5月① 海山のあいだに深き青い森(「海やまのあひだ」の熊野古道@和歌山県)
写真「熊野山地から太平洋を望む」(Wikimediaより)
漂白の俳人・種田山頭火に、余りにも有名なこんな句があります。
分け入つても分け入つても青い山
当たり前の話だし、破調だし……と思っていると、文字数はきちんと17文字、一度でも耳にすると、それが永遠の記憶になってしまう点、どうも「当たり前ではない」という気にもさせられます。
この句は1926年、行乞流転の旅に出た山頭火が、九州の馬見原から高千穂をめざす途中の作だろうと言われているようです。
ですから、紀伊半島に位置する熊野古道とは何の関係もありません。
ただ、どちらの場所も照葉樹やスギ・ヒノキなど、常緑の樹木が卓越する森林だという共通点があります。
そんな場所では、とくに新緑のころ、確かに「分け入っても分け入っても樹木の緑」のなかを歩くことになります。
西日本の「海やまのあひだ」の大自然のありようを見事に切り取った俳句だと言うほかないようです。
釈迢空の最初の歌集『海やまのあひだ』に収められた歌にこんなのがある。
葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり
それは大自然とともにしかありえない人の生の舞台を鋭く切りとって歌い上げていると言えそうだ。
とはいえ、現代の都市に暮らすぼくらは「文明の装置・制度系」を「自然」に見立てて暮らすほかない。
ただ、ひと皮むけば、そこにはナマの自然がある。
早い話が「腹が減った」という感覚も肉体というナマの自然の声にほかならない。で、それを癒やしてくれる魚や肉、米や野菜も自然の賜物である。
生は「海やまのあひだ」でのみ可能なのだ。
だから、だろう。「文明」に倦み疲れると、人は自然をめざす。平安時代後期、末法の世には法皇・上皇をはじめ、毎年2、3万人もの人々が、平安京から370キロも離れた紀伊の山中へ、3か月をかけて熊野詣でに出かけた。
その「紀の国」は「木の国」にほかならない。
原始林が鬱蒼と茂る熊野山地は、太古の昔より、霊魂がこもる秘境であった。そこに至る、熊野権現の分身である王子が随所におわす熊野古道は、大河を抱き、彼方に太平洋をのぞむ、文字どおり「海やまのあひだ」にある。
そんな熊野古道が2004年、ユネスコ世界文化遺産に登録された。
古人を真似て、そこを歩く。と、かつて末法の世に対峙した人びとにも似て、大自然のなかで不透明な時代の先ゆきを思い、文明に倦み疲れた心身を癒やすことがかなうような気がしてくる。
その一角に「霧の里」の名で呼ばれる中辺路町高原という在所がある。黒潮に暖められた空気が、夜に山肌を登って冷やされ、とくに雨のあとには一切の視界を閉ざす乳色の朝霧となる。
が、霧は直後の晴天の兆しでもある。やがて陽が射す。
と、まわりを囲む熊野の峰々が荘厳な姿を現し、近くの高台からは広大な太平洋が望める。
くわえて高原の栖雲寺(せいうんじ)、無縁仏を供養する場所の近くに立つ石仏たちもまた、不透明な時代の先を見通そうとしているかのようである。
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