69. ブダペストでハンガリー動乱を思い出す
写真:ハンガリー動乱で破壊されたソ連軍の戦車(Wikipediaより)
「ハンガリー」と聞けば、反射的に「動乱」という言葉が思い出されます。大昔、13歳になったばかりの小学6年生のぼくに、10歳年上の兄がこの事件のことを教えてくれたのです。
それは1956年10月23日、ハンガリーの労働者や学生が、社会主義ソ連の傀儡だった同国政府の圧政に対して蜂起したことに端を発しました。自国民による政治を取り戻そうと、主な政府機関などを占拠したのです。
それに対してソ連は、すぐさま軍隊を投入しました。で、暴力的に市民の活動を圧殺したのです。当時の日本の新聞には、ハンガリーの首都ブダペストの市街を、わがもの顔で蹂躙するソ連軍の戦車の写真が掲載されていました。
この蜂起を先導したのはハンガリー勤労者党です。彼らは大衆に人気のあった前首相のナジ・イムレを復職させました。が、このころ、ブダペストではすでに民衆とソ連軍の間に戦闘が始まっていたのです。
その後は停戦が行なわれて平穏が戻ったりもしました。が、まもなくソ連軍が改めて介入して蜂起を鎮圧します。翌年早々、ソ連が新しい傀儡ハンガリー政府を樹立し、その結果、ソ連軍の手で数千人の市民が殺害され、25万人近くが難民となって国外へ逃亡しました。
以後およそ30年、ハンガリーではこの動乱について議論することが禁止されます。それが1980年代におけるソ連のペレストロイカ(政治体制の改革)の進展で再検討が進み、1989年にはハンガリーで第三共和国が成立。10月23日は同国の祝日になりました。
そこで、現代日本を顧みてみます。と、1652年の「サンフランシスコ講和条約」の発効で「独立を回復した」ことになっています。
が、沖縄の随所では、大型ヘリコプターが炎上・墜落・大破するなどの事故、米軍兵士による強姦事件などが続発しているのです。それを日本の法律で裁けない日米地位協定の存在を思い出すと、やっぱり日本の政府はアメリカの傀儡政権にほかならないのだなあと思わされます。
こうした一種の属国状態が、ハンガリーの30年の2倍を超える4分の3世紀も続いているのです。これこそが「戦後日本のレジーム」の本質だというほかないように思います。
ブダペストを訪れた際には、こんなことに連想が広がったものです。