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コロナ禍と学生生活の狭間で(Scheherazade.)

コロナ禍で学生の貧困が問題視された。自分も当事者であるため、声を上げた。だが、この問題の根本に迫った言説はどれほどあっただろうか。メディアの取材や世論は「コロナによる学生の貧困」ばかりを問題視する。元から存在していた「学生の貧困」にスポットを当てた報道は片手で数えるほどだった。コロナ禍と学生生活の狭間で、忘れ去られたものはなかっただろうか。

私は生活費を自費負担することを条件に大学進学を許された。当初は授業料に関しては親持ちという話であったが、気づけばそれすらも自己負担という形になっていた。それらを賄うには奨学金の利用とアルバイトをするしかなかった。奨学金を利用するといっても、日本の奨学金は事実上の借金であり、下に弟妹がいる都合上、自己破産の可能性がある多額利用は避けたい、いや避けなければならない。必然的にアルバイト収入への依存度が増えた。
だが、親から提示された条件は「扶養内(年間103万以下)の収入」であった。奨学金と合わせて年間150万以下で授業料を含めて自活する必要があった。授業料は免除制度を利用して半額での支払いではあったがそれでも年間26万円。年間所得の6分の1である。
問題の根本は、「授業料が高いこと」と「真の奨学金」が存在していないことにある。令和2年度から始まった就学支援新制度では家庭の経済状況に合わせた給付型奨学金制度が始まったが、支援を受けられるのはごくごく限られた層。年収によって支援額が変動するのも特徴で、私はそれ以前に受けていた支援額よりも減少した。そして、この制度開始と時を同じくして生じたのがコロナ禍であった。

「学生の貧困」に目が行くあまり根本の原因を見失ってはいないか。どんな状況であっても学生生活を安心して送る権利、すなわち「学習権の保障」に関する視点は欠如していなかったか。
コロナ禍と学生生活の狭間で、盛り上がりかけた学習権に関する議論。「学生の貧困」が意味することは「学習権の侵害」である。今一度、学習権に立ち返った議論をすることが必要だ。

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