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あの頃のこと。

ごきげんよう〜

2011年3月11日の話。

当時は宮城県で被災したが内陸部にいたので津波の被害はなく、近しい人に亡くなった人もいなかった。
震災というものが、自分ごとではないような気がしている。
というか、自分の口から出る「震災」という言葉と
ニュースで見たり、沿岸部で見た光景の「震災」と温度差がありすぎる気がしている。
教訓とかではなく、僕の体験した震災ってこんな感じだった、という記録です。


当時、ぼくは宮城県の南部で学校の近くにアパートを借り、一人暮らしをしていた。


卒業を控え、特に何もすることがなく暇を持て余す日々。
4月から東京で新入社員研修だった。
何かを準備しようという気持ちもなく、ガンプラを買ってきた。

コタツでテレビを見ながらガンプラを組んでいた。

揺れた。

はじめは小さかった揺れが突然大きくなり、電気が消え、テレビとスピーカーが飛んでいった。

経験したことのない大きさの揺れだったし、経験したことのない時間揺れた。

めちゃくちゃ遅いがスマホの電波は入ったのでTwitterを見ていた。
よくわからないまま、閉じ込められた旨のガセ情報をリツイートしてた。

家族とはショートメールで連絡がとれた。
1時間おきかってくらいのやり取りだった。

空が暗くなり始めた頃、父から津波が来ているので避難するように連絡が来た。
学校はまあまあ内陸だったのでさすがに杞憂だろ、と思いながら近くの中学校に避難した。
受付で名前を書き、体育館で毛布にくるまっていた。

余震は続いていて、天井の照明が軋む。
寒さと、周りの不安そうな声で眠れる状態じゃなかった。

結局夜明けごろにアパートに戻った。

食料もあまりなかったし、実家に帰ることにした。
電車なら1時間半くらいだが動いているわけもなし、車も持っていない。
電動自転車はあるが電池が切れていた。
しかし他に足がないので重たい自転車を転がしながらバイパス道路をひたすら北上した。

道路は車で埋まっていた。
ガソリンスタンドも長蛇の列。
遠くには黒い煙。

2時間くらい漕いだろうか。
なんとか家まで帰ってきた。

父は公務員なので不在、母と妹がいた。
連絡は取れていたが、とりあえず互いの無事を喜んだ。

電気、ガス、水道は止まっていた。
母が専業主婦の期間で家にいたので、カセットコンロで米を炊いたり食事を作ってくれた。

生活用水は地区の学校のプールから水をくんできた。
1週間ほどで給水車も回ってきた気がする。
歩いて30分ほどのショッピングモールに妹と並んだ。
とんでもない行列だった。
メインの入り口に臨時の売り場ができており、カイロ、防寒着、カップ麺などが並んでいたような。
このへんはよく覚えてない。

父が仕事を休めるようになったため、母方の実家がある秋田へ避難することにした。
宮城県ではライフラインの復旧にも時間を要していて、ガソリンも手に入りづらかった。

途中のガソリンスタンドも軒並み行列、30分〜1時間くらいは並ぶ。

なんとか祖父の家までたどりついた。
近くのスーパー銭湯で久しぶりに風呂に入る。
汚れた髪はシャンプーをつけても泡立たない。
しかし電気もお湯も使い放題だった。

久しぶりにゆっくり眠れた気がした。

何日か過ごし、4月からの生活に向けて家電などを買い揃えた。
妹も大学進学のタイミングだったので2人分。

3月末には宮城に戻った。
家の片付けもある。
そのころには電気は復旧していただろうか。
あっという間に過ぎていったのでもう覚えていない。

片付けをしながら引越しの準備をした。
父から沿岸部の様子を見にいかないかと誘われた。
野次馬としてではなく、被災したものとして被害の現状を見ておかなければならない、という意味だったと思う。
僕は断った。
現実を見るのが恐ろしかったし、まだ手付かずの場所も多くある中に行くのはただただ邪魔になると思った。
4月以降、仕事やプライベートで現実を目にすることになる。

4月、研修が始まった。
東京にも影響があるような余震が続いたが、東北の人と東京の人には温度差がある気がした。
もちろん全員ではなく、人によるけれど。

それから何だかんだ、東京で仕事したり、東北に戻って震災復旧工事に携わり、結局2年で会社を辞めた。
改修の会社だったが、それでもめちゃくちゃだった。
それでも他の会社や業界と比べればマシだったと思うけど。

まあそんなこんなはまた別の話。
13年前の3月の話でした。

それではまた。

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