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4月④ 菜の花の彼方に備中国分寺(総社市の国分寺と満開の菜の花)

       写真:備中国分寺の五重塔と満開の菜の花(Pixabayより)

 今を去ること1300年、仏教に深く帰依した聖武天皇は、国家鎮護のために盧舎那仏(るしゃなぶつ)、つまりは「大仏」様をご本尊とする東大寺建設の詔を出しました。

 これに続けて彼は、日本各地の60余の令制国――律令制に基づいて設置された日本の地方行政区――に国分寺と国分尼寺を建設・整備する詔を出し、それを実行に移します。

 こうした試みは、同時に「電子テクノロジーのなかった時代のインターネット」のような役割を果たしもしたようです。
 それは、中国から東大寺に伝わった仏教と最先端の文化・文明を日本の各地に伝えるためのシステムでもあったのです。

 そのために、すべての国分寺と国分尼寺に、仏教理解に不可欠な「プロトコル(=伝わった情報を理解するための手順や規約などの約束事)」として「法華経」が配布されました。
 で、新たに中国から伝わった情報は、天皇の命令で任地に下った「御言持ち」という地方官がそれぞれの令政国に伝えたのでした。

 つまり「東大寺」を「巨大サーバー」、「御言持ち」を「ネットワークシステム」、そして「国分寺・国分尼寺」を「コンピューター端末」と考えれば「奈良時代のインターネット」だと考えることもできるわけです。

 総社市にある、そんな備中国分寺と周囲の風景も「にっぽん原風景」のひとつなのではないでしょうか。

 そんなことを思いつつ、こんなコラムを書いてみました。おひまなときにご覧ください。

 岡山県総社市の備中国分寺に、江戸時代に再建された見事な五重塔がある。そこには古代日本の地方と中央、いずれもの繁栄の模様が映しだされている。

 そのむかし備中は、中国山地の優良な砂鉄、瀬戸内の製塩、朝鮮半島からの先進技術の摂取などを背景に栄えた吉備国に属した。五重塔は、それ以来の当地の繁栄に支えられている。

 いっぽう奈良・平安の律令政府は、仏教普及のために総国分寺の東大寺を、ついで前後200年をかけて各地に国分寺を建立した。
 それは仏教のみならず、大陸伝来の先端の文明を日本のすみずみに伝え、一挙に国土全体の文化水準を高める試みであった。

 もっとも、そこには日本人自身の手になる工夫がこめられもした。その象徴のひとつが、ふつう中国では石造りする仏塔を、木造で建てた五重塔である。

 周知のように阪神大震災や東日本大震災、熊本地震では多くの近代建築が倒壊した。で、最近は振動を逃げる「免振」、それを抑える「制振」などの技術が注目されるようになっている。
 ところが実は1300年以上もの昔、五重塔の建造には「制振」技術が活かされていたのである。

 そこでSF作家の小松左京さんから聞いた話を思い出す。

 なんでもロシアのボルゴグラードに、3200ンの鉄で出来た「母なるロシアの塔」というのがあって、強い風から守るために、内部に振動を抑える振り子が通してあるのだという。

 で、小松さんがロシア人を相手に感心したところ、
 「何をいう。これは日本の五重塔の、宙に浮かんでいる心柱から学んだんだ」

 その五重塔の周囲に広がる田園をこの季節、一面のレンゲが鮮やかな赤紫色に染めつくす。

 地方と中央いずれもの繁栄を願った大昔の日本のリーダーたちの、確かな技術にささえられた熱い思いが、そこには彷彿するような気がする。

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