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「身体あってこその知能」という考え方

 写真:左=コンピューターHAL(Wikipediaより)、右=映画「AI」DVD

 1968年のことだ。映画「2001年宇宙の旅」が封切られて人気を呼んだ。
 この映画には、人間の分析力や判断力をはるかにしのぐ「コンピューターHAL9000」が登場する。
 しかし、改めて考えてみると、HALに人間の心や行動を理解することはできないであろう。

 なぜなら、どんなに情報の処理速度が速く、記憶容量が大きくても、現実と向かい合える身体が実在しないのだから……。
 知能という能力は「身体があってこそ」のものなのだと思う。

 このことは、スピルバーグの映画「AI」(Artificial Intelligenceの略。直訳すれば「人工知能」)を見た際に感じさせられたことでもある。それは、こんな場面を見たときの直感に由来している。

 この映画の一場面で、きわめて人間に近いアンドロイドの「少年」が、人間になりたくて、サラダを食べる。
 その瞬間、彼の体内の電気回路が水分でショートして「壊れてしまう」のだ。このことは、人工的に作ろうとすれば、脳そのものよりも身体の他の部分のほうが、格段にむつかしいということを暗示している。

 そこで、ときに「人工知能」とも呼ばれるコンピューターである。その最も手軽なパソコンでさえ、今では数千万個の半導体を集積した中央演算装置を搭載している。
 それが今なお数を増やし、高性能化し続けている。やがて情報処理に関する限り、コンピューターは人間の大脳を凌駕する能力を持つことになる。

 しかし、大脳を含む人間の脳は、じつは人間の身体の一部にすぎない。そして身体には、脳に伝える「情報」を取り込む多様な器官が備わっている。   
 光や音、匂いや味、寒さ暖かさや肌触りを感知して脳に伝える目、耳、鼻、舌、肌などである。さらに胃や膵臓といった臓器も、脳に空腹状態や満腹の満足感などの情報を伝える役割を果たしている。

 それに対して脳は、これらおびただしい量の情報を受け取り、残すべきものを峻別して記憶し、再編成し、必要となったときに思い出し、安全かつ快適に生きていくための対応方法を選択し、実行命令をくだすのだ。
 それは、コンピューターの中で行なわれている情報処理に比べると格段に複雑で、かつ非論理的な側面を濃厚に帯びざるをえない。

 そこで思い出すのは、こんな体験である。つまり、50年以上も昔、私は叔父の家で未熟なトマトに砂糖を振りかけて食べた。そしてその直後、高熱に見舞われた。
 トマトが腐っていたわけではない。たまたま、そういう巡り合わせになっただけだ。しかし、その後、匂いが鼻について、トマトが食べられなくなり、その状態が10年も続いた。

 ところが今、ぼくはトマトが大好きだ。きっかけが何かは覚えていないが、脳の反応を変化させる何かの要因が作用したのに違いない。しかし、その複雑なプロセスは、とうてい解明のしようがあるまい。

 こう考えてみると「まるで人間のようなロボット」は、情報処理のためのコンピューターに加えて、その「身体」の内外の状態を「情報」として正確に取り込むインターフェースを備えなければならないということになる。
 ここでいうインターフェースとは、「主体が環境との間で『情報』をやりとりするための接点となる装置」のことだ。
 ぼくがトマトの味や香りを記憶した舌や鼻、それを取り込んで強い不快感をもたらした複数の臓器は、その一例にほかならない。

 AIはいつか、そんな身体を持つことができるのであろうか。

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