塩釜のことを思い出しながら

十年前の三月十一日、私は高校を卒業したばかり、春からは浪人生活が控えていて、取り立ててやることもないのでのんびりと家で転がっていました。地震が来た時にはぼんやりテレビかなにかを見ていたと思います。家が軋むほどに地面が揺れはじめ、慌てて表に出ると玄関先の水たまりがぱちゃぱちゃと音を立てて波立っていて、ずいぶん驚きました。見慣れた庭の水溜まりが波立つ不思議な景色は人生で初めての経験で、今でもよく覚えています。しかしその後すぐ、テレビで報じられた津波の映像を見て、比較にならない衝撃を受け茫然とさせられました。
 塩釜でのボランティア活動の話は母から聞いたように思います。予備校にも通わず時間も体も持て余していた私は喜んで参加しました。三月二十八日から三十日のことです。何も生み出さずでただ飯を食う毎日を後ろめたいと思っていたようにも思います。
 S神父さまの運転で我々は塩釜へ向かいました。仙台市周辺くらいからビルや道路にひび割れが見え始め、少しずつ景色が変わっていきました。塩釜へ着く頃には辺りの景色は見たこともない様子に変わっていました。塩釜の街は津波が運んだ泥にまみれてどこも暗い灰色でした。液状化現象で公園の公衆便所が丸ごと逆さまになっていたのには驚かされた。
 私達の作業は、津波をかぶった被災者の家から泥だらけの家具を運び出すことでした。私の担当は或るおばあさんの家でした。運びだした荷物を一つ一つどうするかおばあさんに聞きます。おばあさんは大概「なげる」と答えます。このあたりの言葉で「捨てる」という意味なんだそうです。おばあさんの家財道具はそのほとんどが処分せざるを得ない状態でした。私が家で転がってテレビを見ている間に、このおばあさんは生活のほとんどを奪われてしまったのです。自然災害に生活を奪われるとういことがどういうことか、私はそれまで知らなかった。圧倒的に理不尽で、悲惨なものでした。そんな状況で、おばあさんは私達にとても優しかったのを憶えています。おばあさんは私にリポビタンDを何度も勧めてくれました。私は二本は飲んだが、おばあさんはそれでもしきりに勧めてくれるのでした。おばあさんはどういう心境だったんでしょうか。私は複雑な気持ちで荷物を運びました。
 子ども時代の私は地震のような災害だとか、世の中の大きな問題に対して、甚だ無責任な態度でありました。大人たちがなんとかすると、そう思っていましたし、なんとかできない大人たちに憤りのようなものを感じていたと思います。十八歳の私は被災地を見て、大きな問題の前で個人がいかに力を持たないかを実感として知りました。大人にもどうにもならないことはあるのです。最近になって、子どもだった私が憤りを感じていた大人たちも、かつては子どもであったことに、今更ながら考えが及んだところです。どうにもならない問題が山積みの社会で生まれ育ち大きくなっていつのまにか大人になっている。大人と子どもの境目はどこにあるのでしょうか。大人と子どもの見た目はずいぶん違いますが、その実そんなに差はないものなのかもしれない。しかしながら、そういうことを考えたからといって、大きな問題に対して無責任な態度をとることは、十八歳の私からみたらやはり格好のよくないことだと思います。二十八歳の今、世の中は未曽有で想定外の問題に溢れていて、自分の無力を感じる日々の連続です。私が出来ることはとても少ないし、何をすべきかもあまりわからない。ですが、あの頃の自分に顔向けができるように、せめて自分に何ができるかを考え続けていたいと思っています。

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