するに足るテーマがあったからだと思いたい。

…「そうであって欲しい」というのは、
私の願望でしかないのではあるが…

彼は演奏家・作曲家である以上に
研究者・学究の人ではなかったか。

正規の大学教育を受けた訳ではないけれど、
音楽(民族音楽の採譜)を通じて
日本と台湾を繋げただけでなく、
更に一歩進めて
日本伝統音楽の源流となる中国の
「礼楽」の研究を進めていくことで、
日本と中国も、
太く大きく繋げていこうとしていた。

彼の業績を知れば知るほど、
彼を単なる「音楽家」という枠の中で
捉えてはいけないのだと強く思うようになる。

「大東亜共栄圏」という言葉は、今では
「戦時中の軍国日本が戦争の正当化に用いた
 政治的宣伝・プロパガンダの類」
というイメージでしか扱われなくなっているようだが、
この言葉・スローガンの中に自分の夢を重ね、
本気で「東亜の共栄」を目指して
邁進していった人、人生を捧げた人は多い。

彼も、そうした人達の一人ではなかろうか。

戦後まもなく、中国に残留した江文也には
「日本陸軍の手先・民間協力者」として
早い段階で一度嫌疑がかけられたが、
この時は無罪釈放され
教授職もそのまま続けることができた。

(これには、台湾に撤退した国民党政権に対する
 毛沢東政権の文化的プロパガンダとしての
 政治的意図もあったらしい。)

だが、その後の中国に吹き荒れた
文化大革命の嵐の中で、
彼はイデオロギー的に糾弾され、
本人は「矯正」と称した強制労働に、
また、所持していた楽譜や原稿も
ほとんどが棄却・焼却されるという憂目に遭う。


日本には終戦までの彼の業績は残っているが、
以降の彼についての研究はなされておらず、
日本の西洋音楽史の中でも傍流、
あるいはミッシングリングとして、
長く触れられることはなかった。

しかし、彼の存在は
日本のクラシック音楽史だけでなく、
台湾・中国における
西洋音楽の伝播・普及を語る上で、
本来、なくてはならぬ存在なのだ。

それだけに、日本での彼の研究が
終戦の時点で止まってしまっていることに
歯がゆい思いをしていた。

中国では江文也の業績が見直されて
本格的な研究がなされており、
台湾でも彼の研究が進んでいるが、
日本にまでは届いていなかった。

音楽研究の牙城であるはずの東京藝術大学でも
「戦争と音楽」をテーマとした企画コンサートなどで
彼の曲が演奏されることがあるが、
それはあくまで「終戦までの江文也」であって
「その後の江文也」ではない。

噂では
台湾における江文也研究の第一人者である
劉美蓮先生の著書『江文也伝』の翻訳作業が進んでおり、
今年中にも日本語版が出版される運びとなるらしい。

これは、これまで知られることのなかった
「戦後の江文也」に触れることのできる貴重なもの。

出版が待ち遠しいね!

(初稿:2020.01.22)
※2021.07.18現在、パンデミックの影響を受けてか、
 まだ『江文也傳』日本語版は出版されていない。

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