違和感。

違和感。

「多文化共生」は、それに注力している人だけのものなのか...。

そういう人が上で、それ以外の人が下。そういう関係性で良いの?

少し前に twitter で、外国人従業員の個人情報を掲示したコンビニが注 目を浴びました。 私が目にした限りですが、どちらかというと否定的な意見が多かったように 思います。 「自分がやられた嫌」「自分が住んでる国ではあり得ない」などなど。 もっともな意見だと思います。

でも、私は違和感を感じました。

そもそも「多文化共生」とは?
私が感じた違和感は、ここから来ます。

「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文
化的ちがいを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員
として共に生きていくこと」(総務省:多文化共生の推進に関する研究会報
告書より)だそうです。

あのコンビニの店長は、外国人従業員を知ってもらうことで、外国人従業員
を守ろうと思ったはずです。彼らの素性を知っていれば、攻撃的な言葉を言
ったりはない。そう思って情報を掲示しようと思ったのだと推測できます。
つまり、あの掲示物は、コンビニの店長なりの「多文化共生」の方法だった
わけです。

多文化共生に答えはありません。というか、見つけにくいものです。
状況、時代、地域など様々な事情で、答えは変わります。
その中で、最適解を積み上げていくしかないわけです。
だから、某時代の某所では、コンビニの店長の方法は最適解だった、はずで
す。

ただ、ちょっと古いやり方で、今の時代には、ちょっと合わなかったと思い
ます。個人情報の取り扱いや IT リテラシーなどが当たり前に暗黙の了解とな
っている今には、あまり良い方法とは言えません。

ちょっと前まで、多文化共生の方法は「同化」だったように思います。 「郷に入れば郷に従え」で、「日本に来たからには日本人になれよ!嫌なら 帰れよ!」という排他的な考えが当たり前だった訳です。 その時代に全盛だった人は、今でもそう思っているのではないでしょうか。

でも今は違います。

どちらかというと「寛容」がキーワードになっています。
「そのままでいいじゃん」「違ってもいいじゃん」...

協調的とでも言いますか、「外国から来たの?でも日本で住む仲間だから、
一緒に頑張ろー」という感じです。

で、私は感じた違和感は、ここです。

今の多文化共生は、「寛容」にシフトしているはずなのに、なぜかコンビニ
の店長は責められます。

「多文化共生って言うけど排他的やん!」

これが、違和感です。

もちろん、個人情報の開示やら他人が言われたくないことを言ってしまうの
はダメです。これは、しっかりと明文化するなどしなくてはなりません。

でも、もっと問題なのは、多文化共生を推進する方法について、今までやっ てきた方法でよかったかをもっと考えなければならないのに、「今まで良か ったから良いでしょう」と安易にやってしまうことです。 これまでのやり方には、本当に問題はないか、検証されているのでしょうか? もし、これまでのやり方で今回のような店長が生まれたのなら、それは店長 ではなく、多文化共生を推進する側の負けです。多文化共生の推進の方法が 間違っていたため、間違った“多文化共生”が広まってしまった結果かもし れないからです。それは真摯に受け止めなければなりません。

多文化共生を推進している人に、これまでたくさん会ってきました。
その方々から感じるのは、内輪感です。
同じ志を持つ人たちですから、内輪感は有っても良いのですが、外からの意
見に耳を傾けるという姿勢は感じませんでした。
あくまでも、自分たちが上で、多文化共生について知らない人(下)に「教
えてあげないといけない」という印象がありました。先のような指摘があっ
た場合、真摯に受け止める人はあまりいないのではないでしょうか。

とはいえ、あくまで私見ですから、本人たちから「いやいや、そんなことな
いよ。真摯に受け止めるよ」と言われるかもしれません。
でも、「聞く耳持たなそう」と見られてる時点で、どうかなっと思ってしま
います。少なくともイメージ戦略は失敗ですよね。
屁理屈ばかり並べてすみません。

多文化共生の目標は、「国籍や民族などの異なる人々が、互いの文化的ちが
いを認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共
に生きていくこと」です。

それは、外国人だけでなく、日本人同士でも言え
ることだと思います。それはが出来ているか、自問自答しても良いのではな
いでしょうか?そして、外からの指摘には、素直に耳を傾ける寛容さがあっ
ても良いのではないかな、と思っています。自戒を込めて。

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