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ポツンと一軒家 ある少年の話

九州熊本にある奥深い森の中に、ポツンと古びた一軒家があった。そこには、自給自足をしている一人暮らしの爺さんが住んでいた。

新緑の5月だった。
良い季節だが、この時期に何故か心を病む。
長崎のマンションの一室から、少年が逃げだした。
学校のこと家庭の事、自分でもよく分からない理由で、心が逃げろと言っていた。少年は遠くへ行きたかった。朝から電車に乗り、舟に乗り、長崎を去る。さらにバスに乗り、終点で降りた。そこは見た事もない深い森が広がっていた。少年は、そのまま飲まず食わずで歩き続ける。なにも考えないで、ただ肉体を酷使しする。そして心を空っぽにしていた。

そして夕刻、知らない森で、道に迷った。後悔と焦りの中、ヒメジョンが一面に咲いている場所を抜けたところに、その一軒家があった。

少年は疲れ果てていた。野良仕事をしていた爺さんの前で立ちすくむ少年の顔からは表情が消ていた。
そんな少年を見て、爺さんは別に驚くもなく、少年を家に招き入れ、水を飲ませ、食事も与えた。

何も聞かない爺さん、静かな佇まいのその家、自然の織りなす音、吹き抜ける風、少年の心が徐々に落ち着いた。そして疲れから眠ってしまった。

翌朝、少年は布団で寝ていた。起きると、爺さんを探した。
いない。存在が消えていた。それでも森の朝、新緑の匂いが彼を冷静にさせた。庭先の地面に拾った木の枝で、爺さん宛の言葉を書いて、無茶苦茶に歩き、林道に出た少年は、バスに乗り、舟に乗り、長崎の自宅へ戻った。

一方、しばらくして、山菜採りを終えて帰ってきた爺さんは、庭に書かれた文字を見た。そして珍しく笑った。

少年はそれ以来、この爺さんの家へ、頻繁に訪れるようになった。
「秘密の場所」として、この場所を少年は誰にも言わなかった。
森の中にポツンとある古い家、そこに何かを感じたのかもしれない。そんな少年を爺さんは、いやがることもなく受け入れいていた。

黙々と日々の生活をこなしながら、要所において、自然との付き合い方や日常生活のあり方、やり方を言葉少なく少年に教えた。
その後、何かあるたびに、秘密の場所を訪れていた少年も大人になり、大学進学のために東京へ向かった。
東京では忙しい日々が続いた。ここは時間の流れが全く違う世界だ。

そして1年後、帰省した彼(少年)は、久しぶりに秘密の場所を訪れた。
家は変わらずあった。
爺さんは縁側に座って寝ていた。木漏れ日の中で寝ている爺さん、顔は薄らと笑っている。
「こんちわ」
彼は呼びかけたが、返事はない。
近づき、爺さんの肩に手をかけた。爺さんはそのまま倒れていく、慌てて抱きかかえると冷たい、かすかな死臭もする。
その時、彼は地面に書かれた言葉に気づいた。
「俺が死んでいたら、その時は山に埋めてくれ、それが生きることだ」
森の中、青葉の生い茂る木々の間から見える空は青く、そして遠かった。
その時、初めて会った時に、帰り際に地面に書いた言葉を彼は思い出した。
「人は何故生きるのですか」

時間の流れの中で、いつかは訪れる死。それでも生きる。
よく分からないけど、彼の心に爺さんが生き続けることは確かだ。


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