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「訳詩」考

"Du bist wie eine Blume"   Heinrich Heine

Du bist wie eine Blume,
So hold und schön und rein;
Ich schau dich an, und Wehmut
Schleicht mir ins Herz hinein.

Mir ist, als ob ich die Hände
Aufs Haupt dir legen sollt,
Betend, daß Gott dich erhalte
So rein und schön und hold.

シューマンの連作歌曲『ミルテの花』の中で
どの曲が一番有名かと問われれば、
この"Du bist wie eine Blume"(Op.25 Nr.24)
を掲げることになるだろう。

原詩はハイネ『歌の本(Buch der Lieder)』
に収められた詩集『帰郷』の第47篇で、
従妹テレーゼを歌った詩のひとつ。

独文学者・井上正蔵氏の解説によれば、
この詩に対して行われた作曲は
250もの多種に及ぶとの事、
詩のみをとっても
ハイネの代表的な一篇と言えるだろう。

私の手許には、この一篇
「Du bist wie eine Blume」
に対する、日本の訳詩が幾つかある。


「花さながらの」  訳詩:井上正蔵

 花さながらのめぐし子よ
 ゆかしく きよく うるわしき
 つくづくみればかなしみの
 おもひぞ胸にしのぶなる
 なれがかしらに手をのせて
 祈らむとこそ思ふなれ
 神のめぐみにうるはしく
 ゆかしく きよく とはにあれ

(井上正蔵訳『歌の本』岩波文庫)


「きみは花さながらに」  訳詩:志田麓

 きみは花さながらに
 やさしく、美しく、清らかだ。
 きみを見つめると、せつなさが
 ぼくの胸をひたしてしまう
 神のお恵みでいつまでも
 清らかに、美しく、やさしくあれと
 祈りつつ、この手をきみの頭に
 添えようと思うのだ。

(志田麓 訳詩・解説『シューマン歌曲対訳全集』音楽之友社)

岩波文庫版『歌の本』が
出版されたのは昭和26年、
志田麓の『シューマン歌曲対訳全集』
の出版は昭和58年だが、
この2つの訳詩のもっとも顕著な差異は、
その本のスタイルにある。

井上訳の場合は
訳詩のみでの構成となっているが、
志田訳の場合、
本の左ページにドイツ語の原詩を載せた
「原詩併記」の形をとっている。

原詩併記の体裁を整えている場合、
訳詩の持つ意味合いは
訳詩のみの体裁の場合とは
微妙に異なっているのではないだろうか。

原詩の持つ語感を第一義に置き、
訳詩はあくまで読者の原詩鑑賞の
一助に徹しているという印象を受ける。

ちなみに、
岩波文庫版『ドイツ名詩選』など、
近年出版されたものには
原詩併記のスタイルが多いように見受けられる。

※ ※ ※ ※ ※

「訳詩」
というものを考えるなら、
『海潮音』の上田敏を
外すことはできないだろう。

上田敏の名前を知らなくても、

 秋の日の
 ヸオロンの
 ためいきの
 身にしみて
 ひたぶるに
 うら悲し。


・・の一節を覚えている人は
多いのではなかろうか。
(上田敏による訳詩のタイトルは『落葉』、
 原詩者ヴェルレーヌによるタイトルは『秋の歌』)

この『海潮音』の中にも、
先ほどのハイネの詩が
『花のをとめ』と題されて載っている。

上田敏の訳詩と、もう一篇、
尾上柴舟による訳詩を並べてみよう。


「花のをとめ」  訳詩:上田敏

 妙(たへ)に清らの、あゝ、わが兒(こ)よ、
 つくづく見れば、そゞろ、あはれ、
 かしらや撫でゝ、花の身の、
 いつまでも、かくは清らなれと、
 いつまでも、かくは妙にあれと
 いのらまし、花のわがめぐしご。
(上田敏訳『海潮音』本郷書院)


「清くゆかしく」  訳詩:尾上柴舟

 清くゆかしく麗はしき
 汝(なれ)は花にも似たるかな
 さはいへ汝を見るときは
 かなしき思ひぞおこるなる
 汝がかしらにおのが手を
 載(の)せむとこそは思ふなれ
 とはにゆかしく麗はしく
 清くと神にいのるべく
(尾上柴舟訳『ハイネノ詩』新声社)

お気づきだろうか、
冒頭に掲げたハイネの原詩は
八行で構成されており、
他の訳者もハイネの原詩に倣って
八行の詩にまとめているのだが、
上田敏だけは
六行に訳詩をまとめている。

このことについては彼自身の脚注があり、
「ルビンシュタインの楽譜の邦訳であり、
 原詩の意味を再現しながらも
 句読停音のすべてを譜面に従った」
と述べている。

上田敏の『海潮音』が上梓されたのは明治38年。
それより4年早い明治34年に
尾上柴舟による訳詩集『ハイネの詩』が上梓されている。

この原詩に対する日本の訳詩は、
おそらくこの尾上柴舟が最初ではなかろうか。

尾上柴舟は
明治から昭和にかけて活躍した歌人であり、
書道家としても知られている。

ハイネの詩の叙情性と
柴舟のおそらくは和歌の素養による
さらさらとした語感は、
当時の若者達に広く共感をもって迎えられた。

柴舟の『ハイネの詩』を胸に抱いたまま
投身自殺した女学生も現れ
新聞の紙面を賑わせたということからも
当時の流行の程が偲ばれる。

※ ※ ※ ※ ※

考えてみれば、
明治以前の日本に和歌や俳句はあっても、
西洋の「詩(Poem、総称としてPoetry)」
に該当するものは存在していなかった。

当時において「詩」といえば
それは漢詩の事を指していたのだ。

これは詩のみならず
西洋の小説においても同様で、
「どのような形で日本に紹介するか」
「どのように紹介すれば
 西洋詩や小説を理解してもらえるか」
というのは
明治の文人達に与えられた
最初の命題でもあった訳だ。

戯作体、漢文直訳体、雅文体、欧文直訳体、
それぞれの混合体に言文一致体・・・

そうした文体の
試行錯誤の中から現代の口語体へ、
また、古来の五七調を用いた
定型・韻文から自由・散文へ・・・

その変化こそ、
明治の文人達が西洋の文化を吸収し、咀嚼し、
そして新たな日本の文化を
築き上げようとした証しではないだろうか。

※ ※ ※ ※ ※


明治15年、
外山正一・矢田部良吉・井上哲次郎の三者による
訳詩選集『新体詩抄』が出版された。

この選集の序文には
「旧来の和歌・漢詩の詩体に対し
 明治ならではの新しい詩体を作り上げること、
 その詩体は西洋の詩形を範とすること、
 平常の言葉を用いること」
など
文学上の革新を高らかに謳い上げており、
それをもって
日本文学史に大きな足跡を残すことになる。

今回のテーマである「訳詩」、
当初、私はこのテーマについて
「ひとつの詩(歌曲の歌詞)に対して
 色々な人が訳詩を作っている。
 それを読み比べてみるのも
 歌曲の楽しみ方のひとつではないだろうか。」
などと気楽に考えていた。

しかし、資料を漁っていく中で、
その考えに変化が生じつつある自分を感じている。

小説作家や文学者による翻訳だけでなく、
伝統文化として定着している歌壇の人までが
西洋詩の翻訳を試みている。

・・・その原動力は何か、
それはどのように、今に結びつくのか・・・

これを大きな命題として
「訳詩」の更なる深みへ
考察を拡げてみるとしようか。

(初稿:2003年11月)

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