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東京バンドワゴン 「私の履歴書」から「俺のファミリー・ヒストリー」

東京バンドワゴン 小路幸也 
  2024年に18巻「ハロー・グッドバイ」の文庫本が発売された。
 1巻を2008年から読み続けている。文庫本で全巻を揃えている。

 2008年、16年前、私は52才だ。
この頃、家のローン、子供の教育費、仕事など色んな重圧の中で忙殺されていた。その後、介護もはじまるのだが、本を読む時間も心の余裕もなかった。・・と、そんなステレオタイプの事は言わない。結構読んでいた。
ただ昔ほどは読めないだけだった。

 その頃、読むタイミングは通勤、出張の電車、バスなどの移動時間だけだった。
母親が介護ベットの横のポータブルトイレで、ウンコしている脇で本とか読めない。子供や妻が大声で喧嘩している場合も読めないだろう。こんな時、独身が羨ましい。

 「俺は彼らの知らない世界へ旅している。それだけ人生を深く生きている」と、自分を慰めていた。
私は経験主義者なので、知らない事は体験したい。脳内処理で物事を語ることは出来るだけ止めている。 

 さて、リタイヤした今、私は波風のない生活している。
通勤はない。アルバイトはテレワークで済ましている。
1日中家にいる場合、敢えて本を読む時間を設定する必要がある。それが面倒でもある。また何故か、昼間の読書は集中出来ない。

 娘1が、最近、本も読めない、映画を観る気にもならない、YouTubeも無理。サブスクで「水曜どうでしょう」しか観られないと言う。

 それは仕事が忙しいためだ。本などで頭を使えない。頭が常に満杯状態。そんな時期はあると慰める。
娘1は文学部国文科卒で、本は好きだ。でもこれはどうしようもない。

(子供 息子(長男)娘1(長女)娘2(次女))

 最近のネット記事で、読む時間 2分とか書いてある。1分、2分で生きているのか、そんな世界では気が狂うのも分かる。

 この本は「水曜どうでしょう」的な面もある。頭に負荷がかからない。だから頭が満杯状態でも読める。疲れている方にお勧めだ。

 一応内容を簡単に紹介。
主役の堀田家が長年続けている古本屋、屋号「東京バンドワゴン」を舞台として、その家族が紡ぐ物語がベースとなっている。そんな家族小説だ。
そしてここまで長く物語が続くと、今では家族の歴史小説となっている。
現時点で堀田家は凄い家系図となっている。

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ここからは「東京バンドワゴン」からインスパイアーされた私の妄想となる。

 誰にでも親はいる。自分が今存在するのは、長い家族の歴史の中で、必然か偶然かは知らないが、先祖達の出会いがあったからだ。そして自分もその家族の歴史のひとつとなる。
当然だけど、そこには色々な物語がある。
 
まずは自分史だ。すぐに「私の履歴書」が頭に浮かぶ。

自分史は商売になる
 「私の履歴書」  日経の人気コラムだ。1956年から始まっている。
名の知れたお年寄りが、偉そうに過去を語る記事。若い頃はそう思っていた。月日は経ち、自分が歳ってみると、老人には過去しかない。だから少しでも昔に良いことがあれば語りたくなる。その気持ちは分かる。

 調べると「自分史」を本にする商売はあるではないか、日経掲載に今一歩届かない金持ちの老人向けのビジネスだ。
ネットでも「自分史」においては沢山関連記事があった。
年寄りは「自分史」が大好きなようだ。

家族の歴史
 一方、「家族の歴史」を創作する商売はない。
それより、今の日本で将来家族ってあるのだろうか、心配になる。

 東京の出生率が2023年0.99、結婚もしていな、子供もいない、お一人様が増える今、家族のある生活を全く理解出来ない人々が今後増えるだろう。
私達、昭和世代の親が家族史を残せる最後の世代だと思う。

日本の歴史を学ぶ
 学校で日本史や民俗学をほとんど学ばない若者にとって、親の残した家族史、それを読むことは日本の歴史を学ぶことになる。
自分と家族を知りたいと思う歳になったとき日本の歴史を知る。それはいいことだと思う。

俺のファミリー・ヒストリー
 そんなことを考えていると、自分の家族の歴史も書いた方がいい。今なら書ける。いい話なら残っていくだろう。
私は「俺のファミリー・ヒストリー」を早速書いてみることにした。

 おそらく私的な家族史には幾分脚色はある。それでも市井の人々の歴史はファンタジー小説なみに面白いかも知れない。

 その前に何故「」かだ。

自分を「僕」と言う人 また「俺」と言う人がいる。
「私」は公式の言葉だとおもっている。私、妻、夫、それと同じ。
僕という人は、高田渡さん、椎名誠さん、
「僕って何?」  三田誠広さん、あの世代の人達に多い。

そして、「俺」はヤンキー世代と戦前、戦中世代、戦後世代。
だから「俺のファミリー・ヒストリー」とした。

[俺のファミリー・ヒストリー]
 
個人情報もあるので名前は仮名としている。

父と母の死
 平成30年3月30日に母が亡くなった。父は平成15年1月16日に亡くなっている。
人が世界から消えると、残されたものは色々大変で、葬式と納骨以外にも事務的な手続きも沢山ある。

 その時、手続きの必要に迫られて両親の故郷から戸籍を取り寄せた。
取り寄せた手書きの古い戸籍、それをじっくりと見ていると、親から聞いた昔話を思い出した。
「おもしろいなぁ」
その時代の生き方と背景に興味が沸いてきた。私自身も高齢者となり、時間もあまりない。
「だったら、一度、両親の故郷へ行ってみるか!」
「いこう、いこう」妻の声、行くことにした。

 父の故郷は熊本県天草、母の故郷は香川県高松、この里帰り弾丸ツアーを妻と一緒にやってみた。
戸籍の内容、過去の檀家の話、親の口頭での思い出話、ネットでの史実の確認、自分のルーツをそうやって辿っていった。

戸籍から読み取る
私の父:
 ヤマトタケル 本籍地熊本県天草市** 
そこは島原半島が目の前に見える港だった。場所的に隠れキリシタンなのかと想像したけど、檀家のお寺は正真正銘の浄土真宗であった。

 この地、天草が地元である父(トウジロウ)と母(キヌ)の長男としてタケルは産まれた。弟が1人いる。
トウジロウの仕事は、中国満州において、満州鉄道の工事などの土建・建築業を営む組(会社)の組長だ。当時はかなりの資産家であった。

 タケルは満州の大連で、大正15年に産まれた。
しかし平和な家庭ではなかった。タケルが12才の頃、トウジロウの色恋沙汰で両親は離婚する。
離婚後、タケルとその弟、元妻のキヌは満州を離れ故郷熊本へ帰国する。
 
 タケルは弟と一緒に熊本八代市のトウジロウの弟のカンジ家で生活をする。カンジは熊本大学医学部の医者で、当時、トウジロウから養育費として相当な額のお金が送られていたようだ。

 タケルはそのお金のお陰で、何不足なく生活をしていた。ただ満州での勉強の遅れがあり、小学6年を2回やった。
タケルは中学卒業後、東京へいき法政大学法学部へ入学。その後、戦況の悪化で昭和20年、軍隊へ行くことになる。俗に言う学徒動員だ。

私の母:
 旧姓アオキミチコ 本籍地香川県高松市**
父アオキケンタロウと母ミツの10人兄弟の下から2番目とし産まれた。妹以外は全部男だ。

 夫婦は高松市の市街でうどん屋を営んでいた。何代目かは知らないが、老舗のうどん屋で菊池寛も食べにきたと聞く。そのお陰かどうか知らないが、ミチコは勉強が出来た。女学校卒業後、日本銀行に勤める才女だった。

 兄姉は男が8人、女2人。下から2番目がミチコだ。
親は既に高齢だったので、20歳以上歳の違う兄達が面倒を見ていたようだ。
戦争で色々あり兄弟の中、男は3人が亡くなった。
長男はうどん屋を引き継ぎ、次男のアオキユタカは、満州鉄道に勤務していた。

史実と口伝えてから:
 昭和20年5月4日 熊本県人吉海軍航空基地 
 ヤマトタケルが飛行訓練を受けている時だった。
訓練機は「赤とんぼ」の愛称で親しまれた九三式中間練習機。

人吉海軍航空基

 人吉の球磨川沿いの基地は田舎の宿舎そのもので牧歌的なたたずまいだ。空は五月晴れ。そんな青空の中、見張りがキラキラと光るモノを見つける。
艦載機のグラマンだ。この時期、日本は制空権をとっくに失っていた。

グラマンF6

 記録によると、アメリカ海軍インディペンデンス級の航空母艦「サン・ジャシント」の艦載機16機が人吉海軍航空基へ向かっていた。
この空襲により、爆弾投下や機銃掃射を行い多数の建物に被害があったが、さいわい死者は出さず、応戦した機銃員1人が負傷。その他家屋や家畜に被害が出た。

 応戦する飛行機はあるが、弾薬も燃料もパイロットもいない。当時海軍の秘密基地と言われた人吉基地。そこまで空襲されている日本。すでに末期だった。タケルはその時の空襲で腰に被弾した。記録によると負傷者1名だ。史実と一致するのが面白い。

 ちなみに現在も東京上空は横田空域といい、ジェット機の飛ぶ高い空域は、アメリカの飛行機しか飛べない。戦後は未だに続いている。石原都知事の頃はよく話題になったが、今の都知事は話題にもしない。

横田空域

昭和20年7月4日未明 高松大空襲
 香川県高松市、激しくなるサイレンの音。空襲警報だ。
香川県立高松高等女学校4年のミチコは指示通りに避難し難を逃れた。
空襲、その惨状は酷いものだったが、既に人の死が日常的にあった時代、悲しんでいる暇はなかったという。空襲後、直ぐに生きる為の日常の生活が粛々と始まっていた。

 この大規模な空襲により、高松市内に古くからある実家のうどん屋は焼夷弾により焼かれた。またミチコの上の兄が翌日不発弾を不要にも触ってしまい、頭をふきとばされた。

 記録によると、昭和20年7月4日未明、高松市は米軍による空襲を受け、旧市内の八割が焦土と化した。空襲は4日午前2時56分から同4時42分まで続き、116機の米軍機が高性能爆弾24トン、焼夷弾809トンを市街地に投下。死者1240人、行方不明者119人、全焼家屋18,505戸のすさまじい被害を受けた。

高松大空襲

 この空襲時、長男は稼業を継いでおり家にいた。他の男達は兵隊となり戦地だ。次男ユタカだけは満州鉄道へ就職しており、一般市民として大連にいた。

満州鉄道
 大連は満州鉄道の本社があり、その当時のバロック建築の本社ビルは現存している。
満州鉄道はこの頃の日本を代表とする国営企業だ。
特に超特急「あじあ」は有名だ。
大陸を横断する特急「あじあ」 食堂車のロシア人少女のウェートレスや、赤と緑の「あじあカクテル」などが評判だった。客車は冷暖房完備、最高時速は130キロ。

超特急「あじあ」

 昭和20年8月9日 長崎の「ピカドン」
 人吉海軍航空隊は7月10日解体され人吉航空基地施設と改称。九州航空隊人吉派遣隊が駐屯する人吉海軍警備隊となっていた。
タケルはこの時期、一次帰宅しており、経緯は聞いてないが天草にいた。
そして、午前11時02分長崎の「ピカドン」原爆のキノコ雲を海の向こうの島原半島越しに見た。

長崎の原爆、きのこ雲

昭和20年8月8日 満州からの脱出
 長崎への原爆投下の前日、不可侵条約を破棄したソ連が満州に侵攻した。
満鉄の職員だったアオキユタカ、当時、満鉄関係の工事を請け負っていたタケルの父ヤマトトウジロウはヤマト組の自社ビルにて、この知らせを受けると、今後どうするかを話あった。

 日本の高官や管理職はソ連軍に捕まると命はないだろう。そこで全てを捨てて逃げることにした。家族はすでに帰国させている。

ソ連軍

 危険回避の為、部下の中国人にお願いし、満鉄を利用せずに上海まで向かう工作をした。親父曰く、当時の中国人は恩義があると決して裏切らないという。

 昭和20年8月15日正午 終戦
 終戦時に人吉基地にあった機体
九三式中間練習機96機、雷電1機、零式艦上戦闘機2機、九六式艦上戦闘機19機など。

戦後、日本の空軍機は米軍に全て焼却された

戦後~
 満州で多くの富を築いたトウジロウは、戦後、財産税という名で、その殆どの資産を国に接収された。これは最終的に米軍に賠償金として使用されている。
戦後、中産階級の人々はこれで、殆どの人が破産した。まさにNHKの連続小説みたいな話。

 また、当時の大地主、名士は土地をGHQに接収された。
これは農地改革というGHQの日本の財閥と家長制度の崩壊を狙った施策だった。そして、当時の小作人が解体した土地を分配された。
その後の日本の核家族化と土地成金の始まりだった。

昭和22年以降 大学へ
 女学校を卒業したミチコは成績優秀。地元の日本銀行に就職しており、今で言う丸の内のOL的な生活を戦後も続けていた。
その頃、タケルは東京の法政大学へ戻っていた。同時に日本大学経済学部ににも在籍した。

 タケルは、親の資産が消えてしまったので、学費は自分で稼ぐしかない。それでも自由の風が日本は吹いていた。金もないのに新宿のダンスホールに通っていた。
戦後の日本の希望だったかどうかは知らないが、アメリカ文化を受け入れる生き残った若者達。

 そこで何かの縁か、関東村(調布基地、当時は米軍の農場)のMP(ミリタリーポリス)のアルバイトをするようになった。法学部で英語も堪能だったこともある。

調布の関東村 

 そしてタケル27歳、トウジロウの「タケルに嫁をくれ」の一言で、トウジロウの妹と結婚していたアオキユタカが、妹のミチコを紹介し、お見合いをすることになった。

 若い男が消える
 この時代、若い男は戦争でほとんどが死んでおり、男1人に女は2トントラック一杯という比率だった。選択肢もないままミチコはタケルと結婚する。

 ちなみに大正生まれの男達、彼らは戦争で一番亡くなった若者世代だ。男は7人に1人が戦争で亡くなっている。男子総数1348万人の内200万人以上が戦死したことになる。
彼らの屍の上に今の日本がある。

時代が変わる
 27歳でまだ大学生だったタケルの下宿から結婚生活が始まった。

世田谷 空が広いなぁ

 米軍基地での高給バイトのおかげで買ったスクーター。そのスクーターをでミチコと2人乗りして、50年代のアメ車が走る甲州街道で新宿へ向かう。

ラビットカタログ

 住んでいた調布や世田谷の町並みを後にして、デカいアメ車が走る国道20号線。調布関東村にある米軍将校の住まい「ワシントンハイツ」
そこはまるでアメリカの街だった。

国道20号を走るアメ車

 新宿のダンスホールでは、スイングジャズが流れ、着飾った男女が踊る。なんとも不思議な戦後復興に向けた活気がみなぎる東京だった。
そして、ここから私の親の人生が始まる。

終わり

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