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第18回『明日の世界』――227年後の自分はなにをしているのか



 227年後の自分はなにをしているのか、考えたことはあるだろうか? 

 結論からいうと、地球は滅んでいる。


『明日の世界』のあらすじ

 エミリーという少女のもとにテレビ電話がかかってくる。その声の主は第三世代のエミリー、227年後の彼女だった。クローン技術によって人の人生がほとんど無限に延長できるようになった未来、その人類の最果てからかかってきたテレビ電話は、超過額的な力で少女エミリーを未来の世界へと連れだしていく。


 クローンのエミリーはオリジナルのエミリーにこれから彼女が歩んでいく人生を細かく説明していく。月面で働き、さらには太陽系の端まで赴いて建設の下働きをしたりなど、長い人生の中での時間、彼女は多くを独りで過ごした。宇宙空間での仕事はほとんど人間は一人で、ほかは無機物であるロボットや何機物かも分からないような宇宙生命体しか存在しなかった。故に彼女の青春期の恋愛は、人間にではなく岩などに対して行われる行為だった。

 エミリーはその後地球へと帰還し、彼女の伴侶となる男性と結婚する。その男性は美術館に意味もなく展示されていた男性と同タイプのクローンで、何度も脳のコピーを繰り返した結果感情が著しく劣化していた――同時にエミリーも第三世代ともなれば相応に感情が乏しくなっていて、少女のエミリーとの会話は非常に温度差があるものとなっているのだが―― 二人は結婚し幸せな家庭を営んでいたが、夫は病に倒れ死亡する。彼の記憶を抽出しては、エミリーは延々とその脳内映像を視聴し続け、彼の視界から彼を感じ続ける毎日を送っていた。彼女には生きる意味が見いだせなくなっていたのだ。

 そして、地球に隕石が衝突し世界が滅ぶことが確定したことでパニックになる人々とは対照的に、エミリーは過去の自分、オリジナルから新鮮な記憶をもらい受けることで安らぎを得、穏やかに死ぬことを選んだのだった。クローンのエミリーはオリジナルの少女から、母親と昼下がり並んで歩いている記憶を持ち出した。他愛もない日常の風景、感情が欠落したクローンがなにを想っていたのかは語られることはないものの、言葉では確かに彼女は満足をしていた。


 最後にクローンのエミリーは、オリジナルのエミリーに向かって

「些細なことに時を奪われないで クヨクヨしている時間はないの そういった全ては時が経てば消えていくから 素敵な時を過ごして大きな人生を生きるの あなたは今この瞬間を生きている あらゆる死者が羨望するその『今』を」

と助言をし彼女を元の時間に戻す。少女のエミリーは自分が見た光景を深くとらえることはなく、かといって悲観することもないまま "What a happy day♪" と口ずさみ、物語は幕を閉じる。


 

 ドン・ハーツフェルトという作家の特徴

 

 ここまで物語的なあらすじを書いてきたわけだが、実はこのアニメーションを語る上で重大なことをまだ記していなかった。まずはこのアニメーションの予告編をご覧いただきたい、全部とは言わないまでも多少キャラクターなどに注目していただければそれで大丈夫だ。

 ご覧いただいた通り、このアニメーションの、というか制作者のドン・ハーツフェルトの絵柄の特徴は信じられないほどの棒線画だということだ。これなら絵心がない人間でもかけてしまうのではないかと思うくらい、人間とは似ても似つかないような、最低限度の情報でしかないキャラクターが描かれている。しかしながらこんな「ふざけた」絵柄であったとしても、作品を観ているとこのキャラクターたちの個性や人格が宿っていくような気持になってくるのだ。いうなれば、どう見ても人間ではないものが人間に見えてくるということなのだ。氏の作品ではほかにも『きっと全て大丈夫』『あなたは私の誇り』などがあるが、この特徴は一貫して変わっていない表現技法となっている。


 実はこのようなどう見ても記号でしかないキャラクターというものは、インディペンデントアニメーションの世界では数多く登場する。ここで例を挙げてもキリがないのだが、ポピュラーな作品でいえばブラジル映画の『父を探して』という作品などもこれと似たような表現をしているといえるだろう。あとは日本のものでいえば『10本アニメ』なんかで想像してもらえれば、表現としての傾向は掴んでいただけるだろう。


 記号の二重性


 さて、先ほどぼくはこの作品の特徴として「記号」という言葉を使った。一般にというよりか絵画、イラスト方面の世界においてこの「記号」という言葉は必ずしもいい意味を持たない。例えば、「これは人ではなく、ただの記号だ」というような言い方で絵を評するという行為は茶飯事だともいえるだろう。小説でいうところの「これは人間ではなくキャラだよね」みたいな問題だと書けば、主な読者には伝わるのではないだろうか。記号は記号でしかなくて、記号以外のものを示しはしない。もう少し記号論をこねくり回せばそう単純な議論には持ち込めなくなるが、ともかく「記号=ただそのものだけを示す」という意味でつかわれる世界が存在していることをまずは知って欲しい。


 そのうえで、この作品における「記号」とはどんな意味を持ちうるのかということを書かなければならない。このアニメーションのキャラクターは非常に記号的であり、個性を持った顔貌を持っているわけでもない。声も機械的な処理をされていて、まったく温かみは存在していない。人間だとはまったく思えない。それでも彼女らの言動にどうしようもない人間味を感じてしまうのは、むしろ彼女たちが「記号」そのものであるからではないか。ぼくはそう思うのだ。


 どういうことか、それは記号というものが抱えている自己矛盾的な特性によって生じる倒錯が原因だ。例えば一本の棒があったとしよう。絵画の世界でいう記号の認識では「棒は棒でしかない」という結論が出るはずだ。しかし、記号の認識にはまた別の処理方法が存在する。「棒という表象は人でもあり、木などの植物にも見えれば建物にもなる、あるいは男性器だとすることもできれば剣だと言い張ることもできる」ということだ。絵画という時間が停止した世界では、記号はその縛りから外れることは基本的にはない。しかしアニメーションという動きを手に入れることにより、波線の集合体は豊かにその輪郭をゆがめ、記号が本来持っている可能性を体現してみせるのだ。


 色が意味する感情


 また、この作品において非常に重要な要素となっているのは棒線キャラクターのバックに彩られた背景である。乱雑なコンピュータグラフィックスや実写を加工したような背景が、物理的な要因だけではなく、ただ彼女たちの会話の内容などによって変化していくのが特徴的だ。ただ、レイヤーでいうと前景にあたるキャラクターが棒線であるように、ある種の秩序がないように見える背景だったとしても、ときおり驚くべきほど感情に訴えかけてくるのが不思議なのだ。


 予告編の1分10秒あたりのカットなどはその象徴のように思える。これは三世代目のエミリーと夫が並んでいて、本編ではこの直後夫の方が倒れるというシーンとなっている。ぼくにはこのシーンが、上部のオレンジが夕陽のように見える。それこそどこにも夕陽は描かれていないわけで、それこそ記号的に、視聴している側が勝手にそれを夕陽だと思っているにすぎないのだ。しかしながら、話に一切触れられていないにもかかわらずこれを夕陽だと思ってしまうのは、彼女にとっての転換点として、感情が大きく揺れ動いたという「黄昏」を汲み取っているからなのだろう。以前書いたnoteでも触れたのだが、風景から我々がなにかを感じているとき、往々にして見ている人間が勝手に自分の気分を重ねているにすぎないのだ。アニメーションにおいて観客の気分を作るもの、それは前景たる人物が紡ぐ、物語なのだ。



 自分が続くことを前提として生きる
 
 

 クローンのエミリーは、過去の自分に対して「些細なことに時を奪われないで」と告げる。それはエミリーが227年間生きていくことを前提とした発言だ。当たり前だがオリジナルのエミリーが生きていかなければクローンのエミリーの存在はありえない。これは特にSF的な設定を用いなくとも説明がつくことで、ぼくたちが未来を想うとき、当然ながら生きていることを前提として仮想をしている。来年イベントに出ようとか、半年後本を作ろうだとかそういうことだ。仮に生きていくことを望んでいなくとも、明日死のうと思うことは今日を生きるということを前提としている。ぼくたちがものを想うとき、前提としてぼくたちは生きている。死んだ後のことを想ったとしても、視点人物は常に自分だ。


 少女のエミリーは自分という存在が227年続くという事実を知ってなお、「今日もいい日」と今を噛みしめる。その記号に込められた可能性について、ぼくはまた考えていきたいと思ったのだ。


 久しぶりの更新となった。精神的に非常にひっ迫していた一週間が過ぎ去ったので、ともかくはリハビリ的に今週は2本くらいのnoteを書こうと思う。どうかまた、よろしく。

 

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