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第二の人生 定年後をどう過ごす このままで、いいのか?

今年65才になる。
人生余りやり残した感はないけど、なんだかスッキリしない。何故だろう。仕事を全て辞めたらスッキリするのだろうか。
今年一応句読点は打つ予定だが、余生を楽しむセコンドライフ、蕎麦打ちする、家庭菜園、妻を連れて世界旅行、国内温泉旅行、地方移住、古民家リノベーションしてレストラン。海外移住。色々手段はあるが、その目的はなんだろう、その先は墓場しかないのに、そんなもんでいいのか。
スッキリしないなぁ。原因は俺自身にあるのかもしれない。

妻とか子供がよく言う。
「おとうは、何時も焦っている」
俺は常に時間がない、何か追われている気がしている。それが焦りになって、私につきまとっている。
第一印象では、好きなことやって、めげないで、意外と差別主義、それでも優柔不断、暢気な男に見えるようだ。長年付き合っていても、そう思っている人は多い。

見た目と心の動きは別問題で、観察力のある妻とか娘2(長男(息子)、長女(娘1)、次女(娘2))はそれを見破っている。また親しい友達は感づいている。

さて、この焦り、つまりストレス、実は昔は無かったのだ。
始まりは、社会人になってからだ。
大学までは、俺の生活は、東京の実家暮らしで、好きなことのやりたい放題だった。

小さい頃から始まる
小さい頃から、常に妙な自信があった。これはお袋の洗脳だと思う。物心ついてから、
「お前はね、本当は頭がいいし、何でもやれる。やれば出来る。やれば、お前は凄いんだよ」とお袋に言われ続けていた。今思えば、すげー親だ。俺は子供にそんなことは言えない。
だから、俺はやればなんとかなる。それを信じていた。

小学校4年までは、線の細い子で、運動会の徒競走でブービー争いだった。しかし、めげずに毎日、悪ガキどもと外遊びをしていたら、段々と体力も付き、6年でリレーの選手となり3位で表彰されるまでになった。
水泳も、高松のお袋の田舎で、夏休み中、毎日海に行って、地元のガキどもと遊んでいたら泳げるようになった。だから6年生の臨海学校では、遠泳クラスに入り遠泳を泳ぎ切っていた。
「俺はやれば出来る子供だ」勘違いが激しくなっていく。
この辺りから、ある程度自信家になっていたことは確かだ。

中学では、サッカー部に入る、またUコン(模型飛行機)でも遊んでいた。
サッカーの部活以外でも、弟と地元の小学生を集めて小学生のサッカーチームを作り、教えながら練習していた。そしたら地元のサッカー団に全員スカウトされた。そのままチームは移転して、弟達は大きな大会にも参加した。
メンバーの1人は後に引っ越し、藤枝東サッカー部のレギュラーになった。

Uコンはエンジン付きの模型飛行だが、金もないので、市販のキットの設計図を貰って、材料を加工し、一から作っていた。この時期、地元の多摩川では、模型マニアの青年達がよくUコンを飛ばしていた。
俺は近所の模型屋で青年達の指導を受けて、大会にも出るようになった。
すると、また弟と近所のガキどもの先生にされて、何機も飛行機を作ってあげていた。
そして、そいつらと遊んでいた。この時期は、実家には常に子供達が集まっていた。
今見ても分かるけど、それほど人望のある男ではない。独善的だし、でも友達と子分にはことかかない頃だった。

その頃のサッカーとか模型飛行で世話したガキどもが、高校で暴走族の頭、番長とかになっていた。おかしなもんで、大学生になった俺と町で会うと皆が挨拶してくれた。
そんなことで、もの作りの楽しさ、運動部的な関係の楽しさ、人の世話とかを色々と学んでいた。

音楽も好きだった。ここまで自信満々だから、ギターも歌も全くたいしたことないのに妙な自信があった。
そして高校1年の時、友達の誘いで、喫茶でのライブで初舞台。ギター弾き語りだったが、完全にあがった、頭が真っ白で何を歌ったのかも覚えてない。ただ、失敗したのは確かだ。ちなみ誘った友達はそれなりにうけていた。
「なんだ、俺ってやはり才能ないのかぁ」

それ以来楽器は止めた。高校時代、サッカーは止めて、ホンダCB750に乗って、毎日走り回っていた。バイクのスキルもそれなり上がり、毎日が楽しくってしょうがない、人生で一番、適当で刹那的な日々を過ごしていた。
「ここで、焦りは全くない」

何故か挫折する
大学受験、当然浪人する。
浪人時代は、サーフィンブームもあり、海は無理なので、スケートボードを始めた。1970年代の第一期のブームに乗った。これも夢中になってしまい。しまいには大会にでてしまった。そして二浪する。かなり途中で頑張り、何とか大学に進学する。
「やれば、出来る男だったが、第一志望の早稲田の理工は3回落ちた」
「勉強は出来なくてもいい」
ここで、初の挫折。でも焦りはない。

大学では、弟に影響をうけて、モトクロスレースに参戦する。ここで、プロになろうと4年間、必死に頑張る。この時は体力的には一番キツかった。
しかし、大怪我しても、大金つぎ込んでも負けた。勝てない。
世の中には、才能というモノがあり、それには永遠に追いつけないと気づかされる。
完全に挫折した。抜け殻だった。

大学4年の春、モトクロスで大怪我をしてしまい、夏になっても就職先が決まってない。でも焦りはなかった。だって抜け殻だから。
地元を離れたくないので、教授推薦で隣の市にある大手の企業に就職した。

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社会人として再教育(洗脳)
そして、社会人となり、人生の時間の8割くらいを搾取されていく。休日は野球やゴルフとか先輩に誘われ、飲みとギャンブル、風俗・・くだらない。俺も終わりかと思っていた。

それでも、俺のメチャクチャな人格を会社が組織力により、社会人として鍛え直していた。ある意味洗脳でもあるが、昔の会社は**社の社員として、アホな学生達を育ていた。俺を普通の社会人として鍛えてくれた上司達には感謝している。それがなければ、おそらく、ただのワガママな大人として、のたれ死んでいる。

そんな時、1983年、黎明期のトライアスロンと出会う。洗脳から逃れるため、夢中になった。
「練習量が全て、センス不要」
そんなスポーツは初めてだったので、勝負も面白くなった。
当時の鬼畜的な会社では、常に練習時間がない、毎日常に追われているようだった。そこから、焦りも出てきた。

結婚する、家族をもつ
焦りで、30才の時、もっと時間の余裕ある他の会社へ行こうと試験や面接を受けたが、皆同類だった。そうバブルになっていたのだ。
会社の教育のおかげで、多少まともな大人になっていたので、俺も結婚した。そして、社会人として世間に埋没していく焦りが、この辺りから始まったと思う。

その後、抗う俺は、トライアスロン以外にも、スキーブームでスキーも始める。さらに野田知佑さんや椎名誠さんらの生活に憧れて、カヤック、キャンプにも手をだした。スキーとカヤック、キャンプは基本のんびりした遊びだったから良かった。
しかし、その頃ブームなったマウンテンバイクも始めてしまった。これはレースに出るしかない。モトクロスのリベンジだ。夢中になったが、全然勝てなかった。

それでも30才後半、家族も沢山でき、妻は子育で大変となる。俺は仕事も出張も増える。社会人としての地域での仕事も増えていった。時間がないのは当然の事だ。
その頃、相模湖の研修所で中堅社員研修があった。俺は、研修中でも、その後の飲みを控えて、夜中、研修所を抜け出し、深夜に月明かりの中でランニングをしていた。ちなみにこの時期、会社帰りにスイミングクラブで泳ぎ、ランニングで帰宅するとか、色々と練習時間を捻出していた。

研修最終日、自分の現在と今後を15分程度でプレゼンする機会があった。
俺は溜まっていたストレスもあり、トライアスロンをやっている事と、そのとんでもない生活を熱弁した。
意外と好評だった。
特にセンター長の部長が妙に感激していた。
「君は凄いなぁ、俺は感動したよ、頑張れよ」
そうか、秘密にして頑張っているより、アピールした方がいいんだ。その時確信した。世の中が変わってきたのかもしれない。
新聞記事になった時、1985年宮古島トライアスロン。

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転職
その後、どんどんアピールするようになり、会社のグループ雑誌とか会報、しまいには業界新聞も取材に来た。最後はテレビにも名前がテロップでる。会社の携帯電話の名前入りのウエアをもらったりした。
それでも、仕事は大きな転機をむかえていた。世界の仕事の流れが大きく変わりつつあった。
35才くらいから、パソコンを自宅で始めて、ホームページを開き、情報技術の勉強をした。そして40才で起死回生で転職をする。

40才から、ほぼ子供のために働き、しかし、趣味のトライアスロンは細々と続けていた。
この時期は、心に余裕はない。会社もベンチャー企業、仕事1本の失注で終わるような会社だ。そのくせ、海外出張や国内出張で、何日も家を不在にしていた。こんな俺でも子供への責任というものがある。

それでも、出張時には常に水着とランニングシューズを持参して、国内、世界といろんなプールで泳ぎ、町、都市で走った。人によっては充実していると言えるが、こんな生活から俺は逃げたかった。

家族の危機
55才で、子供が大きな病気をする。かなり打ちのめされた。更に親の介護がこの時期から始まる。全く50過ぎても、先が見えない、忙しいと諦めるしかない。これが日本のサリーマンだ。

しかし、娘2の病気が縁で、高校で失敗したギターとバンドも始める。バンドメンバーは娘2の主治医の大学教授や小児科の医者だ。ライブハウスでの本格的なライブは10回を越えた。
ちなみに皆医療従事者なので、俺より仕事に追われていた。
人生って不思議なものだとつくづく思う。忙しい時ほど、焦って色々とやっている時ほど、運や面白いことが転がり込んでくる。

そして、知らないうちに60才になった。
親の介護も終わり、子供も大きくなり、少し暇になる。そこで、娘2の影響で、昔より性能のいいサーフスケートボードも始めてしまった。
これが結構面白い、ボードの性能がいい。今もやってきた。

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そして遊んでいると、ついに子育ても終わり、家のローンも終わり、今度こそ、のんびり行くぞと思い。ここ3年ほど、妻とは何度か国内旅行をし、キャンプもして、山登りもし、沖縄では30年ぶりにシーカヤックをして、旧友と遊ぶ。今年は16年ぶりに家族でスキーにも行った。

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以上が俺の現在までの経歴だけど、皆さんも人生は色々とあるとは思うけど、65才後、皆さんどうします。元気な爺さんも多いしね、取りあえずネットで検索した。答えはステレオタイプのもしかない。当たり前か。

ここで疑問が湧く、心配なことだ。
このまま地元で歳をとっていき、たまに子供達が孫を連れてくる。そんな人生が果たして、この分断されつつある世界であるのだろうか。
今の日本の状況では、No,正社員、ノー結婚、ノー子供。
メディアはフェイク、世界は信じられない程に混沌している。これでは無理だろう。
教育も、No,日本語、ノー歴史、ノー寛容、ノー部活。ノー友達。
あの希望に満ちた日々を取り戻さないと、下の世代(子供達)が孫を連れてくるなってことはあり得ない。

だから、セコンドライフに、蕎麦打ちする、家庭菜園、妻を連れて世界旅行、国内温泉、地方移住、古民家リノベーションしてレストラン。海外移住。結局最後は孤独死。
それでいいのかと思ってしまう。東京の30代独身者が60%、ここで家族が途切れる。老後の生活において、家族と家庭を取り戻さずにいて、未来はないだろう。

おそらく真面に生きられるのは精々後20年の人生。もう80%終わっている。
「やべぇ、なんか焦ってきた」

今更だけど人のために生きることは可能だろうか、妻、子供達のため?
人間って、自分のために生きるより、人のために生きる方が活力となる。
それには、ある種の達観が必要なのだろう。しかし、それはなにか、わからない(現時点)。

それでも基本的な未来と希望は整理されつつある。
これは俺だけの考えでいいのかとも思う。全世代の問題だろう。あの家族の続く、懐かしい世界を取り戻さないと。
(こんなオチでした)

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