人間回復のパッチワーク(信濃義人)
「春はざわざわして、置いてきぼりを食うようで嫌いなんです」、彼女はその言葉を残して実家に帰っていった。
今から20年ほど前になるだろうか、僕は北陸のある県で勉強会を主催していた。自分たちの生活や起こっていること、悩んでいること、感じていることを話し合って生き方を考える勉強会だ。戦後に生活記録運動というものがあったが、そのようなものである。彼女とはそこで知り合った。
彼女は重い精神疾患を患っており、大学生活にも支障をきたしているようだった。
そんなある晩、彼女から電話があり、勉強会場にもなっていた僕の家におしかけてきた。いきなり日記をたたきつけ、興奮した面持ちで「読め」という顔をする。読んでみると、退廃的行為など、びっくりするようなことが綴られていた。それから奇声をあげて暴れだし、僕の住んでたアパートは4階だったが、そこから飛び降りようとしたり、困った僕は、勉強会仲間にも助けを求めて、何度も奇声をあげたり、飛び降りようとする彼女をなだめ、夜が明けて朝になって、彼女を精神病院に連れて行って、入院してもらうことにした。精神病院への入院は当時、なんとなく罪悪感も感じていたのだが、そのときはそうするしかなかったし、彼女が来た時に、救急で対応してもらえばよかったのだとも今になっては思う。
そこからお見舞いに行くようになった。入院はいいものの、これから彼女はどうなっていくのだろうと思った。話をしていくうちに、彼女が母親から「仮病」と思われていたことを知る。実家から母親に来てもらい、確か医師も交えてだっただろうか、決して「仮病」などではないと理解してもらい、母親も涙を浮かべ、彼女を抱きしめていた。彼女は実家に帰って療養することになった。正直なところ、あの晩のことは僕にとって強烈なトラウマになっていて、ほっとした。「もう大学は卒業できないだろうな」とも思っていた。寒暖の差が激しい木の芽どきに、北陸らしいどんよりとした曇り空のもとで、僕は彼女を見送った。「春はざわざわして、置いてきぼりを食うようで嫌いなんです」と彼女は言った。その言葉はずっと心に残っている。僕は北陸から大都会に出てその後、僕自身が精神疾患を患い、その言葉を実感することとなる。
僕は、妻が「実家のある長野県に住みたい」ということもあり、長野県で生活するようになった。引きこもっていたころに、彼女が卒業したという話を風の便りに聞いた。よかったなあと思ったよりは、自分がそういう状態だったし、トラウマも引きずっていたから、あまり興味をもてなかったし、連絡をとろうとは思わなかった。やがて僕も回復することとなったが、春になると、「春は嫌い」の彼女の言葉はいつも思い出した。
2年前の木の芽時に、彼女から、フェイスブックのメッセンジャーに「大変ご無沙汰しています。大変お世話になりました。覚えていただいていますでしょうか」「現在少々の服薬にて、自活し、とても健康に過ごしています」と連絡があった。忘れるはずもない。涙が出た。再びつながることとなった。
そのころ、僕は長野で北陸のときのような勉強会を立ち上げ、コロナ禍の生活記録をまとめた本の編集に取り組んでいた。僕は「発行にあたって」と「終わりに」を担当した。そこで僕は、南米チリのアルピジェラにふれた。アルピジェラは、ピノチェト大統領の軍事独裁政権により、家族を奪われた女性が中心となり、自国の現状を世界に訴えるパッチワークである。女性たちは共同作業でアルピジェラを作り、バラバラにされた生活をパッチワークで復元し、つなぎあわせたものだ。女性たちはつなぎあわせることで癒され、生産と収入の場だけでなく、発言の場となり、独裁政治に立ち向かう力となった。コロナ禍の生活記録も同じ意味をもつ。
本を購入した彼女から、次の感想をもらった。
“こんばんは。「コロナ禍の生活綴方」拝読しました。このような言葉が本として残ることが貴重なことだと思います。最近、ずっとやってみたかった手織りを始めたんです。これは入院中に作業療法で夢中になってやっていたものとほとんど同じです。「発行にあたって」の中のパッチワーク(南米チリのアルピジェラ)のエピソードとも何か重なりました。この間とても心に響いた言葉がありました。信州にルーツのある方に聞いた言葉です。
美しい里山の風景などに対して使われるようなのですが「営みが風景をつくる」だそうです。今のこの状況に関してだけではなく、日々心に何か思いつつ自分自身の営みを重ねることで出来上がったものを、後で眺めてみたいなと思っています。本を読みふと思ったことでした。”
「人生は邂逅なり」(亀井勝一郎)であり、これは僕と彼女の20年のアルピジェラである。木の芽時に再会できないか、待ち遠しく思っている。
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